第二十一話 流転
生まれについて彼は明言しないがそれなりに高貴な身分だったのだろうことは疑う必要すらない。そのぐらい、子公の立ち居振る舞いは洗練されていた。思考の方向も全体の利益を最優先しているし、どこからどう見ても民草ではないのは自明だ。
帰りたいのか、と文輝は一度も訊けたことがない。
その解を子公が自覚すれば袂を別つことを本能的に察していたからかもしれないし、そうでなくとも否定の言葉を必死に紡ぐ相棒の苦しげな顔を見たくなかったからかもしれない。
「子公」
「憐憫を垂れる必要はない」
「なら教えてくれよ。この湯屋ではどうやって過ごすのが『正しい』のか、をさ」
「貴様というのは、実に――いや、何でもない」
救いようのない馬鹿、と言われると思った。
文輝のことを馬鹿と詰って、いつも通りの子公が戻ってくるのなら道化を演じることなど苦でもない。そう、思ったのに頭の回る副官殿は文輝の言いたいことを一足飛びで理解して、結局は曖昧な苦笑いで済ませてしまった。
「文輝、行くぞ。湯を楽しむのは別の機会にしろ」
「別に楽しんじゃねえだろうが」
「貴様はもう少し自分の表情について再考しろ。私からの忠告は以上だ。急ぐぞ」
言うなり子公は板の間を何の迷いもなく進んで行く。その言動を一通り見守って、そうして文輝もまた理解した。この湯屋に長く留まるには事態が不明瞭だ。好奇心に負けそうになっていたが、文輝たちに残された時間はもう多くない。一刻も早く
それでも。
「子公、待てよ」
先へと進む子公の背中にごくわずか、本当に見落としてしまいそうな程度にだけ喜色が浮かんでいると気付けたのだから、今はそれで十分としようじゃないか。
そんなことを収穫として得ながら、文輝は子公のあとを追った。
湯から上がって、委哉が用意してくれた新しい衣服を着て髪を乾かす。
その一連の流れを見守りながら委哉は文輝たちの疑問に一つひとつ答えてくれた。
結論から言えば、この湯屋を含めた区画一帯が怪異そのものであるらしい。
「あなたたちはさっき、
見えない、だとか、見落としている、だとかいう次元を超越した言葉が聞こえて文輝は無意識的に生唾を飲んでいた。区画がない、と委哉は断定した。区画そのものが怪異である、としか説明出来ない状態なのは何とはなしに理解出来たが、それが文輝の人生でどの概念に含まれるのかが判然としない。
何か大きな流れに呑み込まれようとしている。その感覚があったが、文輝の中で今更岐崔に逃げ戻る選択肢などない。
湯屋の二階にはちょっとした卓と長椅子が置いてあるそうだ。子公が言う「脱衣所」で話し込むのも気が引け、取り敢えずは二階へ移動しようという提案に応じる。
それなりに斜度のある木製の階段を上りながら、外観は石造だったのに内装は木造で統一されているのだな、とふと思った。
二階は落ち着いた雰囲気の個室が幾つか並んでいるらしい。その中の一つを選んで委哉と
長椅子に腰を下ろすと嘴の生えた店員が用訊きに訪れ、委哉は温かい茶を三つ注文した。
間もなく湯気の立ち上る湯飲みが運ばれてきて、嘴の店員は無言で消える。
その背が完全に暖簾の向こうに消えたのを確認して、文輝は委哉――とその足元に伏せた赤虎と対峙した。
「君たちがここにいるのは東山の怪異が発生したことと関係があるのか」
ならば東山の怪異を解消するすべを知っているのではないか。そんな期待を抱いた文輝の勢いが前のめりになる。子公も文輝程ではないが、話が漂着する地点については興味を持っている雰囲気だった。
そんな
「
「流転?」
「そう、流転さ」
怪異と言うのが何なのか、文輝は知っているか。そんなことを不意に尋ねられた。
正確なことは何も知らない、というのが事実だろう。全ての理を越えた存在。天の理、地の理、人の理。そのどれにも属さず、何の法則性も持たない。
そのぐらいしか、理解していない。と返すと委哉はそれが一般的な認識だよと朗らかに笑った。
「怪異というのはあなたたちの言う通り、理を外れた存在だよ。その代わり、この世界の全ての恩恵を受けられない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます