一・聖女
この世界は崩壊の危機にあった。近年の反乱と餓死者で、国同士が諍いを起こし、どこもかしこも疲弊していない国なんてなかった。
だが、ここだけ。完全な中立地帯である場所だけは違う。王も領主も誰もいない完全な中立地だけが、各都市の冒険者ギルドだけがどこの国よりも画期的で、そして大きな賑わいを見せていた。
彼が現れたのは、迷宮都市アンブローズの端の、未だ踏破者がいない迷宮“塔”に一番近い冒険者ギルドであった。
そのとき受付嬢はたまたま馴染みの冒険者と話し込んでいたが、そして入り口の異様な雰囲気に頭を向けたのだ。
その瞬間、受付嬢の背中には戦慄が走る――ぞっとした、と言えばいいのか。
みずぼらしい服装に反し、爛々と輝いた赤い双眸。まるで飢えている獣のよう。
全身が黒い革でできている衣服は、ただ黒いだけではなく、血を吸って黒くなっていることがいとも簡単に想像できた。
「塔に入る許可証を発行してくれ」
そう一言だけ、いって彼は受付嬢にドッグを渡した。
彼のプレートは鉄ですらない、銅――
嘘だ。
受付嬢は瞬時に彼女が実力とプレートの名前が見合っていないのだと察した。
たまにいるのだ。面倒だからと、圧倒的に待遇が良くなるにも係わらず昇級試験を受けない変わり者が。彼もその類であろうことは簡単に想像できた。
新米の剣士にしては、あまりに使い込まれている剣。数多の敵を葬ったであろう剣は、しかし一片も刃こぼれしていない。
だがそれに反して彼のプレートはまるで新品のあるかのように、傷一つついていなかった。
冒険者はその実力に応じてプレートが支給される。
上からプラチナ、金、銀、鉄、銅。その中の最も輝きが鈍い色――銅色は、最下層の冒険者である証しだった。
受付嬢は本来なら許可証を発行するだけの立場にあった。だが、未だに踏破されていない迷宮となると――彼女は遠慮しがちに声に出す。
彼女は塔に入るその前に、昇級試験を受けてほしいと懇願した。
塔に入るには銅の冒険者からでも挑戦できる。だが塔は本来、金の冒険者が徒党を組んで、ようやく一層を超えられるような難易度であった。
彼は実力者であることは確かだ。だが、装備から見て単身で挑めるような実力は持っていないと彼女は判断した。
紛れもない、善意からの問いかけ。
だがこれは、確かにリオンの癇に障った。
「……――」
リオンは舌打ちをしそうになった。こんなくだらない押し問答をしないために
受付嬢の言い分はわかる。一ランク上がるだけで、冒険者の後ろ盾が段違いに違うのだ。冒険者ギルドからの冒険者への支援は、普通なら生死に係わるほど重要である。
だがリオンだけは違う。彼は食事を必要としなければ、食事もとる必要がない。彼はむしろ、他人の横やりが入ることを間接的にしろ酷く嫌がった。
何度か受付嬢と言葉のやり取りをして、ついにリオンが怒り出しそうになったそのとき、後ろから声がかかる。
「待ってください、塔に潜りたいのでしょうか? ならば、一緒に行きましょう」
それは彼にとって懐かしいよく見知っている声。だがそれ以上に、リオンを受付嬢よりも酷く苛つかせる、か細く奏でる――美しい声。
声を掛けられた。知らない人間からすれば冒険者ギルドに似つかわしくない、カナリアが歌っているような、可憐な声。
彼女の姿は確かに視認していた。だが彼は放っておいた。彼の優先順位は塔の中にいる者である。だから彼女が声を掛けてきても、今はまだそのときではないと――余程のことがない限り彼は無視しようとしていた。それが出来なかったのは。
「……」
入り口は彼女たちで立ち塞がれていた。それに彼女は、嫌というほど自分と同じ、同族の臭いがする。内面は嫌というほど、彼女達と違う。正反対といってもいいくらいの真逆の性質。だが彼だって元々は彼女と同じだった。そんな事実がレインにとっては酷く不愉快で、到底我慢できなかったのだけれど。
だが彼は舌打ちすらしなかった。一言異議を唱えれば彼女の周りの人間が動き出しそうだったからだ。
彼女は修道服であるスカートの袖を上げて、カーテシーをする。
「私は、レイン。聖女レインと、周りからはそう呼ばれています。銅の冒険者様。良かったら共に塔に行きませんか? それに踏破を目指すからには、私、聖女の力が必要です」
