第16話 裏切り者の遺言状


・I・


「チッ、お前かよ」

 セレイラは吐き捨てるように言った。

 イラリオンが数センチ、体を前に傾けた。

 彼女もそれに合わせ、数センチ分の間合いを開ける。

 銃を構えずとも、二人の駆け引きは水面下で続く。


「なぜ分かったのです?」

 その声は、問いかけるよりは、むしろ挑発するようだった。

「もうすぐ私は死ぬでしょう。ええ、理解しておりますとも。貴女と真っ向から撃ち合って勝てるとなど、万に一つでも思ってはおりません」


 そう述べ立てながらも、彼は一歩、また一歩とセレイラに近づいてくる。その立ち姿には針の先ほどの隙もない。

「ならば冥土の土産に、どうやって私の仕掛けを見抜いたのか教えていただきましょうか」


「それはできない相談だな」

 彼の自信に満ち溢れた表情と同じような顔つきで、セレイラは言い返した。



「だってお前、まだ嘘をついてるだろ」



 腹の底から出るような笑い声が、中庭じゅうに響き渡った。

 イラリオンは相変わらずの慇懃無礼さで答えた。

「嘘などついておりませんよ、死神のお嬢さま。なんでも疑いたくなるのはスパイだからですか? それとも……ただ、そういうなだけなのかしらね」


 セレイラはため息をついた。彼の下手くそな挑発に乗っている暇はなかった。

「嘘をついたまま、最後の審判に臨む気かい?」

「ええ。その時は、をついて死にましょう」


 彼女はまた嘆息した。そして、独り言のように呟いた。

「まったく、食えない男だ……」


 城のそとに意識を向ける。幸い、騒ぎはまだ誰にも気づかれてはいないようだったが、それも時間の問題だ。これ以上もたもたしている暇はなかった。


 彼女はイラリオンに向き直ると、今度ははっきりと聞こえるように言った。

「解せないな。私を殺したいなら、もっと最小限の計略で上手くやる方法もあったはずだ」


 耳に心地の良い澄んだ声は、それだけで聴く者を惹き込む力を備えていた。彼女はそうして、この場における主導権を手繰り寄せはじめていた。

「例えば、昨日お前を訪問した時。あそこでコーヒーに睡眠剤でも仕込んでおけば、私の動きを封じるなど苦もなかったはずだ。現に、あの時の私は、まだお前のことを疑い切っていなかった」


 イラリオンが何か言い返そうとする。しかし、セレイラがそれを許すはずがなかった。

「それなのに、お前がやったことはその真逆。王党派の支配も権威も揺らぐだろうに……それでもお前は、無駄に大掛かりな仕掛けで、派手に乱闘騒ぎを起こした」


 青みがかった翠緑の瞳が、敵のそれと合った。

「まるで、最初から『騒ぎを起こすこと』が目的だったかのように」


 イラリオンは平静を装ったまま、顔色一つ変えずにいた。

「言いたいことはそれだけですか?」

 彼は唇を歪めた。

「つくづく話の長いことだ……妻にも娘にもしたくありませんよ、貴女のような女は」


「あら、それは残念。私はお前のこと、悪くないと思っていたんだけどね」

 ピンク色の薄い唇がわずかに持ち上がり、もてあそぶような微笑が浮かぶ。

「でも結構さ。地獄か天国で、いい女を見つけるんだな。でも……残念ながら、もう少しだけ付き合ってもらうよ」


「結構ですよ、貴女の自慢話は。私の罠を見破ったことは褒めてあげましょう。ほら、これで満足ですか?」

「そこなんだよ。お前はもう少し上手く嘘をつくべきだった。例えば、地図に新しい線を引くくだりとか……あまりにも芝居がかっていて、たやすく見抜けてしまったよ。お前がいう通り、私はなんだ。あまりにも簡単すぎると、逆に疑いを入れずにはいられないのさ」


