第18話 正体


・I・


 唇に硬い何かが触れた。

 口の中をジンジャーエールが満たしていく。

 冷たい液体をごくりと飲み込み、セレイラは意識が幾分か回復するのが分かった。


「生きてたんだな」

 彼女は後ろで手綱を握るカスピアの姿に、微かな安堵を感じていた。不思議なことに、彼女にはそれが腹立たしかった。理由はわからなかった。


「怒るのは後にして。今はとにかく、追手を撒かないと!」

 カスピアはなおも追いすがる騎兵たちに目を細めた。

 すでにルブリンの市街地は後方にある。血の滲んだセレイラの包帯に視線をやると、彼女はセレイラの肩に手をのせた。

「派手にやられちゃったみたいだね。ワルシャワまで、我慢できる?」


 セレイラは返事の代わりに、カスピアの手を跳ね除けた。彼女は切迫した声で言った。

「ルベルスキー伯は王党派じゃなかった」

 後ろで、カスピアの体がこわばるのが分かった。どういうことかと尋ねる彼女に、セレイラは前を見据えたまま言った。

「保安局だよ。私をルブリン城に誘い込んだのも、今私を追いかけているのも、全て奴らの仕業だ」


 背後からただならぬ空気が漂ってきた。


 騎兵たちは徐々に距離を詰めていたが、セレイラはから、えもいわれぬ殺気のようなものを感じていた。

「不思議だな。私はこれまで数え切れないほどの任務をこなしてきたが、ミハイロフ王国に裏をかかれたことなんて一度もない。それが、あんたが現れた途端にこれだ」


「わたしを……疑っているの?」

 カスピアの声には、緊張感よりもむしろ物哀しさが籠もっていた。


「ああ。背後で剣を抜かれたら、誰だって疑いたくもなるさ。そう思わないか?」

 セレイラは機械のように平坦な声で言った。


 カスピアはぎくりとして、片腕を震わせた。


 刀身と鞘の擦れあう、不快な金属音がセレイラの耳を突いた。


「ち、違う!これは……」

 言いよどむカスピアの膝に、セレイラは銃の握りを打ち付けた。

 ボキッ、と関節の砕ける音がした。カスピアは悲鳴をあげた。

「ひッ……痛い! 痛いよセレイラ!」


「あんたを殺す手段を持たないのが残念だ」

 セレイラは低い声を怒気に震わせた。いつ背中を刺されてもおかしくはない。彼女は一刻も早く、カスピアを始末するつもりでいた。


「違う!わたしは敵じゃない!」

 カスピアは声を張り上げた。


「私に信じろと?」

 そう問い詰めるセレイラの声は、火薬の炸裂する音にかき消された。

 騎兵たちはすでに、セレイラたちの後ろ四馬身にまで迫っていた。


 彼らは馬を巧みに操りながらカービン銃を構え、列をなして銃撃を始めた。

 鉄の銃弾が雨あられと降り注ぐなか、カスピアはそれを縫うように馬を蛇行させた。


「セレイラ、お願いだからわたしに手を出さないで。このままじゃ追いつかれる!」

「それが狙いなんだろ? だから、敢えてスピードを出さないように——」


「これが全速力なんだってば! 信じてよ!」

 カスピアはうったえた。後ろから、馬の息遣いが聞こえはじめた。

 セレイラは懐からガラスの小瓶を取り出し、中に入った透明の液体を振った。


 それは、彼女に残された最後の選択肢だった。


 スピリタスの原液。彼女に埋め込まれた内燃機関を起動させる燃料であり、少量で絶大な効果を発揮する。セレイラの体は普段は油圧システムで動き、それは身体能力を高めるための補助的な役割に過ぎない。

 しかし、フロル機構の本体を励起させることで、一時的に通常時を遥かに上回る出力を得ることができる。


 セレイラには分かっていた。油圧システムの力だけでは、この状況を打破することはできないと。しかし、内燃機関を起動させることは、彼女の正体を暴露することを意味している。

 そして、セレイラはこれまでフロル機構を励起させたことが一度もなかった。


 彼女はあくまでも、リスクをとらなかった。


「馬を降りろ」

 彼女はカスピアにそう宣告した。


 ハッとする彼女に、セレイラは続けて言った。

「私に手綱を譲れ。私一人なら逃げ切れるからな。それができないなら、あんた一人で奴らを倒してみろ。それで信じてやるさ」


 カスピアの逃げ道は完全に塞がれた。

 セレイラは神経を研ぎ澄ませ、ダガーの柄を握った。彼女の応答次第では、ドラセナの意思に関係なく、自らの裁量で殺すつもりだった。


「……わかった」

 その声からは悲壮感が滲み出ていた。

 セレイラは彼女の出方を固唾を飲んで見守った。


「セレイラ、あとで話があるから」

 カスピアは耳元でそう言い残すと、セレイラの懐に手を突っ込んだ。予想外の挙動に当惑する彼女をよそに、スピリタスの入った瓶を奪い取る。


「やめろ!そいつは——」

 セレイラの制止を振り切り、カスピアは中身を全て飲み干した。



 そして、声を発した。



「——起動シフト



 バチッ、と火花の散るような音がした。

 銃声や馬蹄の喧騒の中で、その音はひときわ明瞭に響き渡った。


 セレイラは全身の皮膚に鳥肌が立つのを感じた。

「まさか……そんな……そんなはずが……」

 馬の背で力なく首を振るセレイラを無視し、カスピアは凜然として唱えた。


体内機構フロル機構、励起。心拍抑制、及び冷却システム解除。全供給弁開放、出力上限突破!」




・II・


 猛烈な熱波が、あたりを包み込んだ。

 セレイラの周りの空間が歪み、彼女を取り巻く全ての物が屈折して見えた。


 耳をろうさんばかりの爆発音が轟いた。

 空気の塊が、巨大なハンマーのようにセレイラを殴りつける。彼女は乗っていた馬ごと吹き飛ばされ、宙を舞った。上空に放り出される彼女の視界の隅に、抜き身の剣を構える少女の姿が飛び込んだ。


 眼下に地面が迫り、彼女は背中から落下した。着地の体勢をとることすら忘れていた。腰に鈍痛を覚え、顔をしかめる。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。


 騎兵たちの間にどよめきが走った。

「おい、あれは……!」

「なんだ……何なんだ?」

「煙だ! 煙が出ているぞ!」


 彼らの前に立つのは、全身から熱気を発する少女だった。その双眼は赤黒く染まり、吐く息は蒸気となって空中へと消えていく。


 その異容に、彼らは慄いた。


「総員、突撃!」

 騎兵の指揮官が声を上げ、数十人の胸甲騎兵は再び進み始めた。騎兵たちは半数がカービン銃を構え、残りはサーベルを抜いて少女に襲いかかる。セレイラは地面に倒れたまま、どうすることもできずにいた。


 カスピアだった少女は、両手で剣を横向きに構え直した。そして、不用意にも彼女の間合いに入ってしまった騎馬を、その馬体ごと薙ぎ払った。


 凄まじい衝撃が大地を揺らし、セレイラは踏ん張って耐えた。馬は、背中にのせた騎兵もろとも木っ端微塵になった。血しぶきが噴水のように飛び、やがて土砂降りの雨のように少女に降り注いだ。血潮の一滴一滴は、彼女の体に触れると瞬時に蒸発した。


 眼前に現れた怪物は、騎兵たちを恐怖の奈落へと叩き落とした。サーベルを手にした騎兵たちは恐慌をきたし、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。残った兵士たちも、顔面蒼白でその場に固まっている。


「う……撃て!撃つのだ!殺しても構わん!」

 指揮官は恐れをかき消すように叫ぶが、その声は震えていた。


 少女は深く息を吐くと、獣のような唸り声を発した。

 腹の奥底から出るような禍々しい音声に、セレイラの背筋が凍る。


 全方位から発射される弾丸を、少女は剣の峰で捌いた。

 三次元的な動線を描く弾の一つ一つを、視認不可能なほどの敏捷さで打ち砕いてゆく。彼女が殺気だった紅い双眸を兵士に向けると、彼らは竦み上がった。


 銃撃が止むや否や、少女はヒョウのように騎兵に飛びかかった。予想だにしなかった攻撃に戸惑う騎兵に、彼女は右の拳をたたき込む。


 硬く握られた拳は、鉄の胸甲をボロ布のように粉砕した。拳はそのまま兵士の胴体を穿ち、背骨を突き破って貫通した。騎兵はもんどりうって馬の背から落下し、動かなくなった。


 敵の返り血で真っ赤に染まった少女は、それでは足りぬとばかりに次々と兵士に襲いかかった。それはまるで、血に飢えた肉食獣のようだった。


 腕や剣の一振りごとに、地面には血と肉塊の雨が落ちていく。

 それは荒々しくも、荘厳な美しささえ帯びていた。

 緑の草原を朱に染めながら、少女は瞬く間に騎兵を始末した。ことの一部始終を見届けながら、セレイラはイラリオンの言葉を嫌というほどに噛み締めた。

『……三体だ!』


 ああ、そんな怪物が、三体も——。




・III・


 ぼろぼろになった剣がセレイラの目の前に落ち、彼女は夢心地から現実へと引き戻された。そうして、自分が少女の戦いに我を忘れていたと気付かされるのだった。


 少女は地面に散乱した残骸の中で、棒のように立ち尽くしていた。

 セレイラが駆け寄ると、少女はその目を彼女に向けた。

 眼球からは赤みが引いている。その表情は、今にも吐きそうなほど憔悴しきっている。少女は白い息を吐くと、精根尽き果てたようにその場に倒れ込んだ。


「カスピア……」

 彼女の名を呼び、セレイラはその肩を支えようとした。


「熱っ……!」

 カスピアの体は溶岩のようだった。体内に埋め込まれたフロル機構は、限界の出力と引き換えに膨大な排熱を生み出していた。

 それでも、セレイラは彼女から手を離さなかった。離せなかったのだ。


「これで……分かってもらえた……かな……?」

 セレイラの腕の中で、彼女は消え入りそうな声で言った。そして、静かに目を閉じた。

「ああ……。自分が嫌いになるくらいにね」

 セレイラは返り血に濡れるカスピアを抱きしめ、ひとりその場に立ち尽くしていた。

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