五・竜

 その日は珍しく雷鳴が轟き、とても屋外へ足を向けられる状況ではなかった。

 ましてや任務を受けるなんて酔狂なことをする人間はいるはずもなかった。

 だがリオンは構わず、相変わらずの一向に最下位の冒険者の証しである銅のプレートを受付嬢に見せて、迷宮に入る手続きをしようとしていた。

 けれど受付嬢はリオンのプレートから伺える実力と、申請した迷宮の難易度と差異から、善意からの辞退を申し出た。このやりとりも一体いくつしてきたのだろう。リオンはそろそろ、いい加減昇級試験に挑もうかと本気で悩み始めたところで――


「あいや御仁! よければ我々と共にいかないか! 一応は銀である我々と行けば、必ずやそなたに勝利をもたらそうぞ!」


 懐かしい、重低音が響くような声。しかしながら威圧感もなく、心地よいとさえ思われた声色は、彼は過去にも聴いた覚えがあって。


「は?」

「え?」


 ついに彼らは再会した。間近にいればリオンの首が痛くなるほど、見上げなければいけない大男。

 かくして彼らの再会は、激しい雨が止まず、雷が頻繁に響く日になされた。無論、彼は豪雨の中、構わず逃げようとしたが、再会に感動の涙を流したユーリスによって阻止されたのは、リオンにとって誠に遺憾であっただろう。


「お前、騎士をやめたのか」


 彼らは冒険者のギルドの端にあるテーブルで話し合うこととなった。

 リオンはまだ彼――ユーリスの申し出を完全に引き受けたわけ、ではないが、

リオンの覚えによれば、彼は国の騎士を務めていたはずだ。それも兵士をまとめるとほどの、将軍という重鎮。

 しかして見るところによると、彼は国の紋章が刻まれた甲冑を捨ててしまったらしい。

 今は彼に体躯に見合った、大柄な皮の鎧を着ていた。たしかにこちらの方が、銀の甲冑よりかは、温度の差が激しい迷宮の中では動けるだろう。


「あぁ、あの後、国が――亡びた。俺の仕えていた王家も、守るべき貴き御仁も全ていなくなった」


 彼は傷が残る顔にふと影をよぎらせ、小さな声で事の顛末を話し始めた。

 リオンが盟主であり女王の王配を殺した後、王配の生家がある国が、謀反の兆しありと国に攻め入ったそうだ。

 そしてユーリス含める軍が、徹底抗戦をしている最中、女王が勝手に降伏勧告を受け入れ、国は分割されることになった。

 無論、女王もただ一人残された王女も無事ではなく、先日、彼の国で処刑が決行されてしまったらしい。

 そもそも、女王は彼の国で求められる血筋ではなかった。血統を最も大切にする彼らは、ただ唯一の天使の忘れ形見であった彼女が羽を蛮族によりもがれていたから、羽がない天使だと――そう信じて、王配を送り込み、和平が成り立ったというのに、全てが虚偽だったゆえに激昂したというのだ。

 リオンは天使を詐称するなんて――と、思う。ほんのわずかな短い時間ではあるが、女王に目にしたとき、リオンは彼女が天使ではないと、羽をもつ人間の特有の気配がないことから、ただの貴婦人だと思い込んでいたのだ。

 羽を捥がれようと、彼らの残虐性は、傲慢さは変わらない。

 だが本当に彼女は人間であった。

 処刑は残虐を極めたものだったらしい。未だに祖国の敗戦が信じられない人間が民衆に紛れ込んだ見た光景は――あまりの惨状に涙と嘔吐が止まないほどだった、とユーリスは言った。


 リオンはせめて、あの王女が最後、苦しまずにすんだのならば――と思うが、どうやらその願いも虚しく潰えてしまった。処刑と処された祭りは、一週間かけて行われた。つまり、一週間かけて処刑が行われたということ。

