A spy's recollection -1

 その部屋は暗く汚く、忍び込む夜風は肌を刺すほどに冷たかった。


 私は鉄のベッドの上に横たわり、薄暗い天井をぼんやりと見つめていた。それ以外のことをするのはあまりにも億劫で、ただ意識を漂わせていた。


 海月のように、いつまでも虚空に漂わせていた。


「ルフィナ」


 隣から私を呼ぶ声が聞こえ、私の中に暖かい火が灯るのを感じる。

 私は横を向きたい。

 横を向いて、声のする方へ笑いかけたい。


 でも、それはできない。


 私のすぐ隣には、銀のトレイが置かれているのだ。それを見てはいけない。見たら……だめなんだ。


 トレイの上に乗せられているのは死だ。

 トレイだけではない。この部屋は死の匂いで満ち満ちている。充溢じゅういつする鉄の匂いと腐乱臭が、鼻腔を容赦無く抉る。時折突き上げてくる不快感に、嘔吐しそうになる。


 脇腹を、生温い液体がとろりと垂れる。それが自らの血潮だと理解するのに、時間はかからなかった。何百回と繰り返された、あまりにもありきたりな感覚。


 麻酔が切れてきた。

神経も焼き切れるほどの疼痛が、腹底から触手を伸ばしてくる。不快極まりないそれは、五体を蚕食するように生気を奪う。


 涙がにじむ。

 呼吸が浅くなる。

 生と死のはざまで、私は宙吊りになる。


「はじまった……?」

 返事の代わりに漏れたのは、情けない呻き声だった。それでも、左隣の少女が私の状態を察するには、それで十分だった。


「わたしは、隣にいるよ」

 右頬を、温かい液体がひとすじ落ちる。それが自らの涙だと理解するのに、思考はいらなかった。

 ——涙を流せるということは、まだ生きているということだから。

 いつぞやの少女の言葉を、私は想起する。

 記憶の中で、彼女の栗色の髪がふわりと舞う。


 現実問題、それがいつまで続くかは分からなかった。

 手術台が沈没するのではないかと疑いたくなるほど、血を流し続ける毎夜。その度に私の「人間」の部分は少しずつ削り取られ、代わりに得体の知れない無機質な鉄塊をねじ込まれる。

 その間、一秒は一時間に。一分は一日に。一時間は永遠にも思えるのだった。





 だがそれも、今日で仕舞いなのだ。





「いよいよだね」

 またもや声がした。私は興奮気味に頷いた。そう、私は高揚していた。


 それは絶望からの解放。


 自由への脱出。


 二人だけが掴み取った、命の切符なのだから。


「『二つの約束』、覚えてるよね?」

 どんよりとした空気が立ち込める中、その声は澄み切っていた。

「うん。でも、私が果たすのはだよ、ウル」

 私は力のこもった声でそう答えた。



 静寂の中に、ウルの笑い声だけが響いた。

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