第8話 任務

・I・


 セレイラは自室に戻るなり、ベッドに倒れ込んだ。


 溜まりに溜まった疲労が、洪水のように押し寄せる。

 まるで、全身の骨が鉛に変わってしまったかのように重い。


「ひどいな……」

 彼女は声にならない呻きをあげた。

 寝返りを打つと、関節がギシギシと抗議の悲鳴を上げるのが分かった。

 額に汗が浮き、指一本動かすのも億劫だ。


 部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「セレイラ」

 アローシャの声がした。彼女は返事の代わりに、沈黙でもって応えた。亀のようにのっそりと体を起こすと、彼が入ってきた。


 セレイラの顔を見た途端、彼は悲痛な面持ちで目を背けた。

「そんな顔をしないでくれよ」

 セレイラは精一杯の笑みを浮かべて言った。ふと、鏡に映り込んだ自分の顔が目に入った。彼女はアローシャの見たものを悟り、深くため息をついた。


 鏡の向こうには、見る影もなくやつれたセレイラの顔があった。目には生気がなく、どんよりと曇っている。まぶたの下にはくまができ、頬もこけている。全ては予期していたことだとはいえ、彼女は愕然とした。

「ごめん……」

 アローシャは心底申し訳なさそうに詫びた。

「ただ、『反動』がここまでとは思わなくて」

「ああ。今回のは特に酷い。熱に浮かされたみたいだ」


 ぐったりする彼女の体を、アローシャは精一杯の力で抱き起こした。温もりのある手に触れられ、セレイラは幾分か苦痛が和らぐのを感じた。それは乾いた大地に降る恵みの雨であり、得難い癒しであった。


「言わなくちゃいけないことがあるんだ」

 少し血色の良くなった彼女に、アローシャは躊躇いがちにそう切り出した。

「どうしたんだ?」

 彼の声色から、セレイラはそれが悪い報せであることを感じ取った。

「保安局が……モスクワ計画の公表を検討しているらしい。モスクワに潜入している内通者から、内密に報告があったんだ」


 身の毛がよだつのを感じた。弛緩した心身に、おぞましい毒素が忍び込むような感覚すら覚える。


 ミハイロフ王国中央保安局、通称『保安局』。


 それは王国の影の支配者。

 主な任務は国内外の情報収集、及び敵国における破壊工作や要人の抹殺だ。

 ミストラルが革命成功後の次なる敵として警戒している相手でもある。


 セレイラは水浴びをした犬のように身震いし、忍び寄る不快感を吹き飛ばそうとした。

「いずれはこうなると思ってたさ」

 彼女はあえて、大したことでもないかのように言った。アローシャは机の上に置かれたジンジャーエールをグラスに注ぎ、セレイラに手渡した。

「それでも心配だ。計画の存在が公になれば、いよいよ被検体の捜索も本格的になるってことだ。保安局がその気になれば、セレイラもいつかは……」

 最後の方は、尻すぼみになってセレイラの耳には届かなかった。彼女は何も言わず、差し出されたグラスを口元に運んだ。




・II・


「それで、は見つかった?」

 彼は穏やかな声で尋ねた。セレイラはかぶりをふった。

「いや。生きているのかすらも分からないよ。だから今回の『任務』も、失敗だ」


 任務はいつだって失敗だ。


 モスクワ計画は、おぞましい人体実験により多数の死者を出した。

 それはミハイロフが七年もの間秘匿し続けてきた、王国最大の暗部だ。

 彼女が知る限りでは、六百人近くに及ぶ被検体のうち最終的な生存者はわずか二名。奇跡と僥倖が重なり、セレイラはそのうちの一人として命を存えることができた。だがそれも、いつ消えてなくなるとも知れない、幻のような命だった。


 セレイラは、彼女とともに死地を乗り越えた、もう一人の被検体を探し続けている。ウルと呼ばれていたその少女は、セレイラがモスクワで得たたった一人の仲間だった。


 しかし、脱出後に二人は生き別れてしまった。


 セレイラが遠い異国での任務も厭わないのは、今もどこかで生きているかもしれないウルを探すためなのだ。

 もう七年も、それは続いていた。

 しかし。

 二人が生き別れたとき、セレイラはわずか九歳。

 手がかりとなるような情報は、ほとんど持ち合わせていなかった。強いて挙げるならば、栗色の髪の毛だったことぐらいだ。


 徐々に色あせてゆくウルの記憶。

 裏腹に、寂寞と焦燥のみが募ってゆく。


「それにしても、ミハイロフ王国の最重要機密をまんまと持ち出した『プロメーテウス』か……司令も、粋な呼び名をつけるよね」

 アローシャは冗談めかして言った。セレイラは静かに笑った。彼は静かに目を閉じ、セレイラの手をとった。

「とにかく、無事に帰ってこられてよかったよ。ずっと心配してたんだから……」

「あんたが思うほど激務じゃなかったさ」

 彼女はつれない様子でグラスを傾けた。それからアローシャの顔を見やり、

「……まあそれでも、心配してくれるのは嬉しい」

 そう付け加えるのだった。

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