第9話 スピリタス

 アローシャは部屋の隅から、鉄の鋲が打たれた大きな箱を引っ張ってきた。セレイラをベッドに座らせ、自分もその隣に腰掛けた。

「じゃあセレイラ……脱いで。いや、その……始めるから」

 蚊の鳴くような声だった。セレイラは思わず吹き出した。

「もっと遠慮せずに言ってくれたっていいんだぞ」


 彼女は身につけたフードやシャツを脱ぎ、下着を残して上裸になった。

 服の下から、均整のとれた体が露わになる。体格は華奢だが、腕や腹部にはうっすらと筋肉のすじが走る。無駄のない、美しい肉体だった。


 右肩には黒い刺青。

 『562』と刻まれている。


「ほら、鍵だ」

 セレイラは首から下げたペンダントをアローシャに手渡し、彼に背を向けた。

「よろしく頼む」

 アローシャはすでに真っ赤だったが、彼女に気取られないよう必死に平静を装っていた。


 セレイラの右脇腹、腰に近いあたりに、銀色の鍵穴はあった。

 鍵を差し込み、ゆっくりと回していく。

 体の中でガチャリ、と施錠の外れる音がした。

「開けるよ」

 セレイラが頷くのを待ってから、アローシャは背中に指を滑らせた。絹のようにすべすべとした肌が、彼の指にはくすぐったい。

 肩越しに、セレイラのささやかな吐息がもれる。


 生地のようになだらかだった背中に、針先で擦ったような線が現れた。

 線は背骨の近くまで伸び、扉のような形になった。


 アローシャは震える指先で、それを外側へ開いた。




 扉の向こうには、機械仕掛けの無限回廊が広がっていた。




 あちらこちらにガス管や冷却管が走り、枝分かれを繰り返しては体の奥へと消える。その隙間を埋めるように、小型のゼンマイやピストン、鈍色にびいろに光る歯車が配置されている。

 これらの部品は無造作に並べられているようでいて、実は息を飲むような精密さで作動しているのだ。


 機械の中央には、大きな黒い箱が鎮座している。文字通りブラックボックスになっており、開けて中を覗くことはできない。


 フロル機構の心臓部。

 世界を変革する力を秘めた、ミハイロフの科学技術最重要機密の結晶だ。


「そろそろ見慣れてくれよ」

 息を呑むアローシャに、セレイラは茶化すように言った。

「どう?汚れ具合は」

 体内に埋め込まれたフロル機構がどのようなものなのか、セレイラ自身が詳しく知ることは叶わない。

 彼女のメンテナンスは、決まってアローシャの役目だった。


「予想どおり……かなりひどいね。配管にオイルがこびりついてる。歯車のいくつかは歯が欠けているし、熱で変形したパーツもある……さてはセレイラ、相当きつい運動をしていたな?」

「まさか。私は内燃機関を起動させたわけじゃないぞ。カスピアとやりあった時も、作動していたのは油圧システムだけだ。熱で変形するとは考えにくいだろ」


 彼女の体内に埋め込まれたフロル機構は、人体という環境に適合させるべく、オリジナルのものに様々な改良が加えられている。

 例えば、固形である石炭に代わり、液体のアルコール飲料を燃料として動く。また、内燃機関に加えて油圧駆動システムが埋め込まれている。主要な関節に仕込まれたシリンダーは、日常的な様々な動作を常時補強してくれるのだ。