 そこまで一息で言い切ると、彼女は再び間を置いて続けた。

「例えば……そもそも『見抜かせる』ことが狙いだったんじゃないか? ……と言った具合にね」



 イラリオンの顔を覆っていた慇懃無礼な、余裕ぶった仮面が外れた。



「オリオン……貴様……」

 今度はセレイラが間合いを詰める番だった。

 先ほど後退を強いられた数歩分を取り戻すと、彼女はイラリオンを真っ向から見つめた。


「お前の標的は私であって私ではない。本当の目的はルベルスキー伯——否、『革命軍のスパイが王党派の貴族を殺害した』という既成事実だ。その上で私を殺そうが取り逃そうが、それはついででしかない。でなければ、奴のリボルバーが一発しか撃てなかったことの説明がつかない」

 セレイラはルベルスキー伯の銃には一切の細工を加えていなかった。だとすれば、イラリオンの方が彼の死を期して施したと見るのが筋だ。


 二人の間に、危うい空気が流れる。

 イラリオンはフードをかぶり直し、その表情は見えなくなった。


 セレイラは手にしたリボルバーの撃鉄をゆっくりと起こした。

「王党派と革命軍を表立って衝突させ、国内の混乱を引き起こしつつ、両者の弱体化を狙う……そんなにあからさまに『漁夫の利』を得ようとする連中を、まさか私が見抜けないとでも思ったか?」


 透徹した眼差しが、フードに遮られてもなおイラリオンを射すくめる。

 彼女は最後にして最大の切り札を切るように、力のこもった声で言った。



「断言する。お前の正体は、だ」




・II・


 息の詰まる数秒が過ぎた。セレイラは左手に銃を、右手にダガーを握りしめたまま頭上の男を睨んだ。不用意に動けば命はない。地の利も装備も、軍配は敵に上がっている。


 イラリオンは首をわずかに動かし、自分と柱の間の空間に向けた。


 そのほんの数ミリの変化を、セレイラは見逃さなかった。


 体軸を傾け、右へ倒れ込むように飛び出した。彼はすぐさま、セレイラの動きに照準をずらした。そして、一瞬の躊躇いもなく引き金を引いた。


(——今だ!)


 セレイラは右半身に全体重を乗せ、その脚をタイルで覆われた地面に叩きつけた。岩石の砕けるけたたましい音とともに、彼女のブーツは厚さ三センチのタイルをぶち抜いた。

 タイルのかけらや粉塵が、火砕流のように巻き上がった。セレイラの体はキックの反動に乗せられ、敵の視界から消えた。そのすぐ横を、彼の放った鉄弾が飛び退る。


 セレイラはすでにコッキングされた銃を、つづけざまに二発撃った。一発目の弾丸が馬車のフレームを粉砕した。イラリオンの立つ屋根がぐらりと揺れ、雪崩のように崩れ落ちる。体勢を崩してつんのめるその腹部を、二発目の弾丸が捉える。

 彼が倒れるよりも早く、手にした二丁のハンドガンが乾いた音を立てて地面に落ちる。


「動くな」

 這いつくばって逃げようとするイラリオンの背中を、彼女は革のブーツで踏んづけた。抜身のダガーをうなじに突きつける。丸腰であることを確かめると、彼の体をひっくり返した。抵抗はされなかった。


「認めるんだな?」

 セレイラは確かめるように言った。イラリオンは何も答えなかった。彼女はそれを、肯定の合図とみた。


 彼女の取るべき行動は決まっていた。

 革命軍の協力者であるはずのイラリオンが、あろうことか保安局に寝返っていたという事実。それを裏付けるために、確固たる証拠をワルシャワに持って帰る。すでに、伝書鳩の手紙はキャンサーに託してあった。

