第九十六話 回帰

 雨の止んだ沢陽口たくようこう城郭まちが少しずつざわめきを取り戻していく気配がある。半年ぶりに営みを取り戻した人々が時間の経過に戸惑っているのだろう。生きていた記憶もないのに季節が二つ変わっている。混乱は避けられないだろうが、それでも沢陽口の住人たちは最後の燐光だけは見ただろう。白喜はくき神気しんきが自らに加護を施したことすら無視しなくていいぐらいには、彼らの中にもまだ信仰心というものが残っていたらしい。

 天馬てんばの姿を改めて、新たな概念を取り入れて成長し――西白国さいはくこくで言えば中科ちゅうかを受ける年ごろの容貌になった委哉いさい赤虎せっこの背に乗っている。赤虎が音もなく文輝ぶんきの前に降り立ち、委哉が文輝と肩を並べた。文輝は白氏はくしの成人男性として平均的な体格だと自負している。その文輝より少し背が低いだけの委哉を見るのはどうにも不思議なような気がした。

 声変わり――でいいのだろうか。少し低音に寄った声音で委哉が別離の言葉を述べる。


小戴しょうたい殿。ここから先はあなたたちの問題だ。僕はもう十分に食事が出来たから、この辺りでお別れかな」

華軍かぐん殿も行かれるのですか」

「おや? 僕の言葉を聞いていなかったのかな? 夕明せきめとはもう一緒にいる理由がないんだ」


 君はもう自由だ。怪異として生きるも、この世界に帰化するのも自由にするといい。怪異でい続けるなら、いずれ僕の食事となるかもしれないけれど。

 言って少年が鮮やかに笑った。

 その笑みには二つ心がなくて文輝、子公しこう、華軍の三人は一瞬だけ途方に暮れる。


「――逃げ口上ではなかったのか」

「夕明。君まで何を言っているんだ」


 僕は君が小戴殿と知己だということすら知らなかった。それでも、縁は巡る。君がいつか僕の願いを叶えてくれると信じたから僕は君と行動を共にしただけだよ。

 これだけの怪異を食ったなら向こう百年や二百年は決して空腹を感じることもないだろう。からりと笑って委哉が告げる。それは本当の本当に華軍との別れを決めた声音だった。


「小戴殿。縁があればまた会おう。よい百年を」

「――君も、よい百年を」


 人の形になったはいいものの、呆気に取られる華軍の肩を委哉の掌が叩いて、消える。叩かれた当の本人はまだ現実の世界に回帰しておらず、視線がどこか中空で固定されたまま泳いでいた。

 文輝の両目がじわりと痛みを感じて、何かが剥がれる。委哉の眼を返したのだ、と何とはなしに察した。耳は未だ土鈴の音が近く遠くに聞こえる。華軍の怪異としての異能はまだ残っているようだった。


「華軍殿。華軍殿はどうなさいますか」

「――お前たちはどう――いや、尋ねるまでもないな」


 琥珀色の双眸がこちらを見て、返答も待たずに論理を結ぶ。

 その視界には文輝越しに沢陽口の城郭の喧騒が映っているだろう。それを見て、華軍がどうするのか。本人のよいように選んでほしい、と思った。


「明日が約束の半月になります。岐崔ぎさいから本隊が到着するのを待ち、俺たちはその指揮下に入ります」

「――逆族の顔を見て、情に絆されてくれるほど兵部は軟弱ではあるまい」

「ではここで――」


 華軍とも別離するのだろう。そう結ぼうとすると琥珀がふわりと柔らかみを帯びて輝く。


「いや」


 小戴、猫なら連れて歩けるだろう。

 言って華軍は紅の体毛を持つ、ごく一般的な大きさの猫へと転変した。

 それは、連れていけ、ということを暗喩している。まだ一緒にいてくれる、ということだ。あの日。あの夜。文輝が未来永劫手放したと思っていた朋輩ともう一度、人生という引き帰せない命題を証明する機会を与えてもらった、ということだ。目頭がじん、と熱を帯びる。それでも。落涙らくるいにはまだ早い。いつか、また未来のどこかで別離するその瞬間まで、文輝の挑戦を見届けてくれるのにこんなところで涙していては遠くない未来、水分が枯渇してしまうだろう。

 泣き虫の小戴とはあの日、別離した。

 「暮春ぼしゅん」と別離してこの国を選んだあの日から、文輝は西白国さいはくこくの国官となったのだ。


「華軍殿! 至らないことも多いかと思いますが、よろしくお願いします!」

「おい、文輝。貴様、この得体のしれない怪異を連れて私の故国を訪れるつもりではないだろうな?」

「いいだろ、別に。猫を連れて海を渡るな、なんて律はねえんだし」

「わかっているのか。私の故国は――青東国せいとうこくは神に隷属する国だ。怪異などすぐに敵視されるぞ」

「まぁ、それも上官殿に相談してみるっきゃねえだろ」


 からりと笑ってそう返すと子公は深い溜息を吐いたが、もうそれ以上反駁する気はないようだった。


「行くぞ、子公。この城郭はまだ本当に安寧を取り戻したわけじゃねえ。俺たちの仕事は終わっていないんだ」

「貴様に言われるまでもない。まぁ、ここから先は貴様のお得意な肉体労働だろうからな。状況説明は代わってやろう」

「言ってろ」


 直刀ちょくとう神器じんぎを鞘に収め、青空を取り戻しつつある沢陽口の市街に向けて文輝は駆けだした。

 その肩で器用に均衡を保ち続ける華軍は、足の遅さで置いて行かれている子公のことを一言だけ心配したが、ここはもう人の世だ。子公の生命が悪戯に危険に晒されることはないだろう。

 土くれの匂いがする空気を吸い込んだ。

 任務はまだ終わっていない。終わっていないが、この城郭はこれから変わっていける。そんな確信に近いものを更に後押しするように、薄紅の伝頼鳥てんらいちょうが文輝目がけて舞い降りてきた。

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