第19話 嘘と星屑

 太陽が真っ赤な火球となってワルシャワの西に沈む。

 セレイラは涼しい風を顔に受け、空に向かって張り出したバルコニーに腰を下ろしていた。


 二日が過ぎた。

 イラリオンが保安局に寝返ったと知ってから二日。

 カスピアの不手際により右腿を撃たれてから二日。

 そして、彼女もまたモスクワ計画の産物のひとりであることが明らかになってから、二日が過ぎた。


「私とウルだけじゃなかったってこと……?」

 ヴィスワ川の悠久の流れを意味もなく眺めながら、セレイラは嘆息した。

 被検体が三人いる。彼女には、その事実が到底飲み込めなかった。


 いつもの癖で、右肩をギュッとおさえた。シャツの下には、被検体の番号を表す『562』の刺青が、いつものように、ある。


 撃たれた傷口に鈍い疼きを覚える。銃弾は太ももの後ろから入り、その前面で止まっていた。大きな動脈を外れたために大量出血には至らなかったが、向こう一週間は激しい運動は禁物だというのがアローシャの見立てだ。


「相変わらず難しそうな顔なんかしちゃって」

 後ろから冷やかす声が聞こえ、振り返るとカスピアが立っていた。


 膝には添え木と包帯が巻かれ、松葉杖をついている。フロル機構の起動には、常人なら即死なほどの負荷がかかるという話だ。

 それでも彼女は——疲れてこそいるが——笑顔を浮かべていた。


「まだ寝てなきゃまずいんじゃないのか」

 二日ぶりに彼女と声を交わしたセレイラは、それ以外に何を言えばいいのか分からなかった。カスピアはセレイラの隣に座ると、テーブルに置かれたボトルに手を伸ばした。

「少しぐらい平気だよ。熱も引いたし。それに……」


 そこまで言いかけて、彼女は動きを止めた。


「それに、言ったでしょ? 話があるって」

「あんたの正体はわかった。敵じゃないこともわかった。これ以上話すことはないだろ」


 カスピアは面白おかしそうに笑った。

「嘘。それは嘘だよ、セレイラ」


 セレイラはむっとして言い返した。

「嘘なわけあるもんか。あんな間近でフロル機構を励起させておいて、その言い草はないんじゃないのか? あんたがミハイロフ王国を恨む理由も、そこにあるんだろ?」


 バルコニーに吹き込む風に、彼女は傷口をさすった。

 毛皮のストールをカスピアに渡し、自らもそれを身に纏った。


「話があるのは、むしろ私の方だ。心して聞いた方がいい。驚きのあまりフロル機構が暴発しても、私は知らない」

 そう言うと、セレイラは首から下げた鍵に手を忍ばせた。


「驚かないよ」

 カスピアは、警戒心のかけらもないような笑顔を崩さなかった。

 そして、静かだが力のこもった声で言った。


「だって、もう知ってるもの」



 風がバルコニーの上でくるくると舞った。


 二人の少女の髪が、ふわりと巻き上げられた。


 小さな気流が去ると、バルコニーの上の世界は別のものに見えた。



 セレイラの口が半開きになり、酸素を求める魚のようにぱくぱくと動いた。

 頭の中に、言葉が浮かんでこなくなった。

「知ってる……知ってるって……私が……モスクワ……そんな……」



 彼女が散らした言の葉の一枚一枚を、カスピアは拾い上げた。

「わたしがフロル機構を励起させたのは、他でもない、あなたの前だったから。あなたのためだったから。あなたになら、わたしの本当の姿を見せられた。わたしたちは、から」



「嘘だ!」

 セレイラは怯えたように後退りした。

 首を必死に振り、事実に潰されまいと抗った。


 彼女の目の前で、カスピアは着ている服を脱いだ。


 夜風に晒され、彼女は小さく身震いした。

 そして、セレイラの目を真っ直ぐに見つめた。



 カスピアの裸の右肩には、『563』の刺青が刻まれていた。



「嘘だ……」

 彼女の声はかすれて消えた。

 そこには喜びも、悲しみも、怒りもなかった。


 ただ、ずっと探し求めていた答えを、他の何よりも近いところに感じていた。


「嘘じゃないよ。全部、全部。嘘じゃないから。だから……」

 彼女は声をつまらせ、息を吸った。

 大きなまぶたに星の欠片かけらが煌めいた。



「わたしのことを思い出して、



「……、なの?」

 ルフィナと呼ばれた少女は、信じられないような気持ちで確かめた。


 ウルと呼ばれた少女は、満ち足りたように頷いた。

「そう。わたしがウル。

 モスクワからあなたと一緒に逃げた、あの時のウルだよ」


 彼女の頬に涙の筋が伝った。

 ルフィナを荒々しく抱きしめ、天を仰いだ。

「会いたかった……!」


 セレイラは鍵がしかるべき鍵穴に納まるような充足感を覚えながらも、まだ実感が湧いてこなかった。違う世界線に迷い込んだのではないかとすら感じた。

「もう会えないと思ってた。ウル、どこにもいないから……」


 彼女はシャツの襟を引っ張り、肩に掘られた刺青をさらけ出した。


 そこには確かに、ウルと連番の数字562が刻まれていた。


「七年間、君を探し続けた。それが今、私の目の前にいる……」

 ルフィナは噛み締めるように言った。震える息を吐き出し、穏やかに笑ってみせた。

「夢みたいだ。本当に、夢みたいだ」


「ううん、夢じゃない。ルフィナ……これは、夢じゃ、ないんだよ!」

 ウルの双眸から、特大の涙がぼろぼろとこぼれた。その泣き顔は、不思議なほど懐かしく、しっくりくるものだった。


 思えば、天衣無縫な笑顔も、鈴の音のような声も、思わず抱きしめたくなるようなちんまりとした可愛らしさも、底抜けの明るさも、それでいてどこか掴みどころがなく、いつも自由気ままで、気まぐれな発言で困らせるところも、無邪気な優しさも、ふいに見せる物憂げな表情も、……全部。


 全部、全部。




 カスピアは、確かにウルだった。




「これを——」

 何かがこみ上げてきた。喉元が苦しくなる。熱いものが胸につっかえるのが分かった。幼子おさなごのように、泣くまいと歯を食いしばった。


「こういうのを、幸せって呼ぶんだね……」

 ルフィナは顔を上げ、今度は優しく、カスピアを抱擁した。


「ただいま」

 事実を真っ直ぐに伝えるその声が、満天の星空に沁み渡った。

「わたし、帰ってきたよ」


 小さな温もりを全身で受け止めながら、セレイラは声を震わせた。

「おかえりなさい。私の一等星」

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