リオンがこのときに思ったことといえば。
彼女はやはり、自分のことを覚えていないということを、理解してしまっただけ。
覚えられていなくて良かったと、安堵の息を吐けばよかったのか。
けれども彼女にとってやはり自分はとるに足らない、小さな存在だったと思い知らされているようで。
彼女の名声はリオンの耳にも入っていた。
聖女レイン。魔王を倒すために、勇者と共に世界を駆け巡り見事魔王を打ち取った英雄たちの一人。
彼女は唯一、五体満足で、最後まで生き残った人間だ。彼女だけはどうやら、魔王の呪いに打ち勝ち、今や勇者の為に
彼女は教会の、そして彼女自身の信奉者を集い、今はこの地で塔の制覇を目指していた。
塔を制覇していた者のみに与えられる
「……」
リオンが返事をしないことを是と思ったのか、レインはすっかり彼も一緒にいくのだと喜んでいる。
「まぁ良かった! では共に制覇を目指しましょう! えぇもちろん、貴方がたとえ銅の冒険者であっても、私たちの力になるでしょう!」
リオンは、彼女という種族は本当に善意だけで声を掛けている事実をいやと言うほど思い知った。リオンの同族だった血を引いている彼女は彼の手を持ち上げ、両手で握りしめる。
なるべく目深くフードを被っていたが、やはり目と目は合う。
赤く堕落した瞳と、青く澄んだ瞳が、重なり合う――
彼は彼女に気付かれる前に手を振り払った。それで周りの人間たちが少し殺気だったが、構わない。
それよりも彼女に正体を気付かれる方が面倒であった。だが彼女は首を傾げ、それでも仲良くしましょうともう一度、周りに人間にも周知されるように宣った。
塔という名前は、迷宮の外見が塔――という意味でつけられた。中の構造は、外見とは全く違う。長年の研究者が、迷宮は一種の生物と発表していたが、それは事実にほぼ近い。
迷宮は生きている巨大な食虫花のようだ。来るものを拒まず、されど立ち去ることは許さない、生きている人間を食らうことで成長していく化け物――
リオンはさらに、深く迷宮に入り込んだ人間であったため、研修ですら知らない事実を知っている。だがリオンがそれを報告したことはしたことはないし、生きている限りリオンが誰かに話すなんてあり得ないことだった。
リオンの心情がどうであれ、旅自体は快適そのものであった。ただし聖女のみ、となるが。
聖女の周りには何人もの付き人が代わるがわる世話をする。勿論リオンは同行しているだけなので、聖女の世話なんて全くしていなかったが。
時折自分も混ざれと――信奉者から冷たい眼差しを浴びることもあったが、それでもリオンは決して彼らの手伝いをしなかった。
勿論、リオンは彼らの施しを受けることはない。
彼らにとっては不気味であっただろう。彼は全く何も口にしないし、眠る様子も一切ない。
人間か? と、訊ねられることもあったが、リオンは彼らの疑問を無言によって全て躱した。
迷宮に自然と沸く敵との戦闘のときも、リオンは全く何もしなかった。たまにリオンの傍にふらりと来る小動物を斬る。それだけ。
彼らはリオンを訝しんだ。彼は本当に人間なのか。人間であれば、どうしてずっと立っていられるのかと。
リオンもただ立っているのではない。彼らを視界の端に捕らえながら考える。
この女――聖女は「異常」であった。
昔の、リオンが知りえている頃の聖女であるなら、まず彼女は何もしていないはずがない。少しでも皆の気を引こうと、自らも率先して、自身しかできない皆の回復をしようとしたはずだ。
だが、それがない。その内、彼は彼女が、彼らの治療をしたくとも出来ないという事実に至った。彼女は時折、右手を無意識にさすっている。それは魔力欠乏症の初期に見られた傾向であった。彼女とリオンに流れる血の、種族特有の症状。
彼らの種族は特に顕著にみられる。普通なら、休眠や食事をとることで魔力の補充を図るのだが、それもない。
リオンは思ったより、彼女に残された時間は少ないのだと悟った。
だからこそ、彼女は塔に向かうリオンを誘ったのだ。