 しかし、何にもまして重要だったのは、彼自身の身柄だった。


 セレイラは懐に手を入れ、何かを取り出した。

 八つに折り畳まれた羊皮紙。

 それを開くと、何やら手紙のようなものになった。


「……じゃあ、これは何なんだ」

 文面がはっきりと見えるように、イラリオンの目の前に突き出す。

 そこに刻まれた文字が見えた瞬間、イラリオンの顔がこわばった。


「これは……!」

 昨晩キャンサーが打ち落とした、二羽の伝書鳩。そのうちのは、暗号文などではない、何の変哲もない手紙だったのだ。

「宛先は伏せてあるな。ただ……内容からして、婚約者への遺言状ってところか」


 実際は手紙の内容は曖昧で、婉曲で、その真意ははかりかねた。カマをかけたのだ。


 だが。


 イラリオンは頬を紅潮させ、がたがたと震えはじめた。


 数分前まで保っていた余裕と威厳が、今や見る影もなく粉々になっている。


「まさか……本当? それが理由で保安局に手を貸したのか?」

 彼女は少しばかり、心からの驚きを交えて言った。


「ほっ……他にどうしようもなかったんだ!」

 彼は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。

 セレイラは黙って耳を貸していた。


「俺のたった一人の……たった一人の家族だったんだ! 革命が成功したら、本当の家族になろうって……互いにそう約束してたんだ!」


「そうか」


「なのに……ああ、畜生! 彼女を交渉材料にされたら、俺はおしまいなんだ! 朝起きたらいなくなってて、それが保安局に囚われていると知らされて……保安局のクソ野郎! あんな汚ねえ手口で俺を脅しやがって! 俺に、俺なんかに、あいつを捨てることなんかできる訳ないだろう!」


「そうか」


「俺は許さない! 貴様も! 保安局も! レックランドも! みんな地獄に落ちてしまえ! 呪ってやる……貴様らも、俺と同じ苦しみを味わえばいい! たった一人の家族を奪われて、引き裂かれて! 体が半分に削られる責め苦を、死ぬまで受け続けるがいい!」


「……そうか」


「ああそうだ、最後に一つ、いいことを教えてやる。あの保安局のダニ野郎どもが、とっておきの殺人兵器を開発したそうだ。七年前にな。なんでもそいつは、外側は普通の人間とまったく見分けがつかないらしい。

 聞いて驚くなよ……! 三体だ! そんな怪物が、三体も——」


「そうか」



 発砲。



 セレイラの放った弾丸が、イラリオンの大きく開いた口から脳漿を貫いた。

「……話の長い男だ。夫にも父親にもしたくないよ」



 発砲。



 肩口がびくんと跳ね、右腕が半分もげる。

「それにしても、大儀な男だね。そうかそうか。奥さんのこと、見捨てられなかったんだな。いいな君は。引き裂かれた相手の所在まで分かってて……手紙なんか書いちゃってさ」



 発砲。



 すでに動かなくなった骸の心臓が朱に染まる。

「私だって、叶うのならばそうしたいよ。でもね、彼女ウルがどこにいるかなんて、さっぱりわからないんだ。それなのに私ときたら……生きてるのか死んでるのかも分からないのに探し続けて、馬鹿みたいに待ち続けて。そもそも、こうなったのも全てはモスクワ計画のせいだってのに……その被害者は『殺人兵器』呼ばわりされてさ」



 発砲。 発砲。 発砲。



「まあ、ある意味それも妥当なんだろうね。私のような『死んでいる』人間には、死神だのスパイだの……そういう肩書きがお似合いなんだろうな。でも、お前は違った」



 発砲。 発砲。 発砲。 発砲。 発砲。



 空になった銃を投げ捨てる。

 拳を握りしめる。

 心なしか、声が震えてきた。


「お前だけ……どうしてお前だけ、革命軍から逃げようとしてるんだよ。再会の望みなんか、叶えようとしてるんだよ。故郷にも使命にも背を向けて……そうやって寝返った裏切り者を、お前の許婚フィアンセはどんな顔で出迎えると思ってるんだよ!」




 私だって、会いたいよ。


 手紙だって、書きたいんだよ。


 それなのに、お前は。お前という奴は。




 彼の手紙を引き裂こうとして、セレイラは冷静になった。感情に押し流されては、イラリオンの二の舞を演じるだけだ。今はそれよりも、手紙という物証を持ち帰らなければ。


 心に穴が開いて、そこから中身が漏れ出ていくようだった。


 彼女は踵を返すと、蜂の巣のようになった亡骸を振り返った。

「お前みたいなが、スパイなんかやるんじゃないよ……馬鹿野郎」




 ——ああ、最悪だ。何もかも。

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