 ユーリスはそれでも王配の死がなくともいずれそうなっていただろうと察した。だから、落ち込む必要はないとも。

 天使と名乗る輩は殺したいが、無辜の人間が死ぬ状況を、しかも自らのせいで死したことについては、リオンが何も思わないわけではなかった。

 暫く落ち込んでいたところで、ユーリスは明るく声色をかえて、自身が冒険者になった理由を話し始めた。

 彼が冒険者を始めるきっかけになったのは、リオンの話からであった。


「冒険者になったのは、お前があれだけ楽しそうに冒険を語っていたからな。どうせ住むところもなくなったんだ。なら、一番楽しそうなことをするっていうのが道理だろう?」


 そういうことでここしばらくは、彼はパーティーを組み、迷宮を攻略し、ときには未開の土地を探索していたらしい。

 迷宮都市は、都市といえども一国ほどの広さがある。また、過去の女神と、古来住んでいた人間によって成された不可侵条約。それらは未開の土地の探索を目的とした、純粋な好奇心ですら、天使と称する人間たちが羽を使い空中を舞うことを許さなかった。

 決して開いてはいけないパンドラの箱。禁忌に触れればたちまち、彼らの羽は腐り落ちるという。

 ユーリスは勿論、リオンですら本当に禁忌があるかどうか見たことはない。これはあくまで噂であった。そもそも羽がないし、彼らを見かけることなど滅多にない。リオンは過去、羽が生えていた聖女と接したが、彼女はそもそも羽を使えないほど衰弱していた。

 空を飛ぶことが許されないこそ、迷宮都市はいまだに多くの謎に包まれている。誰が――が、迷宮を作ったは分かれるが、何故、いつは未だ解明されていない。

 冒険者が魅了されてやまない、心擽る未知なる冒険――


 ユーリスは説明をいったん終えると、自分の組んでいる仲間たちをリオン紹介した。


「こいつはティム、偵察係だ。コイツはアルト、後衛を任せている。で、こいつはラグ、いつもは俺と一緒に前衛を担当している――のだが」

「?」


 ユーリスの後ろにいる冒険者はリオンに遠慮がちに挨拶をする。それにしても、彼らは生粋の冒険者というよりかは、やけに身綺麗な格好だった。所作もどことなく、騎士を思わせる。

 しかしその疑問を抱く前に、ユーリスは、リオンにとって信じがたい言葉を口にした。あまりの突拍子のなさに、彼は危うく戯れで口に含んでいた麦酒を吐き出しそうになったぐらいだ。


「今回は俺とお前の二人旅だ。気軽に行こうじゃねぇか、相棒」

「は?」


 こうして、急遽、リオンとユーリスによるパーティーは結成された。尚、受付嬢から見れば、ユーリスの方が歴戦の戦士とも見て取れたので、すぐに許可状が発行されたことについて、リオンはやはり不満げな表情を隠せなかった。





「どうしてあのパーティーを抜けた。良いバランスだったじゃないか」


 今回は迷宮の踏破ではなく、迷宮があると思わしき方向への探索である。故に空は本物であり、今は雷雨も少し収まり、出発するには及第点の天気であった。


 ユーリスは今回の旅に当たって、ただリオンと同行したのではない、彼らのパーティーを抜けて、新しくリオンとの二人きりのパーティーを組み、申請したのだ。しかし、わざわざそんなことをしなくとも、迷宮に一度入るだけなら手間なだけである。


「あいつらだって、元は俺と同じ国の兵士だったんだ。まぁ、元上司がいたらやり辛いってこともあったから、これで良かったんだよ」

「……俺は誰とも組まないと、言ったはずだが」

「まぁそういうなよ、相棒だろう?」


 そう軽口を言いながらも、周囲の警戒を怠らないのは、歴戦の戦士であった証しだろう。未だ現役で戦場に立っていた彼の肉体に衰えは見えない。彼の国の兵士であってもここまで戦場に立ち続ける人間は滅多にいなかった。


「それに」

「お前さん、今回、お目当ての物があるから、行くんだろう」

「……」


 ユーリスは知っていた。決して彼らが生き返らないよう絶対に頭を――脳髄をぶちまけるほど執拗に殺す彼の憎しみの深さは測りしない。ただ、憎悪にまみれた表情を戦場で一目見るだけで、リオンが語らずとも彼の過去に壮絶な何かがあったことは推察できた。


「安心しろ、お前の復讐の邪魔はしない。そうさな、俺が食えるぶんの分け前があればそれで良いんだ」


 ユーリスは大剣を持ち、彼に笑いかける。それに、唯一のバディとして組んだ理由。ユーリスは語らなかったが、彼は自滅することを無意識に望んでいる傾向が見られた。まるで敵に殺されてもいいといわんばかりの戦法。効率的に殺すことに長けているということは、より死地に近いことを意味する。

