二・女王

 どこまだも青く、薄く棚引く雲が白く映える、天気が美しい日。

 そんな日だからこそ、アーシェルは惹かれたのかもしれない。どこまでも昏く淀んだ――しかし爛々と宝玉のようなあの瞳に。

 彼はどこまでも真っ直ぐで、そして誰に対しても誠実な人間だった。彼の目を惹きたくて行動したことも一度や二度ではない。それほどまでに、彼はアーシェルを魅了していた。

 彼はアーシェルがいる国に属する騎士であった。平民にも係わらずどんな仕事であろうと、真面目に職務に果たす忠実なまさしく規範となるべき人物であった。

 アーシェルが彼を見染めたのは、殿方の鷹狩りに出かけたあの日、たまたまアーシェルが彼のそばに控えていたときだった。

 既に要人の警護まで実力をつけていた彼は、絶対の失敗は許されないという誓約を国に誓った後、アーシェルの傍に控えることとなったのだ。

 そして、アーシェルは彼の姿を目に捕らえる。

 美しく何色も混ざりようがない黒の髪に、どこまでもい赤く輝く宝玉を思わせるような、赤色の眼差し。

 未だ少年のあどけなさを残した幼さを残しながらも、何者も不審者を見逃さない視線に、アーシェルはどうしようもなく惹かれてしまった。

 そして、やはり内輪で行われるはずだった鷹狩りの情報はどこからか漏れていたらしい。

 襲撃のときに、アーシェルの危機に誰よりも早く駆けつけ、二人の身がぴったりとくっつくいるというのに、一切の下心もなく任務に忠実である姿に、一目惚れとしないで何というのだろう。

 アーシェルは彼を一目惚れしてしまった。初めはただの年頃の人間らしく、見つめていただけであった。

 その日からアーシェルは彼を一目見るために、執務を終わり次第訓練場へ足繁く通っていた。



 リオンが小国の軍に思いかけず入隊することになったのは、数年前に彼の国の軍がこの国に攻め入っている瞬間を見て、思わず手助けをしてしまったからだ。彼の国は女神を信奉し、女神の血を引く人間を国の王と崇め奉っている。自らを唯一の種族だと名乗る人間はかなり少なくなったが、それでもリオンの手にかけなければならない人間たちはごまんといた。

 そのとき彼は、羽を背中に生やした人間だけを討ち取り、立ち去ろうとしていた。全ての人間を細かく肉片にする時間はない。ならば最低限、魂がすりつぶされないとまでも、真っ二つに割れるぐらいの衝撃を肉体に与える。彼はそのとき戦場に捨て置かれた槍を投げ、戦場を指揮する隊長と思わしき人間の頭を頭蓋ごと破壊した。

 敵は総崩れとなる。ついでに襲い掛かる何人かを始末して立ち去ろうとした。それが出来なかったのは。


「もし、そこの勇敢な人間! 褒美を遣わす!」


 リオンはそのときも黒いフードを被り、黒い革の鎧を纏っていた。雇われた傭兵だと思われたのだろう。たまたま小国の将に見られた。無視することはできない。周りは既に、小国の人間で沢山だったからだ。

 彼は実際に小国に連れられ、褒美をとらされた。ものはついでだ。これ以上彼らに奪わせない為に、彼は兵に剣術を教え始めた。全て我流ではあるが、実戦で鍛えた腕は兵たちに喜ばれた。彼は持ち前の膂力を使わなくても、敵を屠れる剣を指南した。

 いつの間にか隊長――と呼ばれることになったのは、リオンがいつの間にか訓練場に入り浸っているとき。彼らは真っすぐにリオンを慕っていた。リオンはそんな感情を向けられるなんて今までになかったことだから少し驚愕してしまった。


