第4話 コーヒーを啜りながら

・I・


「で、その子に脅迫されたってことだね?」

 二人は部屋の中央に据えられた丸いテーブルについていた。大きな窓のついたこの部屋は、スパイの拠点とは思えないほどに明るい。

「そうだ。クリミア公国で絡まれたのさ。革命軍に入れてくれなきゃ正体をバラすと言って聞かないんだ」

 カスピアは部屋の隅で、死にそうな顔でコーヒーをすすっている。自分のことについて話しているというのに、こちらには全く興味を示さない。セレイラは彼女を観察しながら、肝が座っているのか愚かなのか、二つの可能性を秤にかけていた。もちろん、コーヒーは砂糖もミルクも入れていない。


「怪しすぎるよ」

 アローシャの反応は至極真っ当なものだった。

「まず目的が分からない。セレイラは、彼女から何か聞いたの?」

 彼女はかぶりをふった。

「いいや、何も。何を聞いてもはぐらかされたよ」

「じゃあ尚更だ。だいいち、どうしてセレイラの正体を知っているの?クリミア公国には、ミストラルの内部情報を知る人なんていないはずだよね……」

 彼は少し考え込んだ後、カスピアには聞こえないようにセレイラに耳打ちした。

「僕は、彼女一人の仕業とは到底思えない。誰かがカスピアの背後バックについてるんだよ、きっと」


「ミハイロフ王国とか?」

 敢えて声をひそめずに、セレイラは言った。

 カスピアは素知らぬ顔で、窓の外を眺めている。


 だが、カップを口元に運ぶ手が一瞬止まったのを、彼女は見逃さなかった。


「話の腰を折るようで悪いんだけど」

「なに?」

「私の留守中に、何か変わったことはあった?」

 今回の任務は異国の街に潜入するという、とりわけ大掛かりなものだった。もっとも、所用期間が半月を超えることはなかった。特別に品種改良された当代の馬は、オデッサからワルシャワまでを四日で駆ける。それに、普通のスパイでは数ヶ月を要する任務も、セレイラの手にかかれば一週間もあれば十分だった。彼女が『ワルシャワの死神』と渾名される理由も、一端はそこにある。


 アローシャはため息をつくと、セレイラのティーカップに紅茶を注いだ。

「ミハイロフ王国からまたもや通牒だよ。『国内に駐留する外国貴族に、セイム貴族議会への参加権を与えろ』だってさ。どうやらミハイロフは、この国の内政にも介入したいらしい」

 主権国家同士の真っ当な外交なら、この申し出は常識外れと言って差し支えない。しかし、今のレックランド王国には、理不尽な要求をつっぱねるだけの力も気概もなかった。


 セレイラは頬杖をついた。

「断ったらまた領土を奪われるんだろうな。今度はどこだろう……ベラルーシの西半分とか、持っていかれそうじゃないか?」

 彼女が冗談まじりに言うと、アローシャは大真面目に返した。

「おそらく、ウクライナだろうね。彼の国は、レックランドとクリミア公国が手を結ぶのを恐れているんだと思う」

「ウクライナを手に入れれば両国を分断できる、か……。もしそうなったら厄介だな」

「うん。場合によっては、僕たちの任務にも支障が出るかもしれない」


 アローシャはそう言うと、テーブルの中央に置かれたアタッシュケースに目をやった。

「そういう意味でも、この中身は重要な鍵になる」

 ケースの中には、セレイラが今回の任務で盗み出した機密文書が山と詰め込まれていた。セヴァストーポリにおける、直近三年間の商船の出航記録。要点を絞った情報収集のため、船の行き先はいくつかに絞られている。その中には、セレイラが経由したオデッサなども含まれる。


「それにしても、本当にやってのけるとはね……。やっぱり天才だよ、セレイラは」

 彼は感嘆のため息とともに、誇らしげにそう言った。セレイラはにべもなく言った。

「その天才も、奴には手も足も出なかったってわけだ。結局、無茶な要求を飲まされて、ここまで連れて来させられた」

 二人の視線は、窓際でくつろぐカスピアへと向けられた。彼女はそれに気づいたのか、不思議そうに首を傾けた。




・II・


「で、どうするつもり? 憲兵に突き出そうものなら、セレイラのことが知られてしまうけど。この場で処分するっていうなら、好きにすればいい」

 アローシャは、カスピアの処遇に話を戻した。セレイラは仕切り直すように、椅子に深く腰掛けた。

「革命軍には入れようと思ってる」


 彼女の言葉に、アローシャは素早く反応した。

「タチの悪い冗談、だよね?」

 セレイラは彼の顔を一瞥すると、目を落とした。

「本気だ。私は——」

「何を考えているの?」

 アローシャは声を荒らげ、椅子から立ち上がった。そして、訴えかけるように言った。

「ミストラルは切迫した状況にあるんだよ? 王党派の取り締まりは日に日に厳しくなっているし、上層部は資金難に喘いでいる。列強はいつまたこの国に攻め入って来るか分からない。それなのに、セレイラは身元のおぼつかない子供を抱え込もうとしてる」

 彼はセレイラとカスピアを順番に見渡し、力なく首を横に振った。

「正気の沙汰じゃない」


 窓辺から何か言いかけたカスピアを、セレイラは手で制した。

「私はミストラルの一員にするなんて言ってない。ただ、革命軍に入れてやるだけだ」

「僕が言いたいのはそういうことじゃない!」

 アローシャはセレイラに詰め寄った。カスピアはコーヒーを飲むのをやめ、二人のやりとりに口を挟もうか思案している。


 彼はカスピアに聞こえないほどの声で続けた。

「そもそも、彼女は本当に僕たちの味方になるつもりなの? 革命軍の中には、王制そのものを否定する動きもある。ミハイロフ王国と共謀して、この国を乗っ取ろうとしている奴だっている。革命軍だって一枚岩じゃないんだよ?」