 彼が死ぬことを防ぐストッパー。リオンとの友情が、どこまで彼を引き止めるかわからない。けれどしないよりはマシだ。あの時は何も言わなかったが、彼とともにいた仲間だって、リオンのことを知って、そして彼がむざむざ殺されてほしくないとユーリスに望んでいた。


「……今回の目的は」


 知ってか知らずしてか、リオンは観念して今回、自ら赴く理由を口にする。


「竜だ」

「……竜?」

「小蜥蜴や、蛇の類じゃない。何千年、何万年の刻を生きる、本物の龍」


 竜――この世界ともいえども、魔法は戦場に常駐しているユーリスですら久しく見ていない。その、失われつつある魔法そのもの、幻の生命。それが竜という生命だった。

 けれどもリオンは、まるで見てきたかのように竜は存在するという。

 と、リオンは唐突に、竜という生命ではなく、迷宮についてユーリスに問いかけてきた。


「お前は女神の聖遺物をどれぐらい知っている」

「聖遺物? 試練を潜り抜けた人間のみが与えられるという、あの?」

「あぁ」


 ユーリスが知っていることは、聖遺物を中心に迷宮が築き上げられているということ、女神の試練を乗り越えられれば女神から褒美を貰える。これだけだ。大部分の冒険者も、恐らく女神の聖遺物についてはこれだけしか知らないだろう。聖遺物が幾つあり、どんな物であるかは後世にも伝えられているが、ほとんど迷宮を踏破したものはいないため、また踏破したと律儀に報告する人間もいないことから、どこにどの聖遺物があるなどはどんなに調べても推測の域を出なかった。

 しかしリオンはどんな研究者ですらも、未だ到達し得ていない結論を、何てことないように口にする。きっとその事実の一端ですら人に伝わったら、それだけで彼の国の戦士たちが条約を破りかねないほど危険な言葉。


「聖遺物は、女神の遺骸の一部だ」


 彼の国は女神を信仰している。あんなにも盲目的に女神を崇拝しているのは、時折女神が降臨し、彼らに天命を告げているだからだ。その彼らが、迷宮の正体が女神の遺骸と分かればどんな手を使ってでも中立地帯である迷宮都市に押し寄せることだろう。

 しかしここには羽の生えた人間はいない。いるのは、ただ二人の冒険者のみ。

 彼は説明を続ける。ユーリスはなぜか、知ってはならない真実を好奇心で訊いてしまったことに、若干の後悔を覚え始めた。


「女神を構成するのは魂、肉体、精神の三つ。女神を細かく分かたれたのが、いわゆる天使と言われている人間」


 女神の血を引いているわけではない。彼らはまさしく女神そのものであった存在だ。魂がと肉体が粉々に砕けて彼らは生まれた。女神だったからこそ、聖遺物を以てして蘇生も可能としてしまう、奇跡の存在。


「まさか、聖遺物は天使でもあるのか」

「そう、一人の女神が分裂した、複製体クローンみたいなもの。いわば女神の劣化品が、あいつらだ。まぁ羽の生えた人間は総じて性格が悪い。まぁ元になった女神様も、相当良い性格をなんだろうよ」


 リオンは吐き捨てるように、顔を歪める。女神本人でなくとも、それに価する人間に迷惑をかけられなければ、到底そんな表情を浮かべられないであろう。

 しかし――ユーリスは彼の物言いに引っかかった。

 一人の女神――女神はユーリスが知っている限り、一人しか存在しない。けれど敢えて「一人の女神」と、リオンは称した。


「待て、一人とは、つまり」

「あぁ、――……女神は二人いる」


 絶句した。女神は唯一神だ。そう、天使と称する人間たちも信じ崇め奉っている。しかし、双子神と伝わっていないとは――もう一人は歴史に抹消されたか? と考えたが、リオン曰く、そうではないらしい。


「女神たちは、姉妹だ」


 女神は双子の姉妹であった。リオンが知っているのは、その女神達について嫌というほど知っているから。

 彼の国の人間ですら、滅多に姿を現さないとされる女神。その女神を見た――というのは、きっと彼の国であればそれだけで祝祭が催されるといった、それほどの出来事であった。


「女神は間違いなくバラバラになったのに、未だに天啓を受ける人間がいるのは――『女神の試練を乗り越えた』と判断できるやつがいるってのは、どう考えても矛盾するだろう」


