第2話 ◇


 空は高く澄み渡り、風は冷たく清水を思わせ、木葉は茶金に輝く、晩秋の良き日。

 にもかかわらず、わたくしは個人的な事情から非常に苛立っておりました。ですから、あの中年男性――看護師の方に〝戸比とくらべさん〟と呼ばれていたでしょうか――にぶつけた言葉は、まぎれもなき憂さ晴らしでした。

 良識ある社会人として、分別ある女性として、想像力ある一市民として、あの一言が戸比氏にどんな影響を及ぼすか、ある程度は承知していました。

 けれどわたくしはその時、人生で四番目の苦境に立たされており、人を慮る余裕はなく、また何かを踏みつけにしないと階段の一段も上がれそうになかったのです。居合わせた戸比氏には、誠に運の悪いことでした。

 ちなみに〝四番目の苦境〟と言いましたものの、一番から三番までこれという事物の順位付けをしているわけではありません。実のところ、己の取るに足らない半生において、この〝四番目〟はおそらく事態として最も重く、一番の冠をかぶせたとて、さして間違いはないはずでした。

 けれど、子どもの頃の仲間外れにされた翌日の登校の鉛を呑んだ重苦しさとはまた違い、ある程度の予想というか覚悟していたもので、淡々と受け止め能う限りの最善手を尽くしており、どこかしら晴れ晴れとした心持ちもありました。同時に、四番目ならばなんとかなるに違いない、というささやかな期待もあったかもしれません。

 そしてわたくしは二十代も暮れ、月末には三十路に突入しようとしていました。途方に暮れた迷子ではなく、孔子曰く自立したいい大人であります。子どもは理不尽や不条理や大人の都合に対抗できるすべを持ちませんが、大人は理性的に社会的に金銭的に対処できます。だから、子どもの悲劇よりもずっと救いのあるものだと認識しておりました。

 しかれど、ほんのささいなきっかけで感情は波立ち、この事態に欠片も納得していないことに気付かされるのです。そして自身の心のうちにどうしようもない癇癪持ちの子どもが棲みついていることにも。

 四番目の苦境の中、日頃の不養生がたたったのでしょう、わたくしは肺炎を患いました。職場に一週間の有給を申し出れば、あなたの仕事はあなたにしかわからない、仕事はそのままにしておく、先方や他部署に迷惑がかかるようなら打診しておいてくれと上司に言われました。

 少し前も急なお休みをいただきご迷惑を掛けたため、こちらからお話ししようと思っていたので否やは無かったのですが、誰かが仕事を肩代わりしてくれるとは思うなと言外に言われた気がして、病身の心が一層冷え冷えとしました。己が僻みっぽくなっているのは自覚しています。


 その日、医院を訪れた際も僻みは遺憾なく発揮されました。

 一昨日前、肺炎との診断を受け、わたくしは抗生物質の点滴を打ってもらいにやってきていました。本来は入院すべきなんだがな、と小さい頃からお世話になっている老医師は難しい顔でこぼされましたが、こちらの事情も理解されており、それ以上は何も仰りませんでした。

 小さいけれど、ひっきりなしに地域のご老人や子どもが来院する内科です。わたくしは中古の赤い軽自動車を運転してきたのですが、平日の午前だというのに駐車場は混んでおり、お弁当箱に入りきらなかったおかずの悲哀を感じました。

 しようがなしに、道を挟んだ場所にある第二駐車場に停めようとしたところ、見慣れない青色の車が停まっているのに気付きました。ちょうどその日の空を盗み取ったような。

 国産ワゴンやファミリーカーが多い中、レトロな意匠のその外車は少し場違いにも感じられます。けれど場違いさを恥じるのではなく、むしろ優越を抱いているように見えたのは、やはり歪んだ心持ちがさせたのでしょう。

 点滴ルームで横たわる氏をお見掛けした時、わたくしはあの空色の車のオーナーだと直感しました(午前診療が終わった駐車場に残っていたのは空色の車を含めて三台だけだったのでかなりの高確率で氏の車と予想されます)。五十代前半ほどで、衣服は派手ではないもののブランド品で統一されており、かなりの洒落者だとわかりました。奥様がコーディネートしてくださっているのかもしれません。

 頑健な体躯、瀟洒な車、品・質ともに良い衣服。わたくしの僻み根性はいっそう燃え上がりました。

 今、別件で総合市民病院にも通っていますが、そことは違い、この小さな内科医院ではあまり個人情報保護プライバシーというものに重きを置いていないようで、ベッドとベッドを仕切る衝立は適当なものでした。おかげで点滴ルームの戸口で看護師を待つ間、氏の様子がとっくりと眺められました。

 氏はぼんやり、心ここにあらずという風情で、宙を見つめておられました。他人が己を観察しているなどとはまったく気付かないで。そうして、ひとりごちたのです。

 

 ――いっそ、死んじまいたいな。


「あらあ、戸比さん、まだいたんですか?」

 と、看護師がやってきて、氏の点滴を調整し、その後に椅子に腰掛けていたわたくしをベッドへと促しました。彼女とやりとりしながら、一方では先ほどの氏の言葉を胸の裡で繰り返しました。


 イッソ、シンジマイタイナ。イッソ、シンジマイタイナ。イッソ、シンジマイタイナ――いっそ、死んじまいたいな。

 

 その音と意味が脳内でつながり、処理されたのは、十数回も唱えてからです。

 そうしているうちに看護師が出て行き、わたくしはベッドに横たわりました。その際、落下防止用の柵にスカートの裾が引っ掛かり、大きく捲れ上がってしまいましたが、そのまま放置しました。裾を整える、その一挙動すら、億劫だったのです。それほどに疲労を上回り疲弊していたのです。

 氏の視線に気付いたのはほんの一、二分寝入ってからでした。いやらしいというか、けしからんというか、不届き千万、というか。そんな非難がましい眼差しでした。けれどその奥には愉悦も潜んでいる。

 正直なところ、腹が立ちました。なんと欲張りな御仁だろう、と。

 空色の外車のオーナーで、立派な身体を持ち、ちょっとだけ体調を崩した壮年の男性。死にたいけれど、ふとももはガン見される。

 もちろん、人の心とは余人には計れぬもの。心の病があるのも承知しております。その時、心に問題を抱えていたのはむしろわたくしだったのでしょう。

 

 ――だったら、死なせて差し上げましょう。

 

 わたくしは氏にわたくしの不機嫌への生贄になっていただくことに決めました。それに相応しい人物だと判断したからこそ。

 こういう経緯があったからこそ、正直なところ、翌日、戸比氏が同じ時間帯に来院したのは、驚くべきことでした。

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