「おい、リオン」


 そんなあくる日、より羽を生えた人間を殺す方法を教えていたとき、一人の男がリオンを呼び止める。

 彼の名はユーリス。あのときリオンが敵将の頭を勝ち割ったときに、リオンによって命を救われた人間でもあった。

 ユーリスもリオンと同じ隊長である。最も彼は、他の者が勝手にリオンを隊長と読んでいる代物ではなく、れっきとした国の軍を率いる将軍であった。

 リオンは彼が呼んでいることに気付き振り向くと、いつもより険しい顔の彼がリオンの傍まで駆け寄った。

 ユーリスとリオンは二頭身ぐらいの差がある。リオンも背が低い方ではないが、ユーリスがリオン以上の大男なので、リオンは見上げる形で彼と対面することになった。


「何だ、ユーリス。その前に首が痛い。少し屈んでくれないか」

「あぁ、それは悪かった。どうだ、これでいいか」


 そうしてユーリスは、少し膝を曲げてくれる。リオンはユーリスが嫌いではなかった。年下に見えようとも、決して敬意を忘れないその姿は、高潔な騎士そのものだった。

 ユーリスは他の無関係なものに知られぬよう、頬に手を当てて、リオンの耳に向かて小声で囁く。それは確かな忠告であった。


「お前、気をつけろよ、女王に気に入られている。下手したら、そのうち声をかけてくるやもしれん」


 リオンは少し驚いた。ここのところ毎日貴婦人が訓練場に来ては、リオンに熱い眼差しを投げかけていたことは知っている。だが、それがまさか、この国で最も尊い人間など思いもしなかった。

 何故気づかなかったか。彼女は他の人間と同じように、最近の流行である貴婦人の格好そのものをしていたからだ。まさかお忍びであの格好をしていたとは、リオンには考えつかなかった。

 しかもこの国の女王は、リオンが知る限りではあるが、既婚者だ。しかも一人娘である王女も存在し、夫も今なお健在である。

 まさか王女が成人したてとはいえ、離縁もしていない女王が遅い恋心に目覚めたなどと、誰が思うか。いや、あの様子では訓練場にいる誰もが、女王のリオンへの思慕に勘づいていたはずだ。

 リオンは厄介ごとに巻き込まれるような予感がした。リオンは過去に権力者の恋愛沙汰に巻き込まれ、多くのものを失ってきた。だがしかし、リオン自体が当事者になんて思いもしなかったのだ。


「王配は嫉妬深いっていう話だ。殺されなければいいがな」


 ユーリスはリオンに声をかけた理由。女王のこともあるが、その夫。王配はそれ以上に厄介な存在だった。この国の王族はめったに表に出てこない。政治でさえも、余程のこと以外には口出しをしない。けれどその、王配にとっては余程のこと――彼は女王については誰よりも深く愛し、そして女王の恋慕の行方が自分以外に向かうことを、誰よりも深く許しはしなかった。


「彼女の視線には気付いてた。そこにどんな感情が含まれているかも――だが誓って、彼女が何者かなんて知らなかったし、俺は一切彼女の想いに応える気はない」

「なら余計近づくな。しばらく訓練場には来なくていい。今はまだ見ているだけだが、そのうちお前を寝所に招くかもしれん。そうなったら断れないだろう。その前に、姿を隠せ」


 リオンは思わず顔を顰めた。一目ぼれされる心当たりがあったからだ。確かに過去に、彼女らしき人間を助けたが、それだけだ。確かにそのときリオンは彼女を胸に抱きながら周囲の敵を警戒していた。だがそれもほんの束の間。貴婦人にむやみやたらに肌に触れるべきではないと、すぐに身を離して偵察に戻った。

 たった一瞬の出来事で、ここまで大事になってしまった事実に、ため息を一つでも掴むのは否めない。だがリオンに選択権はなかった。今も彼の背中には、彼女のもの言いたげな視線が投げかけられていたからだ。


「冗談じゃない。噂が立ったら、居づらくなる」


 彼は剣を持ち直し、女王の視線を避け、ユーリスの体躯に隠れながら退出する。彼の言う通り、暫くは訓練場にいられやしない。城内にある寝所だって、彼女が来ないとは限らない。

 城下町に宿をとる必要があった。

 厄介ごとに巻き込まれたついでに、リオンはユーリスに、過ごしやすい宿を教えてくれと訊ねた。老兵であるならば、ここらの地域に詳しいはずだ。思った通り、ユーリスはリオンにとって理想通りの、丁度いい隠れ家のような宿屋を紹介してもらった。