戦力は多ければ多いほどいい。彼が誘われたあとにも、何人か誘われていた。そうして何十人にも至る冒険団は、リオンが何もしなくてもうまく回るぐらいに機能していた。
どちらにしてもリオンの目的であるものは、塔を制覇しなければ手に入らないものではあったが、彼女に残された時間を鑑みれば、手間が省けたといってもいいだろう。
これは、天命か――
リオンは唾棄すべき存在など認めない。だが現にこうして、リオンと聖女を巡り合わせた。
天というより、必然と言った方が、彼に受け入れやすいだろう。
彼は彼女の後ろ姿をじっと見る。気取られぬように視界の端して、獣であるかの如く。
不幸にも彼らは誰よりもリオンが聖女に執着しているなど思いもしなかった。彼が投げかける視線は、とても愛しいものを見つめるような、そんな感情を抱いているな眼差しではなかったからだ。
「懺悔の間――……」
リオンの目当てである階層に辿り着いたのは、実に彼女たちと同行してから、一か月半後のことだった。
リオンの目的は迷宮の踏破ではない。確かに塔の踏破が条件のうちにはあるが、彼の目的は塔の中のなかにある遺物――かつて神が遺したと謳われる――この場合、この階層にあるものが彼の目的地にあった。
未だに懺悔の間は攻略されていない。だからこそリオンが手ずからの手で攻略する必要があった。
攻略されていない――というのは少し語弊がある。攻略自体はされているのだ。けれど、何も心身に何ら異常をきたさず、健康体で帰還した人間は誰もいない――という意味で、この神殿に認められたものは一人として存在しなかった。
帰還した人間の纏まりがない言葉をまとめて、ようやく彼らの身に、ここには何があるか冒険者たちは理解する。
中は美しい神殿が一つあるだけ。その中で十日十晩、お祈りをするだけ。
攻略方法はいたって単純である。だが、その間、聖女に襲い掛かるものがいないといえば、そんなことはなく。
だからこそ聖女が呼ばれた。彼女は聖職者であった。罪も罰も、赦す側の人間。迷宮に全く似つかわしくない彼女が来た理由。それは。
「では、私は十日十晩、祈りを捧げます。では皆様、ここで恙なく、仲良くお過ごしくださいね」
聖女はそういうと、一人、神殿へ入っていく。
神殿は聖なる力で満ちている。そこは白い大理石で築き上げられ、床には薄い床が張っていた。
彼女は静々と歩く。肌が薄らと透き通る衣装はこの時のために用意された。今までに幾人の聖女たちがここで祈り、誰にも知られず朽ちていったか。
聖女は彼女たちの遺恨を、ここで報いなければならない。彼女は祈る。部屋というにはあまりに広い場所でたった一人。
生物も聖女以外に誰もいない。人間が一人で祈るには、あまりに長い時間。だが彼女にとっては十日間なんて、あくびをするよりも短い時間、であったはずだった。
「……ッ!」
十日十晩、彼女は祈り続けた。それこそ不思議なほどに。神殿は聖女たちに試練を与えていく。幻覚という形で、彼女たちに過去を見せて、己の罪を迎え合わせるのだ。
だが、あれほど恐ろしいと言われていた試練は、レインには課せられず。
レインは安堵の息を吸う。やはり自分には、元々罪なんてなかったのだと思いながら、息を吐いた――そのとき。
「あぁ、良かったな。おめでとう。塔はお前を認めた。本当に……おめでとう」
急にあるはずのない声を掛けられて彼女は振り向く。
木漏れ日の日向へと出てきたのは、一人の男。深くフードを被り、裾から見える服はすべて革製の、黒く染められた鎧であった。だが、ただ染められたのではない。
彼の足元からは、赤い水が染みだしている。透明であるはずの水が赤く染められることから分かる事実は、一つしかない。
「えぇ、……あなたはどうやら、同族のようですが」
「一緒にしないでくれるか、そう考えるだけで吐きそうになる」
聖女の中に流れている血が囁く。この男は、自分と同族であると。どうして気付かなかったのだろう。いいや、彼から生ずる血の匂いが濃すぎて、もしかしたら聖なる力が感じられなかったのかもしれない。
「それはそうと、他の方はどうしたのです? 私の禊ぎの間に、誰もここに近寄らないよう、厳命したはずですが」
「あぁ、あれなら
「……何ですって?」