 そう、確かに彼女は竜が殺した。彼女が復活できないように、魂さえ砕いたはずだ。だが未だに女神が天使の前に現れ――あまつさえ天命と称し命令を下しているのは、おかしい。ならば、一人の女神が斃されたときに分かたれた方を、もう一人が使役という名の、今も彼らを弄んでいるといったほうが、正しいのだろう。

 殺されたのが唯一人の女神であったら、世界にとってはそちらの方が良かったかもしれないし、彼らにとって幸せな道を模索できたかもしれない。しかし、実際に竜によって斃されたのは――姉妹神の内の――姉神である。


「双子の姉妹神の名前は、アズラとティリ」


 アズラとティリ――口にもしたくなかった、忌ま忌ましき、仇。

 一人は確かに討たれた。ただもう一人は今もその世界を徒に乱す、リオンが狂うほどの感情を抱かせる、憎い存在。


「神話ぐらいの話に遡る。アズラは間違いなく竜に討たれた。そうして遺骸は分かたれた」


 アズラの死体は死んだ。彼女は確かに死んだ。竜が彼女に致命傷を与え、その身を殺した。しかして肉体を構成していた肉塊は羽が生えた人間となり、魂は天使と称した人間となり。


「アスラは天使と自称している人間の、元になった女だ」


 悍ましいと、さえ思う。神々が去り、人間の時代となっても尚、彼女たちはどこまでもこの世界を浸食する侵略者であった。


「だが、アズラの方は何とかなる。俺が彼女の遺志である天使を殺し続ければ、いずれ魂もすり潰されて、天使はいなくなる。問題はもう一人の方、肉体が聖遺物となった、双子の妹神、ティリ」


 ティリ。アズラ以上に、この手で殺さなければならない存在。

 彼は彼女の面影を思い出したくもない姿を――思い出す。白金の美しく波打つ髪に、あどけない少女の面影を残す、何事も犯さない、無垢な瞳――まさしく、女神と謳われる存在そのもの。


「アズラが悪意の塊で出来ている女なら、ティリは善性で構成されている――聖人だ」


 そう、彼女は正しく女神と謳われるべき人格を備えた、正しく女神足り得る人間だった。だからと言って、彼女が罪を犯していないといえばそんなことはなく、リオンこそ云わせれば、彼女こそが正しく大罪人そのものである。

 けれど竜が殺していたのが、アズラで良かったと考える。そうでなければ、世界はとっくの昔に亡びていただろうから。


「あいつはまだ魂が分かれていない」


 そう、彼女は深く姉を愛していた。故にティリは、かつて自分を構成していた肉体に触れるという禁忌を犯してでも願いを叶えたいという罪深き人間たちに試練を課し、自分の気分で赦し、姉の遺品を渡していた。きっと彼女もそう、望んでいただろうから。

 ティリはいまだ、肉体は亡びても彼女を構成する肉体はばらばらになっただけで、未だに魂はティリのままで今も存在する。

 リオンはどうしても我慢がならなかった。彼女だけ平穏に、女神として君臨しているなど、彼女の気まぐれで殺された同胞たちを考えれば、到底赦されることではない。


「これから、アズラを殺したと謳われいる竜に行く」


 だから、まずは神殺しを成しえた、かつての同胞に会いに行くのだ。


「女神を討ち、その罪業から何千年と封印されている、既に狂気に至っているかもれない竜を、起こしに行く」


 彼とはあの時以来、会っていない。未だに彼が自分のことを覚えているが不明であったが、どちらにしても会わなければ、先へは進めない。

 彼らは未開の地、奥地へ足を進めていく。竜がいた痕跡を余さず見つける為に、リオンは目を光らせた。





「起きろ、グヴィヴェル。その刻が来た。あのときの借りを返してもらうぞ」


 竜は静かに眠っていた。永遠ともいえる刻。彼は役目を終え、牢獄という名の封印を以て、世界の終わりまでその瞳は開かれないはず、だった。

 しかし、その檻が――戒めが解かれる音がする。彼はようやく重い瞼を開き、来訪者の姿を視認する。

 懐かしい友の姿。姿は違えとも、魂は確かにあの刻と全く代わりない、唯一の友であった。グヴィヴェルは――リオンの名を呼ぶ。それは咆哮となり、彼らが立っている大地を震わせた。


『あぁ――久しい、懐かしい友の匂い』


 グヴィヴェルの身体は朽ちかけている。その身体の嗅覚は、ほとんどの五感は竜が憎むべき彼らたちにより奪われていた。それでも彼を視認できたのは、竜が魂を感じ取る性質を持っていたから。


