森人さん

百地田

第1話

 はあ、殺戮オランウータンとはなにか、でございますか。


 それは勿論、文字通りの存在でございますよ。ホラ、ここから駅の方を見ると、ロータリーの真ん中に大きな銅像が建っておるでしょう。あれこそが殺戮オランウータンなるモノの像でございます。あなたさまもテレビやなにかで見たことくらいあるでしょう。人間と同じようで全く違う、褐色の体毛に包まれた彫りの深い顔に長い腕。この町の守り神のような存在ですね。

 オタンウータンはよく知っているが、殺戮オランウータンは知らない?となると、ははあ、あなたさまはこのあたりの人間ではないと見える。このあたりに生まれた子供は、物心ついたころからあの像のことを耳にタコができるくらい聞かせられるのですよ。最近では幼稚園の園外保育でも教えると聞きましたから、いやはや、これはこの地域独特のものでしょうね。

 おや、ご興味が?ぜひ自分にも教えてほしいと?ええ、ええ、勿論よろしいですよ。私、こう見えてこのあたりの風俗を研究している者でして。そこの道行く人々よりも詳しいお話をできると思います、の前に先に注文をしましょうか。駅から顔色も悪くふらふらと出てきたあなたさまを、この喫茶店に引き込んだのは私の勝手でございますが、なにも頼まず長居するというのも周囲の目がよろしくない。ホットコーヒー?無難ですな。では私は、ふむ、バナナジュースをいただきましょうか。ああ、代金は折半ですよ、勿論ね。


 さて、まずはこの国の歴史を軽く振り返りましょうか。300年ほど前、この国が江戸時代だった時、世を治める幕府はひとつの政策を打ち出します。その名を鎖国令。聞いたことくらいはおありで?国内からの人員や金銀の流出、そして国外からの宗教や宣教師の流入を厳しく禁止したものでございます。まあキリスト教のアレコレが主な原因と聞いておりますが、それは割愛いたしましょう。

 しかしそのような時代にあっても、海外の国々との交流が幕府直々に許された港がありました。ひとつは北海道、ふたつめは鹿児島、みっつめは長崎でございます。それらの港には海外からの船が泊まり、数々の輸入品を運んできました。ああ、この喫茶店の目の前を通る大きな道路、これは長崎から幕府のある江戸へと続いた道の名残りでしてな、この町は宿場町と呼ばれ、かなりの賑わいだったそうです。

 さて、海外からの輸入品には当時は珍しい医学書や胡椒などがあったそうで、その中でも特に異彩を放っているものに象がおりました。ええ、あの象です。動物園にいる、牙のある、パオーンと鳴く。あれです。あれがこの道を歩いて江戸へ行ったそうですよ。それまでの日本に象は流石にいませんでしたからね、どの人も道行く象にとても驚いて、時の天皇や将軍でさえも興味深く見たと記録されています。

 さて、それに気を良くしたのが象を連れてきた使節団でした。この国で動きやすくなるには、幕府の機嫌を取っておいて損はありませんから。味をしめた使節団は、もっと珍しい動物をと数年かけて探し求め、これを持ってきました。ええ、それがあのオランウータンでした。

 しかし、遥か南の国から長崎を通ってはるばるやってきた彼女は……ああ、メスだったのですが……空気が合わなかったのか食べ物が合わなかったのか、衰弱し痩せ細ってしまいました。このようなみすぼらしい姿の動物を、江戸へ連れて行く訳にはいかぬ、と使節団は彼女とその世話人をふたりきり、この町に置いてゆきました。

 打ち捨てた訳ではなく、生きておれば帰り道にでも回収するつもりだったのでしょう。当分の餌代や入用の金もたんまり置いていったそうですから、不自由は全く無い暮らしだったのでしょうな。最初こそは彼女につきっきりだった世話人も、月日が経ちとうとう彼女が危うくなると、その金を懐に入れて夜の町へと繰り出すようになりました。

 そんなある日、世話人は彼女の変化に気づきました。いつもは残しがちな餌をすべて平らげたうえに、ぼさぼさだった体毛が艶やかさを取り戻し、痩せ細った体や表情にも活力が漲ってきているように見えたのです。それを奇妙に思った世話人は軽い触診を行い、彼女の下腹部に気づきました。そう、まるで妊婦のように張った胎に。