彼は殺したというが、そんなことはない。レインは彼らがそこまで弱くないことを知っている。
中には
けれども、彼が言い放ったその言葉は。どうやら真実であるらしい。
彼のローブが陽に当たって、爛々と光っていた。それは全て返り血であることも、戦場にいたことがあるレインは察してしまう。
彼が持っている――抜き身の剣も、手袋ごと全てが赤黒く染まっている。血液だけではない、内臓を斬り捨てたあとにこびり付く脂肪ですら、彼はそのままにしていた。
「邪魔だったから――仕方ないじゃないか。お前を殺すと分かっていて、放っておく信奉者はいまい」
彼は、たった一人だけに対しては、酷く苦戦したと宣った。その人物は、自分のよく知る人間であり、独りぼっちになってしまったレインを慰め、深く愛してくれた人物である。
ただの人間であったが、彼はレインの判りにくい愛情を確かに理解してくれた――レインの為ならばどんな敵であろうと悉く打ち滅ぼし、レインに勝利を与えてくれた人。
その人も殺した――? レインは信じられない想いを抱いた。ならばこの男はなんなのか。
神殺しを成しえた勇者ですらない人間を殺した――人間。そういえば彼らは言っていたではないか。この男は、本当に人間かと。
「……お前は本当に、何の罪も罰も、持っていないと思っているのか」
ふと、男はレインに問いかける。僅かに眉間に皺を寄せて訊ねる姿はほんの一瞬ではあるが告解室で己の罪を嘆く人間でもあるかのようだった。
「……えぇ、聖なる神殿――聖域に住まわれる神は、私に何も言ってきませんでした。ならば、神は試練をお与えにならなかったということは、罪と向き合うべきという試練が課せられると訊いていたからには、私が無垢である証し――私は何も罪を持っていないという証明になるのでしょう」
「そうか? 自分が思っていないだけで、本当は誰かを傷つけているかもしれないのに?」
彼は歩く。殺意を隠しもせず、剣を携えたまま。
だが彼は剣を振りかざらなかった。その必要もないと言っているかのように、剣を持っていない手で、彼女を指さす。
何も持っていなくても、彼の手袋は酷く濡れていた。彼は余すことなく、彼らの血をその一身に浴びたのだ。
「残念だが、聖女。試練はお前が思っているのと、少し違う」
レインの瞳が揺れる。男に焦点を当てているが、やがて全てがぼやけてしまう。
これが試練だと気づくには、些かの時間が必要であった。
「思い出せ。聖女、お前が彼らに何をしてきたか。そうして、自分がどんな罪を犯してきたか」
赤く血塗られた宝玉みたいな眼が、こちらを射貫く。そういえば過去に一度だけ、そんな瞳の人間が、いた気がする。
「え?」
気付けば彼女はどこにでもない村にいた。そう、ここは過去に確かにいた、レインが何年かに一度の、聖職者として地方を回った時の、村の一つ。
「シスター様ー!」
そのときのレインは未だ聖女ではない、ただの修道女であった。日がな一日神に祈り捧げる日々が、今日だけは違った理由。
そう今日はレインにとっては年にある行事の一つで、彼らにとっては一生に一度の大切な日。彼女はいつものようにコルネットを頭に被り、前掛けがあるワンピース衣服を身に着けていた。いつもより少しだけ服の皺を気にしていたのは、村人にとって一生の思い出になるからである。一生記憶に残るものとして、だらしがなかったら少し恥ずかしいという羞恥心からくるものであった。
村にいる子どもたちは元気よくレインに挨拶する。そう、今日だけは彼らが主役。
彼らは今年が今年の、洗礼を受ける者たちであった。
「あら?」
そう、レインは神託を授ける者。今日は絶対に失敗できない日。
間違いが万が一でもあってはいけないのだ。
彼女はそういって結局失敗してしまったのだけれど、それでもそんな、彼女にとってどうでもいいこと、誰も気付きもしなかった。
小さな村一つに起きた小さな出来事など、誰も彼女の失敗を見咎めた者などいやしない。そう、彼女以外の聖職者も別の街や村に派遣されて、彼女の失敗を見ていなかったのだ。
場面は急に変わる。