 彼がふとふと顔を上げたのは、夜半の月が高く昇ったとき。月が眩く光り、窓を開けたままであるなら凍えそうな日のことであった。

 だが彼が武器の手入れを止めたのは、窓から風が吹いたから。彼は手元の剣を手繰り寄せて、襲い掛かる侵入者をねじ伏せた。

 けれどねじ伏せたのは、一人のみ。あとの人間は彼の首にナイフの切っ先を突き付けていた。リオンは状況を把握してから、ゆっくりと剣をねじ伏せた人間から離す。それから剣も床に置いて、抵抗の意思はないことを示した。

 彼らは無言で床に置いた剣を取り上げ、それから無抵抗のリオンの脊椎を狙い、思い切り殴りつけて、リオンを昏倒するに至った――


「ぐっ……――ッ、ぅ゛」



 彼が次に目を覚ましたのは、湿気にまみれた地下室であった。むき出しの床はリオンの血ではない跡が所どころ黒く染まっている。どう見ても拷問部屋であることと、彼は自身もまた拘束されている事実に気づいた。

 彼の意識を戻したのは、頭の上から浴びせられた冷水だった。この時期の冷水は凍えるほど冷たく、そのせいですぐに明瞭な意識を取り戻したのは何とも皮肉なほどだった。

 彼は革の鎧もローブも羽織っていない、薄衣一枚の姿であった。貴重な荷物が入ったそれらは、信頼できる人間に預けていたのが幸いだっただろうか。

 何となくだが、こんな予感はしていた。女王から思慕の類を送られないよう彼は立ち回るべきだった。だが、こうなっては最早どうしようもない。彼に送られてきた刺客は盗賊らしからぬ振る舞いであった。恐らくは、国に準じているか、それに近しい兵なのだろう。


「あぁ、まだ死なないでくれよ。私の唯一を奪った罪は、死罪に価するのだから」


 暗闇から、一人の男が現れる。そしてその姿を一目見て、リオンは目を僅かに瞠った。


「……――」


 明らかなのは、男の身体に隠しきれていない美しい羽。仄かに照らされた炎でも分かるように、彼は美しい、両翼を背中に背負っていた。





 アレンが彼女の唯一の夫になったのは、雲一つない、まさしく神が彼らが夫婦であると宣うかのように、天から花が舞い散るほど美しい日であった。彼女の唯一の夫となったのは、アレンのまたとない幸福なときであった。

 アレンの妻――アーシェルは幼いころからの知己で、アレンが知っている誰よりも美しく、また誰もが妻にしたいと望んでいた。年頃の男ならば、下心なしでアリアに接していないものなんていなかっただろう。それほどまでにアリアは、ミルクティー色の髪を棚引かせ、碧眼の瞳はどこまでも男たちを魅了していた。

 アレンが彼女の唯一になった一日は、今でもアレンの胸を焦がすほどに思い出深い一日だった。

 彼女は金と銀糸で彩られた花嫁衣裳で、アレン唯一人に微笑んでいた。城の誰もが、新しく冠を頂いた女王とその王配であるアレンの門出を祝福した。


 アレンが初めの殺人に手を掛けたのは、おおよそ神に正式な夫婦だと認められた半年後の話だった。彼女が誰かを寝所に招いている――そんな戯言を耳にしたのは歯に衣着せぬ大臣との進言からだった。

 初めは一笑に付した。女神に認められた由緒正しい自分を差し置いて、まさか彼女が他の男と浮気などするはずがない。

 だが日に日に噂は広がり、やがてアレンは彼女たちの罪を目撃してしまう。

 そのときアレンは激高して我を忘れ、手にした果物ナイフを振り上げ――気が付けば彼女とアレンの周りには血だまりと、何かの肉片が飛び散っていた。

 彼女を責められるはずがなかった。羽がなくとも、彼女はアレンの唯一だった。それに祖国から――生家から強く言い含められていたのだ。女神の血を継いでいるはずの、翼をもがれてしまった彼女の伴侶となり、美しい羽を持つ子どもを産ませ、次代を繋げと。

 それからもアレンは何回か、記憶をなくすほどに怒り狂い、その度にその手を血で濡らしてきた。彼女はその度に泣きながら謝罪し、彼に縋ってくる。

 アレンはアーシェルを赦した。赦すことも、尊き羽を抱いた一族の務めである。たとえ羽がなくても、確かにその身に宿す尊き血を信じるのと同じように、アレンはアーシェルを愛し続けた。