 セレイラがフロル機構の本体を起動させずとも、身体能力で常人を凌駕できるのは、そこに秘密がある。


 しかし、アローシャは彼女の言い草に惑わされることなく言い返した。

「油圧システムだって、使い過ぎればオイルも漏れるし排熱で変形もするんですっ!僕は君の体内装置の不具合なんか、全部お見通しなんだからね!」


 自分の体の不調を言い当てられ、セレイラはむず痒さを覚えた。だがそれは、不思議な安心感を与えてくれもした。

「まったく……あんたには何も隠せないよ」

 彼女はわずかに甘えるような声で言った。

 アローシャはセレイラよりも一つ年上。普段は臆病者でセレイラの影に隠れていることが多いが、情熱的な一面もある。彼女はそんな相棒を頼りにしていた。


 しばらくの間、部屋には工具や部品のカチャカチャという音だけが響いた。


「ねえ、セレイラ」

 静寂を破り、アローシャが口を開いた。

「カスピアのこと、どう思う?」


 下腹部にスパナ触れる。その冷たさに、ぞわりと鳥肌が立つ。

 セレイラはきっぱりと言った。

「信用はしていない。ただ、ドラセナの決定だから従っている。それだけだ」


「僕も同じだ」

 彼は静かに、しかしはっきりとそう応えた。

「僕には彼女の本心が見えない。あの無垢な仮面の下に、どんな別の顔を隠してているのか分からないんだ」

 セレイラはこくりと頷いた。

「隠し事をしている人間は、目を見れば判る」

 低い声が、雑音のない部屋に染み渡る。

「それなのに、カスピアの目には何の異心も感じられない。毒気のある人間は飽きるほど見てきたが……正直、ああいった手合いは初めてだ」


「彼女はタタール人だと言っていた」

 アローシャは噛み締めるように言った。

「でも思うんだ。タタール人なのに、どうしてこの国の言葉を流暢に話せるんだろう?彼女が裕福な家庭に育って、外国語を勉強してきたならともかくだ」

 セレイラも同意見だった。

「ミハイロフに脅迫されて、無理やり協力させられている可能性もある」

 残忍で狡猾、おまけに抜け目がない。それが、彼らの知るタタール人だった。


「唯一の救いは、ドラセナが信頼してるって点だな」

 油圧を調節されるのを感じながら、セレイラは言った。これには彼も賛成だった。

「そうだね。司令が大丈夫って言うなら……本当に、大丈夫なのかも知れない」

「もしくは、そうでないかも」


 再び沈黙が流れた。


 セレイラがくしゃみを噛み殺すのを見て、アローシャは毛布を渡した。

 彼女は礼を言い、毛布で前を覆った。

「カスピアは私が監視する。挙動が怪しければ殺す」

 彼女の声は冷ややかで、平坦だった。

「僕は……できれば逃げてほしい。セレイラの身に何かあったら、僕は……」

「私は戦える」

 セレイラはぴしゃりと言った。

「私はあんたの妹じゃないんだ、自分の身ぐらい自分で守れる」


 機械を弄る手が止まった。

 数拍の間を置いて、アローシャは小声で言い返した。


「それでも、君の体は崩壊寸前だ」


 ランタンの炎がゆらゆらと揺れる。暖炉の火が音を立ててはぜる。

 セレイラは何も言わず、彼の言葉を甘んじて受け入れた。

「体内装置はメンテナンスのたびに劣化している。整備しても、整備しても、あちこちが歪んでいってるんだ。セレイラ、機械と人体は違うんだ。人間は怪我をしても治るけど、フロル機構は配管のどこかが破れてしまえばそれだけで故障だ。たぶん、セレイラの体は五年ほどしか持たないように設計されているんだと思う。もうすでに、耐用年数を超えている可能性だってある……!」


 アローシャは昂る感情を抑えきれず、声を上ずらせた。

「何より君の体だよ。体内にフロル機構を埋め込むなんてバカげたことをするために、臓器のほとんどが切り取られてしまっている。セレイラはいつ倒れてもおかしくないんだ」


 セレイラは自分の胸に手を当てた。アローシャの言うとおりだった。


 彼女の主要な臓器は、そのほとんどがフロル機構に置き換えられている。

 主なものでも、胃、脾臓、胆嚢、大腸の半分、右の腎臓、右肺などは、彼女の肉体から切り離されてしまった。小腸はわずか二メートルを残して切除。おかげで、固形物は健康体の半分しか口にできない。彼女の生命活動は、いつ崩れるか分からないまま、ぎりぎりの所を彷徨っている。


 整備を終えたアローシャは、彼女の背中の蓋をゆっくりと閉じた。

「僕は、セレイラをこんな姿にしたモスクワ計画が憎い。『強化人類』を創り出すために人体実験を繰り返したミハイロフ王国が許せない。だから僕はここにいるんだ」

 彼はレンチを握りしめたまま、やるせない顔でセレイラの背中を見つめた。

「それなのに、僕は全くの役立たずだ。敵は列強なのに、革命すらおぼつかない。セレイラ一人を守ることもできない。目の前に壊れかけの女の子がいるってのに、僕はことしかできない!」


「これが私の姿だ。同情なんてしてくれるな!」


 セレイラは声を張りあげた。

 身体にまとわりつくしがらみを振り解くように、勢いよく立ち上がる。

 彼女はアローシャの瞳を穴が開くほど見つめた。彼はたじろいだ。


「あんたの言うとおりだ。確かに、私は死にかけている。体内装置を動かすために、スピリタスの原液を飲まなきゃいけない。フロル機構を作動させた後は、熱で体がほどけそうになる。それに……」


 彼女は一息でそこまで言うと、自分の下腹部に手を当てた。

「私には、ことすらできないんだ」


 アローシャの目に光るものが浮かんだ。歯を食いしばり、耐えきれなくなって顔を逸らした。


 セレイラは彼の手首を引っ掴むと、強引に立たせた。

「でも、それがどうした!」


 彼女はアローシャの手をとり、自分の胸に押し当てた。彼の頬が、かっと熱くなった。

 掌に、太鼓の音のような鼓動が満ちていく。


「私の心臓は、まだ動く」


 彼女はそう言い切ると、アローシャに背を向けた。

「私は所詮、使い捨ての歯車だ。こんな命いつでも投げ出していいと思ってる。叶えたい夢も救いたい人間も、生きながらえてまでやりたいこともない。だから私は、生かされた今を生きる。ただそれだけ。怖いものは何もない」


 ふり返り、アローシャの方を見る。彼は嗚咽を噛み殺し、赤く腫らした目でセレイラを見つめ返す。

 彼女は険しい表情のまま言った。

「だから、私を憐むことは許さない」


 アローシャは涙を拭うと、顔をくしゃくしゃにした。

「セレイラのそういうところ、昔から大好きだ」


 彼の直球に、セレイラの顔から笑みがこぼれた。二人はジンジャーエールのボトルを囲み、窓の外にワルシャワの夜景を望んだ。


「いい夜だ」

 セレイラが黒いシャツを着ると、その肢体は夜空と一つになった。

 後ろ手に鍵を開ける。窓を外側へ滑らせる。夜風に舞う銀の毛筋が、星々も色あせるほどにきらめく。

 どこまでも遠い夜陰をうっとりと眺め、アローシャは呟いた。

「うん……本当に綺麗だ。この夜が、ずっと続けばいいのに」

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