このとき彼女は気付かなかった。石を投げられて、身体中傷だらけの少年を。肌という肌が傷だらけで、それでも誰もが――少年がそうなるのは当然だと言わんばかりの態度で、誰も彼も、幼馴染みですらも、少年を助けようとするものはいなかった。
「――……ッう゛」
少年が、呻く。口の中も腫らし血にまみれている。ごぼりと出てくる血液のせいで、うまく言葉も発せない。顔もところどころ青黒く変色し、彼の視界すらままならない。
どんなに叫んでも少年が悲痛な想いは誰にも届かない。いや、たとえ声に出せたとしても、村の誰かがきっと善意で、お前の声は醜いからと潰しにかかるに違いなかった。
そう、彼らは親切と少しの嗜虐心、それと孤児だと、誰も血が繋がっていないからと、誰も少年が深く傷ついても、手を差し伸べようすら思わない。
寧ろこれは彼女の為だった。美しい金の髪の娘。彼らは彼女の憂いを取り払おうと、少年を排除しようとしていた。
たとえそれが、彼女が気に食わなかったからというだけの理由で、傷つけていいのだと免罪符を得たとしても、彼らに悪意なんてものは微塵もなかった。
「なんて酷い……」
少年は意識を失った。地面にねばついた血液が広がる。だがやはり、誰も見て見ぬふり。
悍ましい光景に彼女は頬を取り押さえ、戦慄く。けれども彼女は、自身がすべて起こした咎だと未だ気付かない。
場面はまたくるくると代わる。視界が暗転し、世界がくるりと回る。
「あら? これは――……」
廃墟のように静かで、しかし、こまめに手入れされているだろう、羽の生えた女神像が御台の後ろにあることから、ここは村の教会であったは分かる。
「あの、教会――……?」
そう、教会。神の為の教えを導く場所であるそこは、今や村人の語り場でもある。彼らは年に一度来る聖職者の為に、教会の手入れを引き受けていた。ただ掃除しているのではつまらない。雑談に興じるのも当然のことだった。
だが――何故だろう。どうしても、村人たちの様子がおかしい。いつものように笑顔を見せず、深刻そうな表情で何かを相談しあっている。
レインの知る限り、彼らはいたって普通の――善良な人間たちであった。歴史に見る大罪を犯すものなど、レインの目の前にでさえ現れたことはない。ならば、レインのすることは、出来る限り彼らの憂いをなくさなければならない。
それがレインの聖職者としての、指名であった。
「あの子は何故、選ばれなかった」
「あぁ、彼女は選ばれたのに、あの子は結局、役立たずのままか」
村人たちは次々と口にする。選ばれなかったのは、あの少年なのだろう。傷だらけの、彼本来の肌色のほうが少ないような、可哀そうな少年。
レインはこのままでは、彼が村人たちによって殺されてしまうと直感する。それはいけない。理由なき人殺しは女神の教えに背く大罪だ。
レインは声を掛ける。自分の声は聴こえていないのかもしれないが、それでも彼女は聖職者として、どんな理由であろうと邪道に落ちようとしている彼らを放置してはいけなかった。
「そんな――……いけません、そんな、少年も、私たちと同じ人間なのです。慈しみ、無限の可能性がある子どもを誰だろうが、排していい理由にはなりえません」
レインは正論を説く。そう、どこまでも正論。誰だって石を投げられたら痛いはずだ。痛くない人間なんて、存在しない。たとえ痛覚がなくとも、心だって悲鳴を上げているはず。
ましてや既に傷ついたあの子どもは抵抗さえしていなかった。出来なかった、とも言うべきだろうか。足も潰され、満足に歩くことさえままならなかった彼に、たとえどんな罰があろうと、これ以上害されることは、レインが許されなかった。
そうだ、あの少年は、唯一自分が助けられるかもしれない。自分の身体にはもう、聖女と言われたときの魔力なんて少し残ってやいないが、それでも出来るだけのことは出来るはずだ。
と、思っていたのだけれど。
村人は首を傾げて、そしてレインですら、あぁ――彼は傷つけられても仕方ないと納得するばかりの、説得力ある言葉を口にした。
「だって、あの子の羽はすべて毟りとられていたから」
「私たちと、同じ人間と思えないのだもの」
聖女の国の人間は例外なく、背中の付け根に羽が生えている特徴があった。
