第十七章 夜明け

第九十七話 霜降り月

 霜の降りる季節になった。

 首府しゅふ岐崔ぎさいにおいても寒風が街路を吹き抜けていく。石畳の上には薄っすらと氷の柱が立ち、軍靴で歩く度にしゃりしゃりと砕ける音が聞こえた。外套を着てもなお寒く、呼気は吐く度に白く曇る。口元だけが透明で、唇のすぐ上からは白い煙のように立ち昇っては大気に消えるものを眺めながら、たい文輝ぶんきは城門に向けて通い慣れた坂道を登った。

 夏の初めに起きた怪異による騒動を文輝が解決──したと思われてから四ヶ月の時が流れた。岐崔の主要なみなとである眉津びしんに「空からの来訪者」がある、という報せがあったのが一昨日のことだ。岐崔における津には全て入港制限があり、定められた時間外の入出港は禁じられている。夜から朝方にかけては岐崔を取り囲む湖水の特性上、航行に危険が生じる。安全を担保する為にそのような律令が設けられたということを認識した先方が別の手段で安全を担保した為、工部こうぶ治水班ちすいはんがぐうの音を飲んだ格好だ。

 岐崔・中城ちゅうじょうはこの小島の一番標高の高い山頂部に位置する。

 高く張り巡らせらた城壁や、高楼の配置状況から島の反対側を見下ろすことまでは叶わないが、陽黎門ようれいもんの前に立てばその直線上にある眉津は一望出来る。城下──文輝の知っている岐崔の殆ど──はこの門前に収まっているのだ。そのぐらい、文輝の知見は狭い。

 数年前にこの門の守衛と世間話をしたと思ったら、首府を取り巻いた騒乱の中心人物になってしまったという経験の記憶はまだ新しい。あれから中城は少しだけだが変化した。右官府うかんふは不定期の配置替えをやめたし案内所は不要になった。人々を縛る「かん」も旧時代の遺物となりつつあるが、文輝はそれでも未だに赤環せきかんを首からぶら下げている。才子さいし──白帝はくていの加護を得た一部の異能者が作り出した奇跡的な造形美を捨てる、ということがどうしても文輝には出来なかっただけで、戴の家では次兄も義大姉も環を返還した。東部に赴任している長兄も似たようなことをした、と聞いている。そんな親類たちは今でも各々の分野で英気邁進している。出世に環は不要だと示すのが彼らの役割なのだろう。文輝にはその任はない。好きなようにせよ、と官吏を退いた父が言ったのに甘えて着物の合わせの下で今日も赤環はその輝きを保っている。

 夜明けにはもう少し遠い時間だが、陽黎門の松明はまだ赤々と燃え燻っている。守衛が二人、矛を構えて門の脇に立っていた。彼らは文輝の登庁を知るや軽く会釈して拳と掌を合わせた。文輝もまたその礼を返すことで守衛の役割を労る。時折炭の爆ぜる音が聞こえてくる中、文輝は城下を眺望出来る場所に立って藍色の空をぼう、と見ていた。


「戴校尉こうい。もうじきの来訪だ、という鳥が参りました」


 言って守衛の片方が空色の爽やかな料紙を手渡してくる。そこには見慣れた達筆な文字で、待ち人が沢陽口たくようこう城郭まちの上空を通過したことの報告が書かれていた。伝頼鳥てんらいちょう──というのは西白国さいはくこく独自の文化だ。才子のみに伝授された極めて機密性の高い暗号通信で、他国にはそのような文化がない。と思っていたのも先頃までの話で、何の因果か知り合った他国の「神龍しんりゅうの一族」に名を連ねる知己がたった数ヶ月で仕組みを解明してしまった。天才というのは実に罪深い存在だと改めて思う。


「驚いたな、もうそんなことが出来るのか」


 人を航空運搬する目的で作られたまじないである風切鳥ふうせつちょうの技術も、根拠を示せば少しは難儀するかもしれないが、最終的に知己は理解するだろう。そうなると、西白国の独自の技術が解明されてしまう日、というのはいずれ遠くないのかもしれなかった。


はい小官しょうかんもびっくりしているところです」

「困ったな。そのうち侵略戦争でも起こされたら、俺たちには白旗を揚げるぐらいしか選択権がねえじゃねえか」

「校尉、冗談に聞こえぬのでおやめください……!」

「ま、そんときは俺も一緒に死んでやるからそう悲観的になるなよ」


 隣に立った守衛の肩を乱暴に叩くと、鍛えられた体幹は揺らぎもせず衝撃に耐えた。

 冗談なものか。冗談で済めば上々だ。先方に敵意がない。その一点によって西白国は安寧が保たれているだけで、向こうが本気で侵略をしようと言うのならこの国の文明では到底立ち向かうことは出来ないだろう。一笑に附されて、赤児を捻るようにあっという間に占拠完了だ。そのぐらい、海の向こうの異国の力は強大だった。多分、それは神龍の力の違いなのだ。繰り返される代替わりで神威を落とした白帝に比べ、まだまだ神としての尊厳を保ち続ける一部の国々は安定した繁栄を築いている。一国としての成り立ちの違いでもあるだろう。何百年も続いた政権は腐敗さえしていなければ、強固な力を持つ。信じる、という行為はその原動力だ。人は信じているものに従うとき、その実力の何倍もの力を発揮する。四ヶ月前、文輝がそうしたように。

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