第20話 言われた通りにしたのに……3

「――おい、なに固まってんだよ」


「え? あ――いやなんでもッ!」


 稲森さんに見られてはいけないと僕は勢いよくドアを閉めた。


「なんでもねーなら閉める必要ねーじゃんかよ。姉ちゃん、中にいたんだろ? 郁ちゃんって聞こえたし」


「そ、そおぅ? 僕には聞こえなかったけど? 多分、そこら辺歩いてる猫の鳴き声だったんじゃないかなぁ?」


「いやさすがに無理あんだろ。つかはっきり人の声だったし。そもそも猫は郁ちゃんって鳴かないし」


「そ、それはどうかなぁ? 郁ちゃんって鳴く猫が世界に一匹くらいいてもおかしくないって僕は思うけどなぁ」


「んだよめんどくせーなー…………んじゃあれだ、お前の言う通り仮にそんな猫がいたとしてだ、それがなんだってんだよ。ドア閉める理由に繋がらねーだろ」


「う……それは……」


 訝しげな顔をする稲森さんの視線に耐え切れず僕は目を逸らす。


『郁ちゃーん! 彼女さんとこそこそしてないで早く入ってきてよー。じゃないとお姉ちゃん寂しさで拗ねちゃうぞー』


 中にいる真希ネエが狙ったかのようなタイミングで声を上げ、稲森さんは「やっぱいるじゃんかよ」と不満げに零した。


「い、いやぁ、まいったまいった、人の言葉がわかるとは――頭の良い猫もいるもんだな! あはははは――」


「どう考えたって猫じゃねーだろッ! お前の姉ちゃんだろッ!」


『彼女さんの言う通り! 正真正銘、私が郁ちゃんのお姉ちゃんです!』


「ほらな!」


 真希ネエと稲森さんが結託けったくする。僕からしてみれば最悪以外のなにものでもない。


『ねえ彼女さん、郁ちゃん、今どうしてるの?』


「あーなんかお姉さんを猫だと思い込んでるみたいです」


『私を猫? なにそれ意味わかんなーい』


「ですよね。お姉さんに直接言うのもどうかと思うんですけどマジで意味わかんないす」


『だよねー。あ、こんなこと紹介される側の彼女さんに頼むのも変なんだけど、郁ちゃんをここに連れてきてくれない?』


「あ、全然いいですよ」


 真希ネエの頼みを二つ返事で受けた稲森さんがドアノブに手を伸ばす。その動作が僕にはすごくスローモーションに視えた。


 このまま稲森さんが僕の部屋に入ったらまず間違いなく見られてしまう。僕のパンツを被ったバスタオル一枚の実姉、いや変態をクラスの隣の女子に見られてしまう。変な誤解は免れない。


 〝桐島、実の姉をバスタオル一枚にするんじゃ物足りず、自分のパンツ被らせてるんだってよ〟……そんな噂が広まってしまうかもしれない。


 稲森さんに限ってそういうことはしないだろうけど、あくまでそれは僕の希望的観測であって確実とは言えない。


 4軍男子の僕に安定した地位なんてない。たった一つの爆弾を投下されるだけで最悪いじめに発展する可能性だってある。そんなの絶対嫌だ。


『――彼女さんを止めたらどうなるか……わかってるよね? 郁ちゃん』


 ギクッ。僕は稲森さんの腕を掴もうと伸ばした手を引っ込めた。


 終わった。詰んだ。チェックメイトだ。ここで稲森さんの手を取れば、真希ネエによって父さん母さんにバラされる。こっちは確実に。


「お邪魔しまーす」


 なにも知らない稲森さんが遠慮なくドアを開ける。


 ああきっと、このドアの先で終わりが僕を待っている。


 雲よりも上へと続く階段の果てにポツンと絞首台が設置されていて、そこで僕は痛みなき終わりを迎えるんだ。


 死は怖い。けどそれが、優しさに満ち溢れている死というのなら――僕は甘んじて受け入れよう。


 ゆっくり、けれど着実にドアは開かれていく。目を背けたくなる現実、けれど僕はもう逃げたりしない。覚悟を決めた男はもう二度と〝動じない〟。


 全開になるその瞬間まで僕はまばたきしないと決めた。


 やがて差し込む目も開けていられないほどのまばゆい光で僕を包み、そして浄化しろ。


 なんじの願い、聞き届けたり――。


 その時僕は――神様の言葉を聞いた気がした。


「――いらっしゃい! 郁ちゃんの彼女さん!」


 ………………………………あれ?


 天まで続く階段、絞首台、死に相応しくない幻想的な風景、そのどれもがなく、目に映るは見慣れた僕の部屋とそれから――学生服を身にまとってベッドに腰かけている真希ネエだった。

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