どんなに小さくとも、生まれたときからある羽は決して生え変わることはない。だからこの国の人間は、誰よりも自身の羽を誇りにする。大切に手入れをし、一生涯付き合っていく相棒として、伴侶のように大切にする。
「羽が――……ない? ああ、なら」
だから、どんな理由があれども、羽を失った人間は価値がない。女神だって宣っていた。そう、羽がない人間は人間ではない。畜生以下に成り下がった生物に人権なんてない。彼はまさしく、そういった類の、畜生の存在だった。
「じゃあ――……ああなっても、仕方ないわね」
聖女は言い放つ。先ほどまで、少年を救おうなんて気持ちなんて忘れてしまったかのように、いや、元々なかったのように、彼女も村人に教えを説いたことを謝罪する。
彼らは正しかった。人間でないものはどのように扱っても問題はない。女神の教えを誰よりも忠実に守っているレインはまさしくこのときから聖女の資質を持っていた。
彼女は紛れもなく聖女である。
そうして聖女は、試練に打ち勝った。
自分の罪。そう、人間でないものですら救おうとした精神は、女神にとっては許されざるものだった。
こうして罪を改めることで、彼女はついに女神の試練を乗り越え、神の聖遺物を手にする権利を得たのだ。
「……?」
こうして彼女の手元は光り輝く。何もない空間から発せられる黄金の光はレインも見ていられないほどに眩く、やがて光が収まったとき、彼女の手には神の聖遺物――万能薬が小さな瓶として存在していた。
固く蓋を縛るように硝子の上を這っている蔦は、黄金でできている。瓶だけでも美しいというのに、中にある液体は、まるで生き物の血であるかのように、しかしどこまでも透き通る、赤い水であった。
神の聖遺物は、女神の遺骸から創られたものとされている。資格あるものだけが、女神に触れていい。その名誉は今、レイン一人の手に委ねられていた。
あぁ――彼女はこれで、彼を助けることができる。今や王の、勇者であったあの人を。
レインは彼に、確かな恋情を抱いていた。しかし彼女は彼と結ばれることを諦めていた。彼には想い人がいる。王となっては最早結ばれることのない運命だけれども、しかし聖女だけは、レインだけは王の仄かな恋心を見守っていきたかった。
王は病に冒されていた。聖女ですら、力が最もあったときですら助けられない不二の病。
愛しい人間に、最期――最期出会うことができたならば。
王は寝所に伏したまま、涙で愛しく想った人間に、生きたいではなく、ただ会いたいと願った。
このひたすらな想いを、今や自分以外に叶えられる人間がいるだろうか。
そうしてレインは、魔王を斃したあとの、言うことをきかない身体を叱咤して、迷宮都市に冒険者として、聖女として辿り着いた。
彼女にあるのは、ひたすらに王を想う心。王が勇者であった頃から、彼女は無償で王に愛を注ぎ続けていた。誰に顧みられることなく、しかし聖女は、王のために献身を続けていた。
やがて愛は、女神が認めるが為に至ったのだ。女神はレインを認めた。それゆえに、聖遺物を授けた。
彼女は大事に、硝子と金の蓋で出来た瓶を握りしめる。ようやくこれで願いが叶うのだ――王の願いが、そして自分の願いが叶う。
そして彼女の周りに、一筋の光が差す。まるで女神が祝福しているかのように、どこからか羽根も舞い降りてくる。
彼女はついに、聖女たちの悲願を果たした。これはかつて散った彼女たちの羽根。舞い散ることで、静かに落ちていくことで、誰もかれも彼女の偉業を祝っているかのよう――
「……?」
だが、それも一瞬であった。
呼吸できない。そう気付いたときには、既に彼女の首は彼によって突き破られていた。
彼が剣を引き抜けば、これほどにない返り血が、浴びるように彼を覆った。
リオン自分の血ではない、彼女の返り血で真っ赤に染まった頬を拭う。しかし、手は既に血に濡れて、未だに乾いていなかったので、彼は更に血で顔を汚しただけに過ぎなかった。
彼は自分の身体ですらない剣ですら、肉の一片すらも持っていたくないといわんばかりに、剣を振り、水面に血を叩きつける。
べちゃりと、血と脂肪が波紋を立てて落ち、静かに沈んでいった。
彼女は静かに倒れる。胸からあふれ出る血がやがて水面に辿り着き、リオンと同じように、水を血で汚していく。
ローブから、欠けることない翼が見えていた。
「……」
彼は彼女の手から零れ出た瓶を拾う。瓶はまるでリオンを認めたくはないように、万能薬は赤黒かった。だが当然だ。これは女神の血液そのものなのだから。
女神――リオンが最も忌むべき憎むべき存在。彼女も恐らく、今やリオンを最も憎む存在と見ているだろう。
だがそんなこと、彼には関係ない。
リオンはそれから、懐から一房の髪を取り出す。
小さくまとめられた、一房の髪。それは懐かしい人の、ただ一つの遺された遺品であった。
そして万能薬は、死者すら蘇生する奇跡を持っていた。
リオンは金色の蔦として走力されている金の細工を破り、金色の蓋を開ける。
たった一滴。たった一滴で良かった。この万能薬はまだ使い道がある。リオンの目的にはこれからも使い道がある。
骨に一滴、万能薬を垂らす。それだけで、リオンの願いが叶えられる。
やがて一本の骨は、二百二〇本の骨となり、血液が流れ、筋肉を創りだし、皮膚で内臓を覆っていく。
彼は目の前にある奇跡を、それでも無感動に眺めていた。
やがて肉体は、一人の人間を象った。金色の髪の、碧眼の美しい人間。リオンはついに、想う相手と再会することができた。
「アリア」
黄金の麦畑のように、長く棚引く髪の彼女。彼女は村で最も美しい人だった。
リオンとアリアは彼らが物心つく前からの幼馴染みであった。彼ら三人はいつも一緒で、リオンにとては、家族よりも長く傍にいた、大切な存在だった。
アリアはある時、あっけなく死んでしまった。誰でもない、敵国の雑兵の手によって。あっという間だった。アリアの胸に突き破った槍の穂先はリオンにも見えていた。それは彼女の即死を物語っていた。
リオンはせめてものと、アリアの髪を切り取って、ずっと懐に保管していたのだ。誰にも盗られないよう、悟られないよう。事実、リオンが遺骨を持っている事実など、誰も彼も最後まで気づかなかった。アリアに一番近しい人間ですら、リオンが遺品を持っていることなど知らなかった。もし彼が気付いたなら、愛しいアリアの遺品だからと奪われ兼ねなかった。
だが、リオンはどうしてもこれだけは奪われるわけにはいかなかった。これはリオンの目的であり、唯一のものである。リオンにとっては、どんな聖遺物よりもよほど大切なものだった。
「リォ……ン」
彼女は薄く目を開き、目の前にいる人間の名前を呟く。
何もかもあのときと、彼女の息が途絶えるその瞬間と同じ格好であった。リオンと同じ革で出来た鎧を着こんだ彼女はそれでもあっけなく敵の槍を受け入れてしまった。鉄なら、もしかしたら助かっていたかもしれないけれど。
だが、どんな奇跡を持ちようと、それこそ女神の遺骸を使っても過去は変えられない。
ならば今、未来。彼に出来ることはそれだけだった。
だが、それで十分。彼にとっては、今、アリアが目の前にいる。リオンにとってはそれだけで十分だった。
「あぁ――……やっと、お前を……この手で」
リオンの目的はアリアをこの手で蘇らせること。何者でもいけない、この手で彼女の復活を見届けることにあった。
死者をも復活させる神の奇跡。それが出来るのは、ここの迷宮の塔であった。
聖女も万能薬を求めていたのはとうの昔に知っていた。だから急いていたのだが、まさか彼女が試練を乗り越えられるなど、リオンですら想定していなかった。
しかし、今や万能薬はこの手にある。リオンはこれで、死者をも復活させる奇跡を実現させた。
彼女をこの手で優しく抱きしめる。血にまみれ過ぎた衣服は彼女に移ってしまう。それでも、アリアは抵抗せずにリオンを受け入れて、そして。
「やっと俺の手で、殺すことができる」
リオンは彼女の首を掻ききった。アリアは何が起きたと分からない様子で、力なく、水面に膝を付けた。聖女のときと同じように、血が、水に浸り、やがて混ざりあっていく。
何故、どうして。と、声を失った彼女が、代わりに視線で訴えてくる。
リオンに突き刺さる視線は、彼を殺すに至らないほど弱弱しく。だからこそ彼は、無表情で、彼女の疑問に答えることにした。
