第八十六話 強さ

至蘭しらん


 その名を呼ぶと泣き腫らした顔の至蘭が顕現する。

 人の姿をしたり、消えたりと神仙というのは本当に自由な存在なのだと思い、少しだけ羨ましくも思う。それでも、文輝ぶんきは今すぐ人生を手放してしまいたいとは思えなかったが、駆け引きをするのならそれを差し出すこともある程度は必要だろう。

 衣服の袖で何度も何度も眦を拭ったのだろう。真っ赤に腫らした目で至蘭が複雑な表情を浮かべていた。


「――なぁに、首夏しゅか

信梨しんり殿のところへ行こう」

「――いやだ」


 少し間があったが、結局は一刀両断にされる。

 苦笑しながら、文輝ぶんきは一人の大人に対するように彼女に対峙した。初夏なのに掛布の温かさに包まれていないと身体を起こすことも難儀だった。


「お前が嫌でも嫌じゃなくても、向こうは来るんだから自分から行った方が後悔が少ねえだろ」

「でも――」

「いいじゃねえか。信梨殿がお前を叱っても、俺はお前のことを売ったりなんかしねえよ」


 それでも、多分。そんなのはただの気休めで、神仙の間の出来ごとに文輝が割って入る余地など最初からないとわかっている。

 白瑛びゃくえいが本気で至蘭のことを処断しようとするのなら文輝が至蘭にしてやれることなど高が知れているだろう。いっそ、何も出来ないかもしれない。

 それでも、文輝は望んだ。至蘭が彼女自身と向き合い、自己肯定感を得られるのならその一助になることは決して吝かではない。

 困惑と逃避の間で揺れている至蘭の翡翠はあちらこちらと忙しなく視線を彷徨わせていた。

 それは、至蘭の中にまだ迷う余地があるということで、文輝は状況が最悪ではないことを知った。


「なぁ、至蘭。信梨殿のことは嫌いか?」

「きらい。いつも偉そうで、自分だけが正しいと思ってて、わたしの話なんて何も聞いてくれない」

「じゃあ、それを言おうぜ。言ってやんねえと、伝わんねえだろ」

「――そんなことを言うのもいやなほどきらいだって言ったら?」


 相手のことが嫌いで大嫌いで関わるのも嫌なぐらい嫌いだと至蘭は言う。

 自らが受けた仕打ちを考えれば、誰だってそう思うのは自然だ。

 どうして自分が報いられることもないのに、相手の為に諭してやらなければならないのか。声を聞くのも顔を見るのも、何なら神威を感じるのすら嫌だ。何も関わり合いになりたくない。

 その類の気持ちと今まで一度だって対面したことがない、だなんて平和なことを言わなくてもいいぐらいには文輝の人生にも劣等感があった。

 長兄と次兄が華々しく栄進していくのを見るのが嫌だと思ったことがある。

 たい家の落ちこぼれ。九品きゅうほんの面汚し。貴族としてあるまじき存在。

 そんな風に批判されて、文輝だって親族や同輩たちのことが嫌いだと思った。

 それでも。

 全てを棄てるだけの覚悟がなかった。

 不平不満を自分の内にため込んで、誰にも言えないで悲嘆に暮れて。なのに夜は更けて朝が来る。こんな世界で生きていくのがつらいと思った。希望のない明日なんて不必要だと思った。

 そんな文輝のことを救ってくれたのが子公しこうだ。

 絶望を抱いて、過度の緊張感の中で登用試験に臨んだ。一度しかない。失敗したら今度こそ全てを失う。いっそ、そうなってしまえばいい。郭安州かくあんしゅうにいた頃、心の底からその破滅を望んだこともある。

 それでも。

 虚飾を纏ったこの国のことを良くしようと思っているやつがいた。

 大陸を越えて、遥か彼方からやってきた隣人が奮闘するのに励まされた。この国には何の関わりもない、ただの異邦人がこれだけ頑張っているのを見て、自分は何が出来たのだろう。そう思う度に、自分の小ささを知った。

 自助努力するものだけを助ける、と子公は明言した。

 せめて彼の前だけでもきちんとした人間でありたいと思うことが文輝の両足を支えた。

 その恩を伝えようとしても子公は決して受け取ってはくれない。別の誰かが困っているときに助けてやれとしか言わない。

 だから。


「じゃあ、自分の言い分だけ言って帰ってこようぜ」

「首夏。わたしの話、ちゃんと聞いて――」

「自分の気持ちを言葉にするのは面倒くせえし、気恥ずかしいし、格好悪い。それでも、そこから逃げてても現実は何も変わらねえんだ」


 自分が動いて初めて成せることがある。自分自身にしか変えられないものがある。

 子公はそれを何度でも何度でも示してくれた。荒唐無稽な夢を描いて、砕ける度に煽ってくれた。

 文輝が今、ここにいるのは殆ど子公のおかげだ。

 一緒に戦ってくれるやつがいる。それだけで――たったそれだけのことで文輝は顔を上げていられた。

 その想いを込めて説く。子公と華軍かぐんが顔を見合わせて困ったように笑っていた。

 和やかなのか、殺伐としているのか。紙一重の空気の中で、至蘭がぎゅっと両手で上着の裾を掴んで耐えている。違うのだ。そんな風に思い詰めることではないのだ。


「首夏。もう一回言うね。わたしは首夏ほどつよくはなれない」

「だから。使えばいいんじゃねえか」

「――えっ?」

「自分より強いやつなんて幾らでもいるだろ。そいつを上手く使わない理由なんてどこにもねえよ」

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