 ええ、なんと彼女は妊娠していたのです。それからはもう大騒ぎ。日本猿ならともかくオランウータンの出産なんて誰も経験がありませんからね。しかも元々は幕府に献上される予定だった生き物。下手な事をしたら、江戸から戻ってきた使節団に何を言われるかわかったものじゃない。世話人はほうぼうに頭を下げて産婆を探し、町人の力を借りて産屋を建てました。

 そして数か月たったある夜、出産の時が近づくと彼女は産婆や世話人、江戸から駆け付けた数名の使節団と共に産屋に籠りました。難産だったのでしょう。数時間後、彼女の悲鳴のような鳴き声とともに「生まれた!」と喜びの声が産屋の中から沸き上がりました。外で彼女の赤子を一目見ようと待ちかねていた人々も、ワッと沸いて中から出てくるその姿を、今か今かと待ちわびていた、その時でした。

 とんでもない悲鳴があたりに響き渡り、続いて何か柔いものを複数握りつぶすかのような、おぞましい音が産屋の中から聞こえてきました。外にいた人々は顔を見合わせ「これはただ事ではない」と産屋の中に駆け込み、そして、地獄を見た。

 産屋の中は出産終わりの慌ただしい空気のままで、布切れが散らばっていたり水桶がひっくり返っていたり、天井からぶら下がった力綱がぶらぶらと揺れていましたが、ただひとつだけ、その場に似つかわしくないものがありましてな。……血の海だったそうですよ。彼女以外の人間、全員が見るもおぞましい死に方をしていて、彼らから流れ出した血肉が地面はおろか天井にも飛び散り、鉄錆と生臭さが入り混じったなんとも言えぬ臭気がたちこめ、本当に背筋が凍るほど恐ろしい景色だったとか。そして当の彼女はというと、生まれたばかりの赤子を大事に大事に抱えて、産屋の隅から、入ってきた人々を睨みつけていたそうです。

 ええ、勿論言いたいことはよくわかります。人間を殺してしまうなど、本当に恐ろしい話です。しかしですね、産屋に入る直前に、使節団がこう言っていた記録が残っています。


「赤子を江戸へ連れてゆく」


 本来野生のオランウータンは出産後、すぐさま母乳を与えるなど、献身的な子育てを始めます。しかしですよ、もし、それを待たずに赤子を取り上げてしまったら?しかもそれがよく知った世話人ではなく、見知らぬ人間、例えば産婆や使節団の人間なら?怒ってしまっても不思議じゃありません。オランウータンの筋力は人間を遥かに上回り、握力だけでも200キロはあります。その力で腕を握られでもしたら……ご理解いただけるでしょう。

 この出来事の後、一か月ほどして彼女は死んでしまいました。もともと衰弱していた体で出産したのも理由の一つでしょうが、産屋の中で世話人も死んでしまっていましたからね。彼女を詳しく知る人間が居なくなってしまった、というのもあるでしょうな。

 こうして、人間を複数殺してしまったといえど、異国で我が子を守ったその深い愛情が人々に讃えられ、あなたさまが不思議に思ってらっしゃる「殺戮オランウータン」としてこの町に残ることになったのです。


 ふう、話すと喉が渇きますね。……なにか質問がお有りならば、私のわかる範囲で答えましょう。ええ、なんなりとどうぞ。

 ああ、彼女の餌は普通のオランウータンと変わりませんよ。牛乳や季節の果物、ニンジンやさつまいもなどの野菜を与えていたようです。本来ならば彼女の故郷の食べ物、例えばバナナを与えればよかったのですが、バナナは当時、この国では実芭蕉と呼ばれる観葉植物の一種でした。まさか食べるだなんて、思いもしなかったのでしょうな。

 この町に彼女がいた期間?ああ、1年半です。町のはずれに小屋を建て、そこに世話人と彼女で暮らしていたそうですよ。時々、彼女を見物しようと人がやって来たそうですが、世話人が追い返したと記録に残っています。しかし、世話人は彼女の為にと用意された金を持って、毎夜のように町に出かけていたとか。困ったことです、仕事をきちんと納めない人間は、いつの世にもいるものですな。

 赤子の父親は、ですか。は、ははあ、流石に、私には、なんとも。なにせ遥か遠い昔の出来事です、残っている記録もあれば、長い歴史を辿る中で失われてしまった記録もある。父親に関しては紛れもなく後者です。おそらくは、彼女が生まれ育った森で出会い、契ったオスのオランウータンでしょう。そうでなければ、はい?今、なんとおっしゃいましたか。おかしい?何がです。妊娠の期間?そんな。

 ……ああ、ご存じだったのですか。まったく、油断も隙も無いお方だ。ええ、そうです、おっしゃる通り。……オランウータンの妊娠期間は約9か月間。出産時期から逆算すると、彼女がこの町にいた一年半の間に妊娠が始まっている計算になる。よくお気づきになられましたな。ははは、まったく……いやはや……。


 ……すこし、奥に行きましょうか。なあに私はこの町では少し知れた有名人でしてな、すこし勝手をしたところで咎められることもありますまい。ささ、こちらへ。……ここからの話は私とあなたさまの二人だけの秘密でございます。人には、特にこの町の人間には、絶対に言わないようお約束ください。絶対にですよ、よろしいですね?

