第11話 協力者

・I・


 その日の夜、彼女たちが密会の場に選んだのは、ルブリンでも有数の高級ホテルの一室だった。二人は偽名を使い、適当な用事をでっち上げてフロントをすり抜けた。


 三階の廊下に瀟洒なランタンが並ぶ。その突き当たりの扉を、セレイラはノックした。


 三回。一回。二回。


 息が詰まるような静けさが、数秒の間流れた。

 金メッキの施された蝶番が滑り、ドアが拳一つ分ほど開く。セレイラはわずかにできた空間に身を寄せ、ドアの向こうに囁いた。

「『我らが血、雨となり地を満たさん』。、要請に従い参りました」


 『オリオン』は、ミストラルのスパイに与えられるコードネームの一つである。しかし、それを名乗ることが許されるのは、ミストラルの中でも最高の技量と実績を持った者ただ一人に限られる。

 すなわち、セレイラという機械人間であった。



 ややあって、ドアが完全に開き、二人は部屋の中へ通された。



 一人用のベッドに小さなシャンデリアが飾られた部屋で、三つの人影が執務机を囲んでいた。

 静穏な男の声が、紅茶を注ぐ音とともに鳴り響く。


「お待ちしておりました、オリオン。私がルベルスキー伯の家令、イラリオンと申します」


 セレイラはルブリンの地図を挟んで反対側に陣取る青年を、じっくりと観察していた。

 彼は革命軍に所属する協力者だ。ドラセナの知人であり、革命軍における数少ない彼の理解者である。その目つきは穏やかだが、気品にあふれている。憂いを帯びた顔つきには、思慮深さや誠実さが滲み出ていた。

 セレイラは一目見ただけで、ただの使用人ではないと実感させられた。

 密会の場所をこちらが指定したのは正解だった。彼女は、密かにそう思うのだった。


「神に祝福されし我らレックランドがリトアニアと同君の契りを交わしてから、二百年の節目はすぐそこまで迫っている。しかし、今の私たちには宴を催すことも、レックランドの輝かしい未来を願って祝杯をあげることもできません。状況は差し迫っている。賽は投げられてしまったのです」


「サイは投げられた……?」

 ぽかんとするカスピアを横目に、セレイラはルブリン市街地を縫うように引かれた線に目を落とした。

「……それで、これがルベルスキー伯の通るパレードの道順というわけですね」

 イラリオンは厳粛な面持ちで頷くと、赤いインクでバツ印が記された一角を指した。

「さようでございます。こちらをご覧ください」


 ルブリン城からそう遠くないところに、その印は付けられていた。

 セレイラは、その場所に覚えがあった。

 彼女はイラリオンの顔をちらりと見ながら呟いた。

——王立裁判所のすぐ近くだ」


「……やはりご存知でしたか」

 イラリオンは目を閉じ、静かにそう言った。

 そして、執務机の端にあったペンを手前に引き寄せた。


 カスピアはセレイラに耳打ちした。

「セレイ……じゃなくてオリオン、どうやって王党派の暗殺を止めるつもりなの?」

 セレイラは何も答えなかった。

 イラリオンは、彼女に代わって言った。

「オリオンには、ルベルスキー伯がお召しになる馬車に乗っていただきます」


 瞬間的に、カスピアの顔がこわばった。

「身代わりに……なるってことですか?」

「いいえ。王党派には誰も殺させません。オリオンにはルベルスキー伯専属の御者として、廃倉庫を通らずにルブリン城までお戻り頂くのです」


 そう告げると彼は、机に置かれた朱色のインクを開けた。

 洗練された手つきでペン先を浸すと、目の前の地図に新たな線を引いた。


 赤い線は廃倉庫のあるグロツカ通りには入らず、手前で右折。そのまま通りをまっすぐに進み、ルブリン城の前に出る。地図の上では、城の正面には広場とおぼしき空白が存在するが、線はそこを通らず、脇の通路から城へ入る。


「なるほど。私が御者にすり変わり、倉庫を避けて通る。これなら安全でしょう」

 セレイラはティーカップを片手に、納得したように言った。だが、イラリオンの表情は晴れなかった。

「いえ……私はこれでも、まだ不安が拭えないのです。王党派は主人を狙って、二の手三の手を用意しているのではないかと」

 そう語る彼の眉間には、深いしわが刻まれていた。

「私は何度も忠告をしました。パレードを控えるようにと、おいさめしたのです。それでも主人は、聞く耳をお持ちにならなかった。結局、革命軍のつてを頼りに、貴女がたのお力を借りることになってしまいました。お恥ずかしい限りです」


「お気になさらず。ルベルスキー伯の命は、私が預かりました」

 セレイラは淡々と言った。

 イラリオンは悲しげな笑みを浮かべ、拝謝の意を述べた。




・II・


「今回の依頼、確かにお受けしました。ですが私から、一つ条件が」

 彼女が発する声に、わずかに鋭さが忍び込む。それに呼応するかのように、蝋燭の火が一つ


 三人が集う部屋に、張り詰めた空気が流れた。


「おや、これは粗相をいたしました」

 緊張を解きほぐすかのように、イラリオンは蝋燭の火を付け直した。カスピアは密かに安堵のため息を漏らした。


 セレイラは蝋燭のことを気に留めることなく言った。

「王党派から盗み出したという命令書、私に見せてもらいましょうか。貴方の依頼が信用に足るものかどうか、私の目でも見極めておきたい」


「なるほど、そういうことでしたか」

 イラリオンは落ち着いた態度を崩さぬまま、わずかに顔を緩ませた。彼は懐から上質な羊皮紙の封筒を取り出すと、それをセレイラに手渡した。

「もちろんお安い御用でございます。貴女はスパイ。疑ってかかるのは当然のこと。その封書は、そのままお持ち帰りください。こちらの地図とともに、貴女に差し上げます」


 彼はルブリン市街地が描かれた例の地図も差し出すと、空になったティーカップを下げ——はしなかった。

 その代わりに、ポットから二杯目の紅茶を注いだ。


 イラリオンの視線が、セレイラを椅子に座るよう促した。

 次は彼のターンか——すまし顔で席につきながら、彼女は目の前の協力者が話を切り出すのを待った。


「聞くところによると」

 彼の口調は、油を流したように平坦だった。

「ミストラルは最近、新たな機関員スパイをメンバーに迎えたとか」


 セレイラはカップの縁に手を伸ばしかけ、そしてピタリと止まった。

「ええ、お耳の早いことで」

「ミストラルとは縁故がございます。その内情が私のもとに届くのは自然なこと。違いますか?」

 しごく落ち着いた声音に、セレイラは首を縦に振らざるを得ない。


「ところで……その方は、今回の任務にはご同行されているのですか?」

 後ろでカスピアの影が揺れ動くのが分かったが、セレイラは気にしなかった。彼女には、イラリオンの前では余計な情報は口にしないよう言いつけてある。

「ええ、しています。実地研修も兼ねて、といった所です」


 セレイラの返答に、イラリオンはそうですか、と微笑んだ。

 一切の異心を感じさせないその表情は、彼女をして驚かしめるに十分だった。

「では……その『新人スパイ』に言伝を。もし叶うのであれば、ドラセナのもとで働きなさい。彼には、人を導く力がある——と」

 

 セレイラはやはり、首を縦に振る以外に如何ともしがたかった。二杯目の紅茶には手をつけぬまま、彼女はホテルでの密会を後にした。

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