第十話 当該者なし
それでも、
文輝が無意識的に選び出したその解は「絶対に」あり得ないのだ。
何故なら、文輝が筆者であると判じた「
その、華軍のものとしか思えない筆跡を見て文輝は今、まさに混乱の渦中にいる。
文輝もまた死線を彷徨い、ふた月の間意識が戻らなかった。その、暗闇の中で華軍に出会ったような記憶があるが、どうしてももう二度と鮮明に華軍の面影を思い出すことが出来ない。
なのに。
文輝の両手は生温かい感触を今でも覚えている。
覚えているから、文輝は慌てて
文輝の異変を察した上官――歩兵隊第五班の班長が気遣う言葉をくれたが、文輝はその温情を推してここにいる。人を守る為に人を殺めるのが武官の生業だ。人を殺めた罪悪感を思い出して、戦わずして負けるなどというのは武官として最大の恥に当たる。それと知っているから文輝は上官の気遣いを――逃げる、という選択をしなかった。今ここで踏み止まれないのなら、文輝には武官など務まらない。わかっていたから意地を張った結果、上官は更なる最大級の温情をかけてくれたのだろう。
文輝の預かる五組は明日渡河する予定となっていたもう一人の
その言葉に甘えて、文輝は午前半ばに割り込んだ臨時便に乗って湖水を渡り、ここにいる。
「どうもこうも。過去の感傷に引きずられている貴様にかけるべき言葉など私は持っておらん」
「感傷、なぁ」
「違うとでも言いたげな顔つきだな」
「感傷で片付けていいのか、俺には判断出来ねぇんだ」
文輝の直感は違和を告げる。
華軍が生きているのなら会ってみたい、というより何らかの不測の事態が起こっているのなら速やかにその事実と向き合うべきだ。その思いの方が強い。十七の文輝の感傷がどうであるかというよりも、一人の国官として危機を見過ごす愚を犯したくない。もう二度と、あの日のような思いはしたくなかった。
変えられない昨日を知って、変えられる今を知った。
今、何かに気付いたのならばまだ間に合うことがこの世界には数えきれないほどある。
だから。
疼痛が止むことのない胸を抑えつけて、それでもなお曇ることのない希望を榛色に灯して答えると、隣を歩く子公が不意に優しげに微笑んだ。
「では文輝、一つだけ教えてやろう」
「何だ? 子公」
「貴様の直感は貴様が思っている以上に正確だ。信じろ」
文輝の言う陶華軍のことは子公も文書上理解している。
それでも、子公は陶華軍と面識もなければこの国に遍く埋もれている「才」と「
子公はそこまでを言外に含ませて断定する。
その紫紺にもまだ翳りはないが希望に満ち溢れているわけでもない。
ただ、事実を事実と捉え現実と向き合っているのだと察して、文輝は人混みの向こうへと視線を遣った。連綿と続いていく今日を生きている営みを守るのが武官としての務めだ。断罪が可能なほど秀でていないとしても、守るべきものを抱えて刃を曇らせることは出来ない。そのことを今一度確かめた文輝の軍靴は前に向かって歩き出す。行こう。まずは
沢陽口の行政府庁というのは
植わったばかりの緑の細長い葉の影が映る水面の上を波紋が渡っていく様はまるで風に形を与えるようで、件の伝頼鳥を差し出した通信士を探してもらう待ち時間を消費するのにこれ以上ない暇つぶしとなった。幾重にも幾重にも風が渡っていく。半年にも満たない短い期間で水稲の実は成熟し、たわわに実っては頭を垂れるのだと
「それで? この文はどなたが」
「大変申し上げにくいのですが、該当者がおらぬようです」
「おらぬ、とは?」
「率直に申し上げますと、沢陽口から発せられたという前提自体が何かの手違いであるのではないか、というのが当局の見解です」
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