 先ほどあなたさまにお答えしたように、世話人は昼間は彼女の傍にいましたが夜、彼女が寝てしまうと町へと出かけていきました。となると夜、彼女の傍にいる人間は誰もいません。その隙を見計らったのか、とある連中が彼女が眠る小屋を訪ねました。この町に根城を持っていた賭場の若衆です。最初は、江戸に運ばれる筈だった生き物を見るという物見遊山気分だったのでしょうが、ええ、まさしく魔が差したのでしょうね。ひとつ、「具合」を確かめてみるか、とね。

 ……皆までは言いますまい。察する、というのも大切なコミュニケーションのひとつですよ。ええ、まさしく。……人間とオランウータンは似ているようで全く違う種族です。その間に……子ができるなど……。

 はあ、まだ何かおありで?その後の赤子はどうなったか、ですか。ははは、まるで重箱の隅をつつくような質問ですな。そこらの弁論大会では重宝するでしょうが、今ここではただ困ってしまうばかりです。ははは、ふむ、どうしたものか。

 ……赤子は男の子でした。「もりと」と名付けられ、とある老夫婦に預けられました。老夫婦の間には子供がいませんでしたから、とても可愛がって育てたそうです。「もりと」は、生まれた時こそ彼女のように褐色の体毛で覆われていましたが、時が経つにつれて毛が薄くなり、人間のように本来の肌が見えるまでになりました。

 「もりと」は朴訥とした風貌で気遣いに優れ、書き仕事こそ苦手だったものの、力仕事では大人の男5人分の働きをしました。20歳を過ぎるころには、町一番の器量良しの娘を嫁に迎え、三男一女をもうけたとあります。不思議ですか?オランウータンから生まれた男を好いた物好きな女もいたものだ、とでも?ああ失敬、どうもこの話題になると、熱くなってしまいがちでしてな、申し訳ない。

 は、その後?「もりと」から生まれた子供たちのことですかな。それは……、ふむ、まあこの町の生まれならば誰もが知っている話です。「もりと」から生まれた子供たちもまた、成長してそれぞれ家庭を築き、子供を授かりました。

 そしてその子供たちも成長したころ「もりと」はその生涯を閉じました。享年八〇歳越えの、その頃は珍しい大往生でした。その死を嘆く「もりと」の子孫たちは「もりと」の名前と、彼の母たるオランウータンのことを決して忘れてはならぬ、と自らの苗字を「もりと」に変えて、彼女たちの墓があるこの町を見守っていくことを決めたのです。今でも「もりと」という苗字を持つ家はいくつかありますよ。機会があれば表札を見てみればよろしいかと。

 さて、もうご質問はありませんかな?ならば結構。私はもう行きます。ぜひこの町を楽しんでくださいね、名もなき旅行者さま。……ああ!ここまで長々と話しておいて、自分の名前もお教えせずに、お恥ずかしい。これは大変失礼いたしました。ささ、これをどうぞ、私の名刺でございます。もしまたこの町にいらっしゃった時は、ぜひ頼ってください。それでは、さようなら。


…………

……………………

……………………………………


 「あなた」は、町の雑踏に紛れてだんだんと小さくなっていくあの人の背中をぼんやりと眺めつつ、先ほどからひくひくと小さく痙攣を繰り返しているこめかみを押さえた。

 ネットで見かけた「殺戮オランウータン」に興味を持って、故郷からはるばるやって来た異郷の地だったが、これは思いのほか疲れるというか……”濃い”。あの人の褐色の頭髪の面影を振り払うかのように頭を振り、すっかり冷めてしまったホットコーヒーを胃に流し込んだ。ふとその時、名刺をもらったこと思い出しポケットから取り出す。

 そこにはこのような文字が並んでいた。


「殺戮オランウータン記念館 名誉館長       森人 しげる」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

森人さん 百地田 @moko_lb13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