第八十四話 理由
人の命の営みは決して美しくはない。人を引き摺り落とし、人を貶め、人を陥れる。そういう類が一定数存在するのも確かで、醜さはどれだけ年月が経っても何世代の文化を超えても消えてはくれない。優しいだけでは生きてはいけないし、正しいだけでは何も守れない。
それでも、そんな醜悪な世界でも
美しさが見えるのは刹那の出来ごとで、現実はいつも文輝に優しいとは限らない。
命を懸けてこの
それでも。
「
「
「信梨殿の言い分も聞かなきゃなんねえけど、それよりはお前の気持ちだよ、至蘭」
人は心の底から望めば、そちらを向いて変わっていくことが出来る生きものだ。それでも苦痛は耐えがたいし、醜悪なものは嫌悪する。難いことは遠ざけて易い道を本能的に選びもすれば、誰かに全ての責任をなすりつけて楽をしようとすらする。
それが現実だ。理想だけでは決して生きていくことが出来ない。それでも、それが生きていると言うことだと今は何となく理解出来たような気もする。
至蘭の翡翠が文輝をじっと射ていた。その輝きの真ん中で文輝は至蘭に微笑みかける。
「ねえ、
「何だ、至蘭」
「首夏はどうしてそこまでしてこの国を守ろうとするの? 醜いと自分でも思っているのに、どうして命を懸けられるの?」
「さあな。理由なんてもう忘れた」
「首夏のことを『首夏』って呼んだ人のため?」
「それもあるかもしれねえ」
自らの弱さをあの夜、文輝は思い知った。
万能感に浮かされて青い理想をただ求めていた。
その結果、文輝は学友と別離した。学友──「
出来の悪いものほど可愛い、と
「至蘭。お前は知ってるだろ」
「何を?」
「愛の反対が『嫌悪』じゃねえってこと」
「──そうだね。それは、わたしも知ってる」
好きの反対は嫌い、だが、愛の反対は憎悪ではない。無関心だ。
この暗闇はじきに終わる。
そうして再び開けた世界と向き合うとき、文輝は死んでいるかもしれない。
ただ。
「至蘭。お前の心を幸福に出来るのはお前だけだ。いい返事を待ってる」
そうして文輝は
そこから後の記憶は実に不明瞭だが、視界に突然光が満ちた。かと思うと凛、と土鈴の鳴る音がする。「文輝!」と呼ばれた声は誰のものだっただろう。酷く焦燥したような、安堵したような複雑な声音が何度も何度も名を呼ぶ。柔らかなものに包まれていることと、自分の思うように身体が動かないことをとを知って文輝は確信した。
文輝は再び死に戻ってきたのだ。
また、戻ってきてしまった。
終わるならそれでもよかった。至蘭の姿が先に消えたのなら、彼女は自らの役目に戻ったということだ。至蘭にはまだ二十四白として在り続ける意思がある。そうであるのなら、文輝の役割はもう十分果たせただろう。
そんなことをまるで他人ごとのように思っていると少しずつ温もりが自分に戻ってくるのを感じた。肩の先に腕があり、腕の先に手首がある。手首から親指、人差し指と順番に揃っているのを確かめるように動かしていくと両腕の中に何かをかき抱いていることに気付いた。何を抱えているのだろう、と思いながら重たい瞼をゆっくりと開く。白んでいく視界が徐々に焦点を結び始め、実像を結んだ。その腕の中にあるのは──
「至蘭」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます