第17話 退路

 セレイラは反刻前まで馬車で通っていた道を西へ逃げた。


 すでに観衆は四散したあとで、ルブリン市内は閑散としていた。城に最も近い広場から襲撃現場の中庭までは、少しの距離がある。馬車の激突する音や銃声が、ぼやけた雑音になって聞こえてくる程度の距離だ。憲兵は沿道の警備に駆り出され、ルブリン城に残っている人数は少ない。衛兵や使用人が異変に気付くまで、数分の時間稼ぎはできそうだ。


 そして、その数分がルブリン脱出の命綱となる。


 彼女は城から出る際に、着ていたドレスやオペラグローブを全て脱ぎ捨て、燃やした。燃えかすを中庭の噴水に投げると、いつもの黒シャツに黒いフード姿になった。子供騙しの証拠隠滅だが、少しは足止めになってくれることを願う。




 人通りの多い街道から路地に入ると、セレイラは一気にスピードを上げて駆け出した。


 走りながら、彼女は歯軋りした。


 何もかもが腹立たしかった。

 婚約者のほだしに負け革命軍を売ったイラリオンも、彼女を盾にとって脅迫した保安局も、どちらも同じくらい許せなかった。


 喉がキュッと縮こまり、か細い唸り声が出る。セレイラはごちゃごちゃになった思考の束を必死に掻き分けた。それでもなお、横溢おういつする感情の波を押し留めることはできなかった。


 脳裏にモスクワの記憶がまざまざと蘇る。生き別れたウルの顔が、焼きごてで判を押したかのようにくっきりと浮かび上がる。それは七年を経た今もなお、幾度となく枕元に現れ、彼女を苛んでいるのだ。


 セレイラは歯を食いしばった。婚約者を人質に取られたイラリオンもまた、自分と同じような気持ちだったに違いない。だからこそ、革命軍の実力者と謳われた彼をもってしても、保安局に寝返らざるを得なかった。彼女には、イラリオンの胸の内が手に取るように分かった。

 だからこそ余計に、彼が憎く思えて仕方なかった。


 だが、彼女を暗澹たる気持ちに突き落としていたのは、それだけではなかった。


 セレイラは人を殺してしまった。

 もっとも、彼女にとってそれは珍しいことではない。スパイとして生きる中で、これまでに手にかけた者の数は数百にのぼるだろう。

 しかし、それらは全て、任務という目的——究極的には、革命の成就という大義のもとで正当化される行為だ。彼女は自分の任務外で、誰かを傷つけたことは一度たりともなかった。


 今日、セレイラは自分のためにイラリオンを殺した。

 彼の身柄をミストラルに引き渡すという自身の判断を忘れ、怒りに任せて殺めた。唯一の取り柄である冷静さをかなぐり捨て、任務の最終段階になって、九仞の功を一簣いっきいた。


 彼女は両の手のひらをじっと見つめた。

 自分の腕にはフロル機構のシリンダーが埋め込まれている。それでも、彼女の手は、まだ機械になりきってはいなかった。

 濁った胆汁のような自己嫌悪にどっぷりと浸かりながらも、セレイラはその中に奇妙な喜びを感じてしまうのだった。


 煉瓦造りの家々を縫うように進みながら、セレイラは自罰感情を頭の隅に追いやった。今回の任務で、ミハイロフ王国に内通する勢力が革命軍の内部にいることが確定したからだ。


 そして、もっと重大なことが、今の彼女には重くのしかかっていた。


(モスクワ計画の被検体が、もう一人いる……)

 三体。黄泉よみの河原で、イラリオンは確かにそう言っていた。

 あの時逃げ出したのは、自分とウルの二人だけ。他の被検体の子供たちは間違いなく、一人残らず死に絶えたはずだった。

 それが、もう一人。

 セレイラたちの部屋に寝かされていた被検体が逃げ延びたのか? それとも彼女たちよりも後に、別の実験が行われたのか?


(いや。もしかしたら——)

 もっとおぞましい考えが頭をよぎる。

 保安局はついに、フロル機構と調和した完全なる『強化人類』を作り出すことに成功してしまったのではないか?

