第九話 津にて

 西白国さいはくこくにおける城郭まちというのはその名の通り、城壁によって山野と隔絶された状態の都市部を指す。城郭に住まうものが飢えないだけの農地、人々が暮らす家屋、商いを行う市場や交易所、工匠が営む工場に行政に必要な官舎など必要な土地の割り振りはそれぞれの城郭によるが、原則的に城壁を閉ざしたとしても一年はゆうに暮らせるだけの機能を備えているのが一般的だ。

 たい文輝ぶんきが現地調査の任を負い、半日の船旅を終えて足を踏み入れた沢陽口たくようこうの城郭もまたその原則を保っている。湖水に面した西側以外の三方を巨大な城壁がぐるりと覆う。その向こうは野獣の暮らす領域であり、旅人を除くと狩人ぐらいしか城壁を出るものは殆どいないというのが現実だ。

 十六もの突堤を持つ沢陽口のみなとに降り立ち、文輝は二年前に見たときとそれほど差のない光景を視認する。文輝が立っているのが第一突堤で、ここは軍船だけが入港することを許されている。赤の軍旗を掲げた工部こうぶ治水班ちすいはん測量組の専用船を振り返ると、先ごろ入港したばかりなのに水夫たちは既にもう次の出港の準備を始めていた。

 その喧騒の向こうに第二、第三と突堤が続いていく。

 南側の半分が公のもので、北側の八つを商船と漁船で共同使用しているが、真ん中の四つ目を境に突堤の状態は急激に劣悪化するのを見たとき、文輝は心の底からこの城郭をもっと豊かにしたいと思った。

 四年前、初めて沢陽口に降り立ったときは衝撃しかなかった。それから二年が過ぎ、岐崔ぎさいに戻る為、再び足を踏み入れた城郭の姿がそれほど変わっていないことに小さな失望を覚えた。

 今、三度降り立ったこの城郭もまた劇的に変化しているわけではない。寧ろ、二年前の面影を強く残していて変革というのは急激に進んだりしないのだということを文輝に伝えた。

 湖水の匂いが鼻腔に広がる。岐崔と同じ水の匂いなのに、沢陽口の匂いはいつでも少し苦い気持ちを想起させた。その、ある種の生臭さを振り払うように文輝は子公しこうを促して庁舎のある区画へと歩き始める。駆け出しの官吏――初校尉しょこういである文輝の為にはまだ馬車くるまかごは用意されないから、徒歩で移動するほかなかった。城郭の様子をよく見るいい機会だ、と子公が言ったがその実、彼には今更、沢陽口の景色に学ぶことなどないことを文輝は知っている。

 ここは、青東国せいとうこくを出た子公が西白国で国官の登用試験を受ける為に学び、働き、暮らした城郭だ。

 だから、子公の言葉は真実、文輝の為だけに紡がれたのだということも、文輝は知っている。

 知っているから、文輝は西白国ではごく一般的な石畳の街路の上を歩いた。

 津を離れても喧騒はまだ続く。寧ろ、ここから先の方が城郭の中心地で、今日の旅籠やどもその一角にある。

 後背へ消えていく津で陽はまだ高いのに、水夫たちが慌ただしく作業に追われているのには律令の存在があった。岐崔・眉津びしんと沢陽口間を結ぶ船便には律令により最終の出港時刻が定められている。夜間の航行は原則的に禁じられるため、相互の津において入港時刻が日暮れを過ぎることが予想される時間帯には出港出来ない。文輝が乗ったのは今日の午前半ばに割り込んだ臨時便だ。工部治水班預かりの船便は岐崔の水夫たちで航行される。文輝たちと違って沢陽口に泊まるつもりがないのならば、一刻でも早く眉津へ向けて発たなければならない。

 四年前の文輝は水夫というのは皆、身分があり、きちんとした職業であると思っていた。岐崔に漁民はいない。魚を食べたことがないなどとは言わないが、その魚がどうやって文輝の口に入るのかを考えたことはなかった。そんな当たり前のことを知ったのが四年前のことだ。沢陽口で水揚げされた食用魚が岐崔に運ばれて、文輝たちが食する。沢陽口の漁民――というからには民であることを文輝は認知していなかった――の暮らしは決して易くはない。右官府に属する水夫たちとは一線を画した存在であることを動乱の後にようやく理解して、自らの世界の狭さを今一度嘆いた日から文輝は魚を食べる度に自戒する。この魚を獲る為に民は七難八苦しているということを何度でも何十回でも胸に刻んで、彼らの暮らしが本当の意味で豊かになる日まで、文輝は足を止めないと自らに誓った。

 だから。


「子公、お前どう思う」


 今朝方届いた伝頼鳥てんらいちょうのことを思い出す。

 深紅の料紙に白墨で沢陽口の違和について言及していたあの筆跡には心当たりがあった。十七の年に九か月だけ見ていた、憧れの筆跡だ。

 始業を告げる鐘が鳴った後、歩兵隊の執務室で「それ」を見た瞬間、文輝は頭が真っ白になった。何故とどうしてを無限に繰り返して、理論は不可能を示す。なのに、どう見ても、文章自身が持つ筆者の性格も文輝にその解以外を示さない。

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