「何故俺が、わざわざお前を生き返らせて、また殺したのか、分からないみたいだから説明してやる」
殺すだけなら、既にリオンの目的は果たされていた。だが彼は、同胞であった人間たち、特に勇者一行は自らの手で殺さなければいけない枷に囚われていた。
それは、これほどまでに憎んだ人間を生き返らせなければならないほどに。
彼はたとえ今回で死者の蘇生が出来ずとも、他の手段を用いて奇跡を模索しなければならなかった。
「本当に死人が生き返るか、試したかっただけだ。神の聖遺物の中身は、幾ら調べようとも結局噂の域を出ない。だからこれが本物であるかお前で試した。それだけの話だ」
リオンはこの踏破の褒美が、万能薬だという確信はついぞ得られなかった。死体はどこでも出来るが、どうせなら、自分が殺さなければ人間で実験すればいい。
アリアはリオンが完全に復讐を決意する前に死んでしまった。もし死者の国が門を開いてあったままであるなら、リオンは復讐を諦めなければならなかった。
諦めるということはリオンも死に囚われていること。どうしてもリオンは、未だ死に魅入られるわけにはいかなかった。
彼女は崩れ落ちる。水しぶきが起きて、彼女は水の中にいるというのに立ち上がることすら忘れて、ついに呼吸すら必要としていなかった。
リオンは、淡々と、彼女が死んだことを確認する。散らばった金の髪は、今やリオンにとって忌ま忌ましいだけだ。光をなくした彼女。五体満足でよみがえったというのに、すぐに死んでしまった哀れなアリア。
だが、どんな事実をもってしても、リオンが彼女に慈しみを覚えるなんてことはあり得なかった。
彼は神殿を見渡す。踏破された迷宮はやがて崩れる運命にある。けれどもリオンはその前に、女神を遺した遺物を破壊する必要があった。
幸いこの神殿程度の広さなら、彼が手ずから持ってきた爆薬で倒壊するはずだった。女神の思わせる遺構は全て潰す。それもリオンの目的でもあった。
「万能薬であるならこいつらは生き返る。クソ、やっぱり厄介だな。自称天使というやつは」
万能薬といえども、生き返るのは天使だけだ。女神の血を引いた人間たちだからこそ、死者蘇生は成り立った。
元は女神の遺骸であるからこそ、成り立つ理論。死者蘇生はそうたやすいことではないあまりに万能だから、軽々しく処分もできない。海に捨てたなら、女神は新しい生物を創るだろう。天使の墓標に落としたなら、一体幾人の天使が蘇ることやら、想像だにしたくない。
「一羽たりとも残さず、余すことなく、絶対に」
彼は未だにその場を後にしない。二羽の遺骸をも生き返らないように始末する必要があるからだ。死体が腐らないうちに、細かく刻めば、彼らが万能薬をもってしてでも生き返ることは難しいとリオンは知っていた。
万能薬が蘇生でもとに戻すのは、肉体から魂が抜けるその直前まで。肉体が腐ってはじめて、彼らの魂は肉体から解放されるのだ。
だから、腐る前に、魂ごと粉々にすりつぶす。それなら、たとえまた万能薬の類で生き返ったとしても、魂がすり潰された彼らに、意思などあるはずがなかった。
水に浸かれば、腐り始めるのは早いが、それでも処理するのには遅くない。
彼はまず、解体するに相応しい場所まで、二羽の死体を担いだ。
「天使は殺す」
彼は呟く。正確には天使ではない。羽を持っただけの、己の罪を自覚しない人間。
それらを一羽残らず殺す。これが今の彼の存在意義であった。
「何が何でも。どんな手を使ってでも、必ず殺す」
たとえ生き返らせることになっても、殺す。彼は肉体を持たなくなった人間んでさえ、その魂の、在り方だって許せなかった。
彼らは女神の魂が分かたれた際に出来た存在だという。そう、彼らも女神の聖遺物に等しい存在だった。
この世の天使を、女神を。彼らのすべてを憎み、呪う。
この感情は決して誰に受け入れられるものではない。分かち合えるものではない。それでも。
リオンは憎んでいた。どうしようもないほどに。
リオンがリオンでいられる限り、彼は殺し続けるだろう。
たとえ魂だけになっても、この殺意は誰に止められるはずもなかった――
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