第八十四話 理由

 人の命の営みは決して美しくはない。人を引き摺り落とし、人を貶め、人を陥れる。そういう類が一定数存在するのも確かで、醜さはどれだけ年月が経っても何世代の文化を超えても消えてはくれない。優しいだけでは生きてはいけないし、正しいだけでは何も守れない。

 それでも、そんな醜悪な世界でも文輝ぶんきはここで生きている。

 美しさが見えるのは刹那の出来ごとで、現実はいつも文輝に優しいとは限らない。

 命を懸けてこの城郭まちを守っても、この城郭は文輝のことを命を懸けて守ってはくれないだろう。そのぐらいのことは流石にもう理解している。

 それでも。


至蘭しらん。いいじゃねえか、失敗だらけで泥まみれでも」

信梨しんりは多分、いいって言ってくれないけどね」

「信梨殿の言い分も聞かなきゃなんねえけど、それよりはお前の気持ちだよ、至蘭」


 人は心の底から望めば、そちらを向いて変わっていくことが出来る生きものだ。それでも苦痛は耐えがたいし、醜悪なものは嫌悪する。難いことは遠ざけて易い道を本能的に選びもすれば、誰かに全ての責任をなすりつけて楽をしようとすらする。

 それが現実だ。理想だけでは決して生きていくことが出来ない。それでも、それが生きていると言うことだと今は何となく理解出来たような気もする。

 至蘭の翡翠が文輝をじっと射ていた。その輝きの真ん中で文輝は至蘭に微笑みかける。


「ねえ、首夏しゅか

「何だ、至蘭」

「首夏はどうしてそこまでしてこの国を守ろうとするの? 醜いと自分でも思っているのに、どうして命を懸けられるの?」

「さあな。理由なんてもう忘れた」

「首夏のことを『首夏』って呼んだ人のため?」

「それもあるかもしれねえ」


 自らの弱さをあの夜、文輝は思い知った。

 万能感に浮かされて青い理想をただ求めていた。

 その結果、文輝は学友と別離した。学友──「暮春ぼしゅん」は西白国さいはくこくとは袂を分かち、今、どこにいるのかもわからない。それでも、人生のどこかで帰りたいと思った時に帰るべき国を残しておいてやりたいと思ったのも事実だ。ただ、今はそれだけではなくこの国のことを嫌悪しながら同時に同じぐらい愛している。

 出来の悪いものほど可愛い、とたい家の使用人たちは皆口を揃えて言う。三男で末っ子の文輝がいっとう手がかかるがその分可愛くも思うそうだ。長兄も次兄も人として武官として共に優れ、人々の先頭に立って進んでいく様が本当に格好良かった。文輝にはもうその背中を追う権利すらない。九品きゅうほんの面汚し、という烙印を押されたあの日から、文輝にはもう落伍者の人生しか残っていないのだ。


「至蘭。お前は知ってるだろ」

「何を?」

「愛の反対が『嫌悪』じゃねえってこと」

「──そうだね。それは、わたしも知ってる」


 好きの反対は嫌い、だが、愛の反対は憎悪ではない。無関心だ。

 二十四白にじゅうしはくとして数多の祈りを受け、その果てに祈りを失った至蘭はそのことを誰よりもよく知っているだろう。向き合った至蘭の落ち着いた髪色がぼう、と薄い燐光を帯びる。それはこの場所が終わろうとしていることの始まりで、文輝の掌もよく見れば少しずつ半透明になり始めていた。

 この暗闇はじきに終わる。

 そうして再び開けた世界と向き合うとき、文輝は死んでいるかもしれない。

 ただ。


「至蘭。お前の心を幸福に出来るのはお前だけだ。いい返事を待ってる」


 そうして文輝は国主こくしゅにするように右手の拳を握り、左手の掌にそっと押し当てた。そのままで軽く上半身を前に折ると、拱手きょうしゅ、と呼ばれる行為になる。文輝は武官だ。敬意の表し方はこれしか知らない。だから、至誠なる態度を取って至蘭と別離した。

 そこから後の記憶は実に不明瞭だが、視界に突然光が満ちた。かと思うと凛、と土鈴の鳴る音がする。「文輝!」と呼ばれた声は誰のものだっただろう。酷く焦燥したような、安堵したような複雑な声音が何度も何度も名を呼ぶ。柔らかなものに包まれていることと、自分の思うように身体が動かないことをとを知って文輝は確信した。

 文輝は再び死に戻ってきたのだ。

 また、戻ってきてしまった。

 終わるならそれでもよかった。至蘭の姿が先に消えたのなら、彼女は自らの役目に戻ったということだ。至蘭にはまだ二十四白として在り続ける意思がある。そうであるのなら、文輝の役割はもう十分果たせただろう。

 そんなことをまるで他人ごとのように思っていると少しずつ温もりが自分に戻ってくるのを感じた。肩の先に腕があり、腕の先に手首がある。手首から親指、人差し指と順番に揃っているのを確かめるように動かしていくと両腕の中に何かをかき抱いていることに気付いた。何を抱えているのだろう、と思いながら重たい瞼をゆっくりと開く。白んでいく視界が徐々に焦点を結び始め、実像を結んだ。その腕の中にあるのは──


「至蘭」

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