 そして、被検体はすでに、レックランドを焦土と化すための戦略兵器として、試用段階にまで入っているのではないか?


 考えるだけで、気が狂いそうだった。




 町中に響き渡るサイレンの音で、彼女は我に返った。

 今は過ぎ去った任務のことで思い悩んでいる場合ではない。ルブリン憲兵たちはすでに、前代未聞の惨劇の現場を発見しているのだろう。

 それに、此度の一件が保安局の差金であるならば、その下手人たちが、市内のどこかに潜んでいないとも限らない。

 残された時間はあとわずかだ。一刻も早くルブリンを後にしなければ。


 カスピアはルブリン南西の出入り口、クラコフ門の練兵場で待機させてある。午後一時にクラコフ門をくぐり、その中で待つように指示を与えた。

 そこで二人は落ち合い、手配した馬で街を後にする。憲兵たちが大々的な捜索に乗り出す頃までに、ルブリン城から五キロ以上は離れていたい。


 やがて、彼女の視界には煉瓦造りの荘厳な城門が現れた。

 ルブリンの玄関、クラコフ門だ。古都クラコフの方角を向いて建てられたそれは、胸壁を備えたゴシック建築である。


 セレイラは門の地階に飛び込み、門番の目を盗むように身を隠した。ブーツの足音をかき消すために、靴底にはルベルスキー伯の衣服から剥ぎ取ったビロードが仕込んである。


 彼女が辿り着いたのは、がらんどうの練兵場だった。

 冷たく重厚な岩の壁が、セレイラにのしかかる。彼女は若干の息苦しさを感じつつ、カスピアを探した。しかし、そこには彼女の気配はおろか、馬の息遣いすらなかった。


 セレイラは嫌な予感を覚え、ブーツの爪先で石畳の床を叩いた。

 二回、一回、三回。昨晩彼女と約束した合図だ。


 だが、返事はなかった。

 練兵場には、幾重にも増幅された彼女の靴音だけが虚しく響く。


 セレイラの脳裏を真っ先によぎったのは、カスピアが裏切ったという可能性だった。彼女には、ミハイロフ王国の回し者という疑惑がある。もしかすると、彼女はイラリオンと示し合わせて、セレイラを殺すつもりだったのかもしれない。セレイラは未だに、カスピアを信用しきってはいなかった。


 衣ずれの音がして、セレイラは反射的にダガーを抜いた。壁伝いに進むと、地面からぬめぬめした感覚が伝わってきた。

 水っぽい音がして、彼女はそれが血痕だと気づいた。


 血はまだ乾いていなかった。

 鮮やかな紅色は、それが筋肉や内臓の創傷から出たものであることを示唆している。血は一箇所にかたまって水溜りのようになっている。その量から察するに、血の主は首や太腿などを襲われ、逃げることなく一撃で命を奪われたようだ。ふと見渡すと、壁の一部が欠け、傷が入っていた。争った形跡だ。


「カスピア……」

 彼女は小声で名前を呼んだ。地面にしゃがみ込み、鮮血を指で拭う。べっとりとついた血糊を、セレイラは険しい面持ちで見つめた。




 鋼鉄どうしがぶつかり合うような音が、どこからともなく聞こえてきた。




 ほぼ同時に、雷が落ちるような衝撃が右脚に走った。

「っ……!」

セレイラは倒れ込みそうになり、片膝をついて耐えた。

 ズボンの内側に生温い何かが伝う。それは石畳の上にまで垂れ、新たなシミをつくった。

 指で拭うと、動脈血とオイルが混ざり合った液体がべっとりと付着する。


 彼女はすぐに、太腿を撃たれたことを悟った。


 筆舌に尽くし難いほどの激痛が、遅れてやってきた。

 来るとわかっていても避けられない苦痛に、セレイラは顔を歪めた。目尻に涙が浮かび、呼吸が荒くなる。腹の奥から漏れる呻きを、彼女は歯を食いしばってこらえた。


 列柱の影から、十数人の男たちが姿を現した。

 彼らは着ている服も靴もバラバラだったが、全員が銃を構えていた。そして明らかに、セレイラがここへ来るのを予期していたようだった。


 セレイラの顔を冷や汗が伝った。彼らはきっと、保安局の回し者に違いない。

 銃創に鞭打ちながらゆっくりと立ち上がる。

 太腿の筋肉に力を入れると、張り裂けるように痛い。

 こちらの装備はダガー一本と、城内で奪い取ったハンドガン二丁のみ。

 右腿をやられ、内部のシリンダーも損傷している。


 しかし、何よりも致命的なのは、この状況が想定外だということだった。


 彼女は無事な方の脚で地面を蹴り、一番近くの柱までひとっ飛びで逃げた。それを合図に、敵の一斉射撃が始まった。


 セレイラは柱の裏から数発だけ撃ち返し、不用意にも彼女に接近しすぎた愚か者を一人始末した。最初の銃撃が過ぎ去ると、彼女は男の死体から武器を簒奪した。そして、まだ微妙に温もりの残る骸を片手で持ち上げた。


 第二波の攻撃が始まった。

 練兵場の入り口は、すでに二人の刺客で塞がれている。セレイラは場内に出口も待避場所もないことを悟り、毒づいた。


 やがて、彼女は練兵場の壁に小さな扉があることに気がついた。扉までは直線距離で二十メートル。彼女はもう数発までは被弾しても死なないと判断し、深傷を負ってでも扉まで逃げ切ることを決めた。


 セレイラは男の死体を盾に、柱から飛び出した。絶え間ない銃撃の嵐に、男の背中は瞬く間に蜂の巣のようになった。一歩踏み出すごとに、銃創からは鮮血が溢れてくる。右脚を踏み出した瞬間、膝の力が抜け、彼女は倒れそうになるのを必死に耐えた。油圧で動くシリンダーも、中の液体が抜けてしまえばただの鉄の塊だった。


 鉄の門扉がすぐそばまで近づくと、彼女は蝶番を撃ち抜いて扉を引き剥がした。追ってくる男たちに銃で応戦しながら、セレイラは練兵場の外へ飛び出した。


 騎馬に乗った兵士の一団に行手を阻まれ、セレイラは慌てて足を止めた。

 引き返そうとするも、後ろからは銃を構えた男たちがわらわらと飛び出してくる。彼女は平面上には逃げ場所がないことに気づき、左脚で門の胸壁に飛び移った。他に打つ手はなかった。


「降伏しろ。貴様は包囲されている」

 胸甲を身につけた騎兵が、カービン銃を向けながら告げた。セレイラは胸壁に寄りかかり、肩で息をした。

 すでに銃弾は尽きていた。


 わずかに与えられた猶予に、彼女は肌着を細く割いて即席の包帯を作り、右腿の傷口を縛った。

「ウルに、会いたかったな……」

 彼女は投降しろと口々に叫ぶ刺客に囲まれ、そう独り言をいった。

 怒りはなかった。

 遺憾もなかった。

 ただ、これで終わりなのだという、じゃくとした諦念のみがあった。

 彼女は白く濁ってゆく意識の中で、その事実をありのままに受け入れた。



 セレイラの周りの世界が、重力を失った。

 彼女は雲のようにふわりと浮き上がった。

 恍惚とも言える時間の中、彼女はこれが死ぬという感覚なのかと新鮮な驚きを感じていた。



 しかし、次の瞬間、彼女の体は地面に降り立っていた。



「ごめん、遅れた!」

 聞き覚えのある声が、すぐ隣からした。声の主はセレイラを片手で抱き抱えると、鹿毛の軍馬に飛び乗った。本当に世界から重力がなくなったのかと見紛うほどの軽やかさだ。


「誰だ!」

 騎兵たちは突然の乱入者にたじろいだ。だが、遅かった。彼らが最初の銃弾を発射したときにはもう、軍馬の四肢は地面から浮き上がっていた。

 セレイラの後ろで手綱を操り、彼女の腰にしっかりと腕を回しているのは、他でもないカスピアだった。

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