 だから今回も同じように、アレンは彼女の愛そうとするものの排除に動いた。

 いつもと同じように、ただ淡々とした作業のように、害虫を排する。当然のことだった。この国のアーシェル以外の人間は人間ではない。だからアレンが彼らを害しても、何ら罪の意識も、罪悪感も抱くはずがなかった。


 目の前にいる人間も、人間の形をしたただの肉だ。

 だが肉は、いつもと様子が違うように、三日月に弧を描き、確かに嗤った。

 優位に立っているのは自分である。だがどうしてこうも寒気がするのは、何故だろう。その違和感の正体を問う前に、彼はゆっくりと、アレンに当然のことを訊ねた。


「……王女がいただろう――金髪碧眼の、女王の子ども。あれは本当にお前の子か?」

「……ッ! 何を! あれは確かに私の子どもだ! 彼女と正真正銘の! 私と同じ人間の! 私の唯一の娘だ!」


 そう、アレンは思い出した。彼女との愛の結晶。生まれたばかりの抱いた手のぬくもりは本物だった。娘は羽をもって生まれはしなかったが、確かに自分の面影が、娘の顔にあった。

 何て当然のことを訊いてくるのか。この畜生は。

 アレンはついにナイフを強く握りしめる。だがそんなことも露と気にせず、畜生は更にアレンに対して問いかける。


「じゃあ言い直そう、お前は女王の背中を見たことあるか?」

「なに、を」


 それはアレンにとって決して問いかけてはいけない言葉。

 睦言のときに、彼女は決して衣類をはだけることもしなかった。そう、彼女の想い人との情事ですら、彼女は背中を決して見せなかった。

 しかし、女神の神託は絶対だった。生国からの言葉。彼女こそ羽は今は持たないが、それは暴徒により羽を捥がれて、未だ彼女は女神に選ばれた使徒であると、彼らは言っていたはずなのに。

 どうして、こんな気持ちになるのだろう。

 一抹の不安。本当はこんなこと、考えるだけで罪になるというのに。アレンは考えてしまう。

 敢えて確かめようとしなかった。羽が捥がれたなら、その傷が絶対に背中にあるはずだった。だが彼女は見せたくないとはにかみ、アレンを自分の過去から遠ざけようとしたではないか。

 そう、アレンは正しい。彼女がまたもや罪を犯していただなんて、考えてはいけない大罪。

 それが畜生にとっての狙いだったとは露とも知らず。


「――……あ゛、ぁ、ぁ゛ッ」


 畜生の手枷はいつの間にか外れていた。そして、獣はアレンの下に一瞬にして移動して、口を開き、その牙を、アレンの喉に食い込ませる――



 勝負は一瞬にして付いた。リオンの鋭い牙はアレンの喉を深々と食い千切る。彼は咀嚼することもなく、口の中に入ってしまった脂肪と肉を地面に吐き出した。


「良かった――ただの人間を殺したのでは、俺は人殺しになる。だから良かった。お前だけが、羽が生えていて。本当に」

「お前……ッ!」


 何も地下室にアレンの一人がいたわけではない。当然ながら護衛が何人かがアレンの後ろに控えていた。

 しかし、当然のごとくリオンは、一人一人、確実に息の根を止めていく。途中からは、護衛の持っていた剣を奪って、咽頭に剣を差し込んでいた。より確実な殺害を狙うなら、心臓ではなく口腔から脊椎を砕く。そうすれば彼らは苦しまず一瞬にして絶命する。リオンは国の兵士に、どうすれば羽を持ち、頑丈な命を持つ彼らを効率的に殺せるか、ひたすら教え込んでいた。


 だが――リオンは未だに死んでいない、唯一の男を見下す。男は喉を食い破られながらも、彼はひゅーひゅーと音を立てながら、未だに斃されてはいないとリオンを睨みつけていた。

 リオンは彼の命の灯火が消える前に、餞別として、自分の苦労話を語る。

 特に今回はいつもと違う苦労があった。身体が疲弊するとは違う、精神の話。


「羽を持つ一族は、自分を偉ぶる習性がある。お前たち王族の姿を確認する必要だって、俺の立場では楽じゃないんだ」


 そう、リオンは元々この国に用事があった。けれど、王族の誰が羽をもっているかまではついに把握することはできなかった。見分けるのは簡単だ。だがこの国の王族は特に、有事であれどもよほどのことがなければ表に姿を現さなかった。