『その手に持つのは――……ドラヴィグのものか』


 彼は問いかける。かつての友が、同胞であった彼の遺骸を手にしていた。それは女神によって討ち取られ、女神の血が混ざり、忌むべき形に魂が歪められた、同胞であった者の、最期の姿。

 そこに魂は既に無い。けれども呪いだけは――ドラヴィグが最期に想った願いは、彼らを殺す呪詛となり、決して散ることなく蓄積していく。

 本来ならリオンも竜の仇敵であるはずと同じ種族だった。彼が手に持つことすら、業火に焼かれるほどの痛みを持つはずだ。

 けれども彼は、何てことのないのように、その遺骸であった竜であり女神を呪った物を持ち続けていく。いや、既に痛む心はないのかと、グヴィヴェルは想う。


「悪いが、これを墓標に入れるのは、まだ先だ。その前に――女神を、殺す」


 眠りから覚めるきっかけとなった一端を手に掲げ、リオンは宣う。しかし、そんなはずはない。彼女は確かに自分がこの手で魂ごと葬り去ったはずだった。


『まさか! 女神――いや、あいつは、確かにこの手で屠ったはずだ。そんな、生きているはずがない――!』


 けれど、リオンは彼女は生きているという。彼女の残骸である天使の話ではない。まだ殺すべき女神の一族が遺っていると――彼は謂った。


「アズラは死んで、天使を創った。けれど今回はそれじゃない。ティリだ。あいつはまだ、生きている」


 女神の一族は滅びた――だが、彼女は生きている。何ということだろうか。彼はすべてを終わらせ眠りについたはずだった。


『――ティリ! あぁ何と、なんと忌ま忌ましき名前よ! 忘れてはいない! 我々はまだ、あの憎悪を! 怨恨を! その身に受けた屈辱を今もなお忘れてはいない!』

「落ち着け、お前が完全に目覚めるとここら一帯は滅びる」


 彼はわが身を落ち着かせるように巨大な体躯を撫でる。グヴィヴェルは感覚を失くして久しい。それでも、リオンは一身にその身を宥めすかし、憎悪で振るえそうな身体を止めた。


「――……殺すぞ、魂の一片すら存在すら許さない――魂さえも、俺たちはすり潰す」

『あぁ、我が同胞よ……相分かった。あの刻から、契約は成されている――その角笛が鳴るとき、我は咆哮し、飛び立とう』


 そうして彼は、再び開きかけた瞼を閉じる。既にその身は死しているに等しい。けれど竜は、今もなお彼らを完全な殺しえる兵器となりえた。





「まさか本当に――『龍』がいるとはな」


 ユーリスは感心したようにいう。まるで手慣れているように封印を解く姿は圧倒されるものがあった。こうして竜は目覚め、人と竜の対話が成される奇跡の瞬間を目撃してしまった。

 彼は何も感慨もなく、淡々と事実を語り、怒りで我を忘れるために竜を鎮めた。しかしほんの刹那――ほんの一瞬ではあるが、竜は怒り、その瞬間ユーリスたちが立っている大地が割れ、何本――何百本の木が飲み込まれたことか。けれども、竜はこれが全盛であったときよりも、何十分の一の力しか、発揮していないという。

 だが、たとえ竜が全盛であったとして、それほど強大な力をもってしてでも、たった一人の女神しか殺し得られない事実に――リオンの敵は、一体どれほど強大だったのかと戦慄する。

 何百分の一に分かたれた天使の残骸ですらあれだけの力を誇るのだ。女神になると――その実力はただの人間であるユーリスにとっては推し測れないほど。

 リオンは竜であり大地である地面を踏む。グヴィヴェルは既に眠っている。それでも、彼らが未だにその場を立ち去れなかったのは。


「大きすぎて、まさか上を歩いてるとは誰も思わんだろうよ」


 彼は巨躯であった。咆哮一つで、大地を揺れ、地割れを引き起こすほどに。それでも彼が最も強大であったときより、かなり穏やかで、天候も変わることはなかったが。

 彼が次に目覚める日は、決着のとき。忌むべき存在を葬り去る、そのとき彼は――

 自分は傍にいられるか、とかすかな疑問が、老兵の頭を過ぎる。しかして確かにその刻は、着実に足音を立てて、彼らの足元へと近付いていく――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る