第二章 アルストロメリア

第10話 初任務

・I・


 セレイラは夢とうつつの間を行ったり来たりしながら、酷寒の雪国にいるような不快感と格闘していた。

 彼女は寒さが苦手である。モスクワの実験室で過ごした、暗く陰惨な日々を思い出させるからだ。それは七年が経過した今も、褪せることなく記憶に絡みついてくる。

 心なしか、体が左右に揺れている。そう言えば、手術中もこうやって——




「——セレイラ!セレイラってば!」

 誰かにゆすり起こされ、気がつけば彼女は柔らかいベッドの上で眠っていた。窓辺から差し込む朝日が眩しい。徐に目を開くと、真っ白い天井と、文句ありげなカスピアの顔が飛び込んできた。


「もう少し寝ても罪にはならない」

 セレイラは不機嫌そうに言った。

 カスピアは口を尖らせた。

「もう、しゃきっとしてよ!せっかくの二人の初任務なんだから」


 そういえばそうだったな。

 彼女は数日前にドラセナから下された司令を、悠長に思い返していた。

 ふと思い立ち、目線を下げる。クシャクシャになって彼方へ放り出された毛布と、あられもない寝相が目に入る。

 

 これは夜風にあてられて寝冷えもするわけだ。


「セレイラ、寝起きはなんだね」

「……うるさい。朝が弱いのはスパイのさがだ」

「お腹、丸出しだよ」

「……暑かっただけだ」

「まーたそんなこと言っちゃって。それにしても、ほとんど裸ってのはよくないよ。まあ……確かにセレイラ、見たいと思うような体はしてないけど」

「殺すぞ?」

「だって、事実じゃん。その……まったいらだし」


 セレイラは彼女を殴り殺そうかとも考えたが、思いとどまった。朝から流血沙汰を起こしては、ホテルに迷惑だ。

「ミストラルには、お前はミハイロフの二重スパイだったと報告しておく」

「待って。それは困る!」

「残念だなあ、せっかくお前と二人で任務に当たれると思ったのになあ」

「わかった、わかったから許してください! ここを追い出されたらもう行くところないの!」

 カスピアの悲痛な叫びに、セレイラは内心でほくそ笑んだ。ようやく彼女を黙らせることができて満足だった。


「まったくもう——」

 カスピアはやれやれ、といった風に首を振った。

「わたしが暗殺者なら、今頃殺されてるよ」

 セレイラは黙り込んだ。その指摘には、首肯せざるを得なかった。

 もっとも、普段ならばこのような醜態を晒すはずはなかった。枕元には道具一式を揃えてあるし、寝ている間も警戒は怠らない。


 しかし、この女カスピアといる時だけは、不思議なほど気が緩んでしまうのだ。

 それは、心に巻き付けてある硬い鎖が、するすると解けていくような——。


 だが今は任務だ。こんな無駄話に興じている場合ではない。

 セレイラは枕元の時計に目をやり、がっくりと肩を落とした。あと一時間は寝ていられたのに、誰かの邪魔が入ったせいで台無しだ。

「作戦の決行は明日。『作戦会議』は夕方からだろ。市内の下見も昨日のうちに済ませた。こんな時間に起こして、どういうつもりだ?」

 セレイラはのっそりと起き上がると、カスピアを横目で睨んだ。


 彼女はベッドの端に手をつき、身を乗り出した。

「だから、忙しくなる前に市内を観光しておかなくちゃ!」

 なんともいえない静寂が訪れた。セレイラは内心呆気に取られていたが、それを悟られないように真顔のまま言い放った。

「あんただけワルシャワに帰ってもいいんだぞ」




・II・


 彼女たちはレックランドの地方都市、ルブリンに来ている。ワルシャワから南東に、早馬で半日。七世紀ごろに作られたこの街は、風情ある街並みを色濃く残している。


 そんな静謐な佇まいに誘われたのか。

 セレイラはとうとう、カスピアに連れられて外へ出てしまった。

「ここがルブリン城かあ。大きくてきれい! それに……なんか、変わった形だね」

「この城は何度かに渡って、時期をまたいで建設された。今私たちがいるのは礼拝堂。丘の上に、で作られている」

「誰が建てたの?」

 カスピアの質問に、セレイラはしばしの間を置いて答えた。

「カジミェシュ大王農民王。レックランドがまだ強かった頃の王だ」


 本日のルブリンは晴れ。空気は澄み、暖かい昼下がりの風は肌に心地よい。

 二人は城の周りを、一般人や使用人たちに紛れて散策した。


「ちょっといいか」

 ずっと彼女に連れまわされていたセレイラが、珍しく彼女の手を引いた。二人は礼拝堂の裏手を進み、城の南のはずれにある茂みのふちへ出た。

「どうしたの? そっちには何もないよ?」

 茂みを眺めるセレイラを、カスピアは不思議そうに見ていた。

「分かってる……ちょっと、変な匂いがしただけだ。私の気のせいかもしれない」

 セレイラは茂みの向こうに視線を据え置いたまま、そんなことを言った。


 二人はルブリン城を出て、城から斜めに伸びる通りを練り歩いた。右手に見える、一際目を引く石造りの建物は王立裁判所だ。セレイラは、道に迷ったらそれを目印にするようカスピアに言い聞かせた。上機嫌のカスピアは、どうでもよさそうに頷いた。彼女はセレイラの手を引っ張りながら、飽きもせず市街のあちこちを見て回った。


 ここルブリンにて、革命軍に協力する貴族の暗殺が企てられているとの情報がミストラルにもたらされた。セレイラがカスピアを伴ってワルシャワに帰還した、そのわずか数日後のことだ。『南東戦略』もひと段落し、他にすべきこともないドラセナは、二人の初任務としてルブリンを選んだ。