 女王は全く意図せぬところで接触してしまったが、彼女は羽が生えた一族ではなかった。

 この男だけが、羽をもつ――リオンの獲物。


「――……」


 彼は瞳の瞳孔を収縮させ、やがて呼吸の音すら聴こえなくなる。

 完全なる、静寂。彼はそして奪った剣を振り翳す。

 ぐしゃりと、部屋は何かが潰れたような、そんな音がした。



「あとは……」


 暫くして、彼は血まみれの顔を上げる。ようやく作業を終えることが出来た。しかし、この国で羽を持つ人間は未だいる可能性がある。

 この国の人間は、王配によってリオンが既に攫われたことを知っている。リオンは王配を殺している。王配が姿を見せないことで、一番に疑われるのは間違いなくリオンだった。

 彼は迅速に行動する必要があった。――彼は、彼らから背を向ける。

 彼女に訊ねる前に、リオンは自らの手持ちを整えなければならない。彼はやがて、溶けるように闇夜へと消えた――





「……誰?」


 ふと王女が顔を上げる。何となく、空気が揺れた気がして、それは確かに、誰かの来訪を意味していた。

 そして陰から、音も立てずに一人の男が現れる。少なくともこの国の者ではないことが見て取れた。しかしおかしいのはその者は一切の殺気を発していなかった。暗殺者である類であるということは、服装から見て間違いないし、王女がその手の人間出会うことも初めてではない。

 だがどうして彼は――一切の敵意を見せず、膝を突くと騎士の如く、彼女に訊ねた。


「王女よ、訊ねたいことがございます。あなたは自身のお身体に、天啓を得たことはございますか?」


 きっと答え次第では、彼はすぐに自らに牙を剝くだろう。しかしどうしても、彼には本心で答えなければならないと、王女はそんな想いを抱いてしまった。


「答えてくださいませ。でないと私は、貴方の纏っている衣服を剥ぎ取り、確認しなければなりません」


 彼の赤く濡れた瞳が、訴えている。彼女は王女である前に一人の人間として、彼の問いに真摯に答えた。


「……天啓がどんなものかありませんが、あなたの望むようなものを私は……抱いていないと思います。私は一度たりとて、女神の意思を訊いたことがございませんから」


 女神――父の生家がある国の、信仰されている主。彼らは女神を至上の存在と見定め、女神の遺骸から創られた、羽の生えている人間を尊きものと敬っていた。けれど王女にとって、彼らは信仰できるかと問われたら、父には悪いが、どうしてもできなかった。

 女王と王配から生まれた彼女はれっきとした女神の血を引く人間である。けれど彼女は、彼らの信奉する女神から、一度も天啓を得たことはない。それに本当に至上の存在というのなら、彼らのいう羽の生えた美しい存在が、他国を侵攻し、占領するなど、到底思えなかった。

 天啓を得たか――と、問われるたびに父に首を振らなければならないのがとても辛かった。

 落胆する姿を見るのが、とても辛かった。

 次に出会ったら、また同じことを訊かれるかもしれないと考えると、とても気が重くなる――


 彼女は二度と、父に会えないとそんなことも思いもしないで。王女は父を殺したのがまさか目の前にいる人物だと疑うことも出来ず。


「……やはり子どもなんて、生まれるはずがないじゃないか」

「え?」


 小さな言葉を、彼は呟いた気がして、彼女は問いかけなおした。けれども彼は、彼女に聞かせるわけでもない、本当に独り言を口にしてしまったらしい。男はすぐに訂正と、王女に対する礼をした。


