第八十五話 呼び声

 白い、その名の通り真っ白な雪栗鼠ゆきりすの石像に文輝ぶんきは頬が綻ぶのを感じる。

 ああ、今度は手放さずに済んだのだ。安堵が文輝の中に満ちる。以前、死の淵に落ちたとき、文輝はとう華軍かぐんを手放してしまった。そのことをずっと悔いて生きてきた。もし、あのとき自分がもっと聡明であったなら。もっと意思が強ければ。そうすれば、華軍は死なずに済んだと何度も自分を責めた。それが驕りだと知ったとき、それでもどうしても自責の念とは別離出来なかったのも事実だ。

 雪栗鼠の石像がある、ということは文輝は至蘭しらんの気持ちを汲めた、という意味でもある。

 誰にも探してもらえないと至蘭は思っていた。土砂に埋もれ、雨土に塗れても誰も探してくれないと至蘭は嘆いていた。

 それは何よりも雄弁に無関心を示し、至蘭の心の荒廃を加速させる。そして人は存在を感じない神仙への祈りを放棄する。その悪循環を一つ、文輝にも止めることが出来た。至蘭は──雪栗鼠の天仙てんせんはこの地で再び人の心に残っただろう。怨嗟も混じっているのはどうにもしようがないが、それでも白喜はくきがいたということを沢陽口たくようこう城郭まちは確実に思い出した。何かが劇的に変わることはない。途絶えるのを先延ばしにした。ただそれだけのことだったが、文輝は確かに安堵している。

 腕の中に収まる石像をもう一度見つめた後、ぐるりと視界を巡らせた。

 濡れた烏の羽根の色をした髪色が見える。今にも叫び出しそうな衝撃を堪えた紫紺と向き合うと、彼はゆっくりと息を吸った。


「文輝。生きているな?」

「──子公しこうか」


 まるで今の今まで普通の人生が続いていたかのような顔をして子公が文輝の無事を確かめた。一瞬だけ見えた焦りは幻だったのかと思うほどで、どうあってもこの副官は平静を保ちたいらしい。そういう、沈着な性質だとわかっていたから信頼した。文輝の望みを叶えるために子公の存在は決して失えない才だった。

 安堵すら見せずに子公が溜息を吐いた。

 ずぶ濡れのままの衣服と髪が時間の経過の短さを物語る。今回はふた月もの間眠っていた、だとかいうことはないようだった。


「まあ貴様のような生き汚いものがそうそう死ぬとは思ってもいないが──」

「その割に力の抜けた顔、してるぜお前」


 否定が返ってくる前提で悪辣な冗談を放つ。

 子公はそれを軽蔑するでもなく、まるで当たり前のことのように文輝に相対した。


「何度呼んだと思っている」

「うん──?」

「百七十飛んで三回、だ」

「お前──そんなこと数えてたのかよ」


 生真面目で潔癖のきらいのある子公らしい出迎えの言葉だった。文輝の無事を祈りながら――帰ってこいと必死に念じながらそれでも子公は文輝の名を呼んだ回数を数え続けた。そのあまりにも人らしさに文輝の頬が綻ぶ。人は何かを信じなければ生きてはいけない生きものだ。文輝が至誠を念じるように子公は客観を重視する。何回を越えれば子公は絶望したのだろう。祈りが絶えるまでにここに戻ってこられて本当によかった。

 雪栗鼠の石像を抱いた右手をそっと動かし――まるで錘でも付いてるかのようにぎこちなくしか動かなかったが――子公の濡れた前髪に触れる。指先に触れた髪が冷たくて、初夏といえどもあまりにも長時間にわたる長雨は人の体温を奪うのだと理解した。

 ここがどこでどうして文輝の身体は保護されているのか。それを問うより先に知らなければならないことがある。


「子公。至蘭はいるか?」

「私の目には見えんが、赤虎せっこ殿はいる、と言っている。それに」

「それに?」

龍笛りゅうてきの音がするのでな」


 ひゅう、と鳴るのだ。

 子公は何でもないことのようにそう言ったが、文輝は真意を捉え損ねて間抜けな声を上げるに留まった。


「――は?」

「言っただろう。音は人を縛る。私もまた音に縛られた『神龍しんりゅうの一族』だということだ」


 西方大陸を守護する白帝はくていの血族は土鈴の音を耳にする。そしてそれは別の天帝てんていの血族となれば音が変わるのだ、と子公が水でも流すかのようにさらりと言った。

 子公が話す内容の本当の意味を理解出来ないほどには文輝も愚昧ではない。

 これは出自に関わる話だ。子公がずっと――二年もの間、黙秘し続けた別離したい過去の話だ。それをここで聞くのは筋が違う。もっと、全てが解決して――本当の本当に子公が知ってほしいと思ったときに話してほしい。


「子公、おい。それ以上は今言うな」

「知りたかったのではないのか」

「知りてえけど、まだ『今』じゃねえだろ」

「そうだな。貴様はそういうやつだ」


 それで? 貴様はこの後どうするのだ。不安なんて僅かすら見せないで紫紺が煌めく。その輝きに何度鼓舞されてきただろう。この強さに何度救われてきただろう。

 この、尊くも強い人の生き方を至蘭にも見せてやりたいと思った。

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