 そしてそれには、「カスピアの真意を試す」という裏の目的もあった。


「それにしてもセレイラ、王党派による暗殺を妨害って……どうやってするの? 獲物ターゲットがいつどこで殺されるのかなんて、分かりっこないと思うんだけど」

 カスピアの指摘に、セレイラはさもありなん、という風に頷いてみせた。

「ミストラルも、なんのあてもなしに私に丸投げしているわけじゃない。いや、過去にはそういうことも多々あったが……今回は違う」

「違うって、どういうこと?」

「暗殺計画の詳細が漏れたのさ。ターゲットの側近が、ことの全貌が記された命令書を盗み出したらしい。今回の任務には、『協力者』がいるってことだ」


 カスピアは何かに気づいたようだった。

「じゃあ、セレイラが言ってた作戦会議って——」

「そう、その『協力者』を交えたものになる。ありがたいよ、この手の密告者は」


 二人はオレイナ通りと書かれた標識を曲がり、人気のない倉庫街をぶらついていた。


「ねえセレイラ」

「なんだ」

「セレイラはさ、どうしてミストラルに入ったの?」

 困った質問がきた。彼女は腰に手を当て、そうだなあと言った。

「成り行き……だな」


 彼女の答えは嘘ではなかった。現行の王や、レックランドの旧態依然とした特権階級たちに恨みがあるわけではなかったからだ。

 案の定、カスピアは彼女の言っている意味がわからなかった。

「どういうこと?シュラフタが絶対に許せない……とかじゃなくって?」


 シュラフタと呼ばれるこの国の貴族たちは、国王からの恩給や様々な特権により、ひたすらに私服を肥やしている。周りを見れば列強がすぐそこまで迫っているというのに、歳入の八割は彼らの俸禄に充てられ、軍事費すらまともに捻出できないという状況だ。


 セレイラは愉快そうに、口角をちらりと上げた。

「ああ。もとをただせば、私はむしろ『シュラフタ側』の人間だからね」


 彼女たちは気づけば、郊外の狭い通りに差し掛かろうとしていた。


「なァにがシュラフタ側の人間だァ?テメェ……」

 肩をむんずと掴まれ、セレイラはふり返った。

 岩のように大柄な男が、彼女の後ろに立ちはだかっていた。

 禿げかかった頭頂部に対し、顎髭は伸び放題だ。ぼろ切れのような服を身に纏い、下卑た目つきで二人を見下ろしている。


 カスピアはセレイラの影に身を隠した。

「兄貴ぃ、こいつら金持ってそうですぜ」

「いやいやいや、ただ巻き上げるだけじゃ勿体ないッスよ!こいつら相当な上玉でっせ、ウリに出せば相当な金になるッスよ!」


 どこから出てきたのか、骸骨に人皮をはりつけたような男が彼女たちの行手を塞いだ。セレイラたちは見るまに、三人の男に取り囲まれてしまった。


「おい女ァ、この通りを子供だけで歩くもんじゃねェぜ」


 大男は勝ち誇ったような顔で、舐め回すような下品な視線を二人に向けた。

「あひゃひゃひゃひゃひゃ!この子猫ちゃんたら、怯えて声も出せないねぇ」

「早くゲットしちゃいましょうよ!貴族シュラフタ様とヤレるなんて、相当ツイてるッスよ!」

 そう言い終わるか終わらないうちに、二人の子分はセレイラに触れようと手を伸ばした。


 後ろでカスピアが足を踏み替えるのが分かった。

 彼女は目を落とし、自分の服装が黒いシャツのままである事に気がついた。


 セレイラはボスとみられる巨漢のもとへ歩み寄った。親指と人差し指で喉仏の辺りを摘むと、それをぐい、と押し下げた。乾いた咳払いを何度かして、彼女は口を開いた。


「おや、ボクとワンナイトを御所望かい?変わった御仁だね」

 突如目の前に現れた青年に、男の顔から血の気が引いた。その声は、ほとんど平均的な男性のそれだった。

「なにィ!? テ……テ……テメェは……!」

「君がお望みなら、ボクがしてやってもいいけど?」

 そう言いながら、ブーツのかかとで男の足を踏んづける。ぴぎゃ、と妙な声を出し、男は目を白黒させた。

 彼女は思い切り背伸びをすると、男の耳元で声をひそめた。

「誘う相手を間違えるんじゃねえよ、クソ肉達磨。子猫なのはおめえの視力だろうが」


 三人が蜘蛛の子を散らすように退散すると、通りには二人だけが残された。

 カスピアは自分の見たものが信じられないような面持ちだった。目を丸くする彼女に、セレイラは言った。

「やっぱり、どこへ行ってもシュラフタは嫌われ役だな」

「お、お、お、男〜!?」

 カスピアは素っ頓狂な声をあげた。


 セレイラは、声を元に戻していない事に気づいた。

「馬鹿、声帯模写だよ。私は女だ」

 自分ではない誰かを演じるということは、スパイとして生き延びるために必要不可欠な資質だ。セレイラはこの能力に、何度身を助けられたか分からない。それに、彼女の声は元々低い方だった。


 しかし、カスピアはまだ信じていないようだった。セレイラの胸元をじっと見つめ、険しい顔で首を傾げる。

「……本当に?」

「なんだ、何か言いたげな顔だな」

 セレイラはぎろりと睨んだ。カスピアはにやりとして、視線を上げた。

「胸が——」

「やっぱり殺す」

 彼女は低く唸ると、カスピアを小突いた。

「お前のもそぎ落としてやろうか? 少しは動きやすくなるぞ」

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