「いえ、問いに答えていただきありがとうございます」

「……あなたにとって、納得できる答えであれば、良かったのだけれど」

「えぇ……それでは、御前、失礼致します」


 そう言って、現れたとときと同様、彼は静かに消える。

 まるで最初から何もなかったような、静寂が部屋を包む。

 彼女は首を傾げて、一度月を見る。本来だったら衛兵を呼ばなければならなかったもしれない。しかし、あまりも殺意も何も、感じられなかったものだから。

 彼女は息を吐く。遠くで篝火が掲げられたことに気付きもせず。

 月は未だ高く上り、まさかこんなに長い夜になるとは、彼女自身も未だ思いもしなかった。





「リオンか」

「ユーリス」


 リオンが静かに彼の家の中に降り立てば、ユーリスは既に鎧を身にまとい、宵闇の中で彼を待ち構えていた。

 ユーリスはすでに、彼の仕える王族が殺されたことを知っている。


 彼の手には、抜き身の剣が携えられていた。このまま戦闘になれば、リオンすらも無傷のままでいられるか怪しいほど、隙がない。一応であるが、リオンも後ろ手にナイフをすぐに投げられるよう構えていたが、それでもどうやって切り抜けられるか、リオン自身もこれから始まるであろう戦闘の行方を、全くつかめないでいた。

 リオンはより効率的に人間を殺すことに長けている。しかしこうして向き合うとなると、長年の勘と経験で戦場を生き残り、なおかつ既に武器を手にしているユーリスの方に武があった。


「国に忠誠を誓った身なら……私は貴様を殺さなければならん」


 彼は剣を振り上げ、騎士としてリオンに剣を向ける。

 だが様子がおかしい。リオンは訝しむ。本当に殺すつもりであるなら、待ち構えなどせずに、リオンの死角から狙えば良かったはずだ。

 それをしなかったのは。初めは騎士として、一対一の決闘を申し込まれるかと思った。だが、そうではないらしい。


「だが……」


 彼の手は大きく揺れて、やがて何かを諦めるかのように、あれは床に剣を落とす。リオンは彼に攻撃するか否か一瞬迷った。けれど彼は騎士である。彼の騎士精神は短い期間でああったが、誰よりも知っていた。

 正道には誠心を以て挑むべしと、リオンも何となく、後ろ手に掴んでいたナイフから手を離した。

 彼は大きく嘆く。未だに手は震え、そして激情を抑えこむが如く、顔を押さえていた。それがどんな意味をして、これからどんな結果をもたらすか、ユーリス自身が一番理解しているはずなのに。


「どうしてお前を斬りつけれなんだ……! 戦場で助けられ、この身に敵兵の屠るのに、ただの見返りも求めず、付きっ切りで全てを教えてくれた御仁を、どうしてこの手で殺せようか……っ!」


 彼はそれから、倒れ込むように椅子に座った。まるで力のない人形であった。鎧を着こむことだって時間がかからないはずがないのに。それはまるでリオンのことを、真に想っている姿のようでもあった。


「まぁ、さ。楽しかったよ。俺の人生もそう悪いことばかりではない、と思えるほどには」

「……二度と、戻ってくるな」

「あぁ」


 彼はそう言って、部屋の中を見渡す。彼の唯一の大切な物は、ユーリスに預けていた。まさかこの高潔な騎士が、親友ともうべき人間の荷物を捨てるなんて考えは端から思いつかなかった。

 そしてリオンは、テーブルの上に自分の荷物が置かれていたことを知る。それは預けたときと、全く変わらない形のまま、そこに鎮座していた。


「……中のものは何も弄っていない。それと、餞別にもならない大したものだが、持っていけ」

「――あぁ、ありがとう」


 よく見たら、大きな革袋とウェストバッグの横に、リオンが見たことない、小さな革袋が置かれていることに気付いた。

 革袋は中に入っているものによって小さな凹凸ができている。それらは決して餞別以上の意味を持つ貨幣が中にあることを意味していた。

 リオン荷物を引き取ると、侵入してきたときと同じ経路でその場から立ち去った。振り返りはしない。一度立ち止まってしまえば、今度こそ高潔な誠心を持った騎士に切り殺されることを、誰よりも知っていたから。


「本当に、どうして……」


 騎士の独り言は、ついぞリオンの耳に届くことはなかった。

 木霊は誰に聞かれることなく、部屋の中で消えていく。


 既にリオンが王配に手をかけたことは、ユーリスの耳に入っていた。けれどそれでも、女王の騎士であるよりも一人の友人を選んだのは――

彼は静かに涙する。一夜にして一人の主と、友を失ったことの事実を飲み込むには、未だに時間が必要だった。

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