 何も言い返さないセレイラに、彼は懇願するように言った。

「考え直してよ、セレイラ。彼女を見捨てたところで、君に害はないはずだ」


「私は彼女と契約した」

 セレイラは、それは覆せない事実であると譲らなかった。

「一度取り引きした相手を裏切るのは不義理だ。私は私の信条に反することはしない」

「好きにすればいい。でもそれは、スパイの信条に反している」

「スパイは契約を守る。あんたは違うのかい?」

 彼女にねじ伏せられ、アローシャは黙り込んだ。


 気まずい沈黙が、部屋を包み込んだ。

「それでも、僕は反対だ」

 そう言うと、彼は窓際に座るカスピアに向かって、吐き捨てるように言った。

「とにかく、僕はお前を革命軍に入れるなんてこと、絶対にしないからな!」

 困り顔のカスピアが口を開きかけた、その時だった。


 部屋のドアが開く音がして、三人は一斉に振り返った。


「あら。そんなことを貴方が決めてしまっていいのかしら?」

 殺伐とした部屋に、すらりとした長身の女性が入ってきた。セミロングの黒髪をサイドテールに結び、笑みを浮かべた唇からは八重歯が顔を覗かせる。


「エミリア、久しぶりだな」

 セレイラが明るい声で彼女の名を呼んだ。女性は目を輝かせ、つかつかとセレイラの元へ歩み寄った。

「セレイラ!お帰りなさい。無事に帰ってこられてよかった!」

 彼女の両腕の中で、セレイラは居心地悪そうにみじろぎした。

「離してくれ。殺す気か」

「もう、意地張っちゃって。素直になりなさいセレイラ」

「素直な気持ちで言ってるんだよ。離せってね」

 セレイラがやり返す。アローシャはにやりとして、両者の間に割って入った。

「まあまあ二人とも、こんなところで愛し合わなくても——」

 最後まで言い終えぬうちに、彼の頭には二人分の鉄槌が下っていた。




・III・


 エミリアはセレイラたちとともに任務に当たるチームメイトだ。セレイラのようにスパイの能力があるわけではないが、情報処理担当として集まったデータを分析する役目を担っている。セレイラたちよりも一回り年上の彼女は、チームのまとめ役としても頼りにされている。


「アローシャから任務成功の話は聞いたわ。文句のつけようがない大手柄ね」

 セレイラの紅茶を勝手に飲みながら、彼女は部屋の奥に佇むもう一つの人影に気がついたようだった。


「あら、お客さん?」

 スパイチームの一員らしからぬ悠長な反応に、アローシャは苦々しげに笑った。

「そんなところだね。残念ながら、私の任務はまだ成功していない」

 セレイラはそう言うと、ことの経緯いきさつを簡単に説明した。カスピアは、自分を置いて話が先に進んでいるのを、ただ黙って眺めていた。

「エミリアさんからも何か言って下さいよ。僕にはセレイラを止められません」

 アローシャは困り果てた様子で、彼女をすがるように見た。


「ふーん、そういうことね」

 事態をあらかた把握したエミリアは、カスピアと向かい合うようにして座った。

「それで、あなたが問題の志願兵さんってわけね」

 エミリアの言葉に、カスピアは悪戯っぽく笑った。

「そうみたいですね。お初にお目にかかります。カスピアといいます。よろしく」


 彼女が差し出した手を、エミリアはなんの躊躇もなく握った。

「エミリア・リースフェルト。名前で警戒しないで、ザクセンの生まれなの。よろしくね」

 二人は穏やかな面持ちで握手を交わした。彼女たちが肚のうちに何を思っているのか、セレイラたちにはわかりかねた。


 カスピアはセレイラに向かって言った。

「色々とありがとうセレイラ。話のわかりそうな人がいたから、あなたはもう大丈夫」

 隣でアローシャが拳を握りしめるのが、セレイラには分かった。

「やめとけアローシャ。エミリアなら、いいように話を収めてくれるだろ」

 彼女はそうなだめすかした。


 エミリアは妙な顔をした。その表情はすぐに、忍び笑いへと変わった。

「カスピアさんは私を勘違いしているようね。私は彼女たちの上司という訳ではないのよ。だから、私の独断で貴女をどうこうすることはできないわ。ごめんなさいね」

 カスピアは気を落とすようなそぶりは見せなかった。

「そうだったのね。じゃあわたしは、誰に頼めばいいの?」

「私の先輩に会ってみるといいわ。あなたが本当に信頼に足る人間なら、その人ならきっと分かってくれる。保証するわ」


「それがいい」

 セレイラも、エミリアの提案に賛同した。

「奴に取り次いでやってくれ。アローシャも、奴の決定なら文句はないだろ?」

 アローシャは不本意そうな顔をしていたが、反論はしなかった。


 エミリアの先輩というのは、あくまで表向きの関係性に過ぎない。『奴』の実際の立場は、セレイラたちのスパイチームを統括するリーダーだった。


「それにしてもあなた、肝が座っているのね。セレイラを脅すなんて、普通じゃないわ。末恐ろしい子ね」

 エミリアはカスピアを連れて部屋を後にしながら、彼女にそう言った。


 カスピアは眉間にシワを寄せ、藪から棒に声を荒らげた。

「まったく……どいつもこいつも!」

 突然怒りをあらわにしたカスピアに、三人は戸惑いを隠さなかった。彼女は全員の顔を見ながら言い張った。

「わたしは子供じゃないの! わたしの国では、もう立派な大人なんだから!」


 奇妙な空気が流れた。三人は互いに顔を見合わせた。


 静寂を破って、エミリアが吹き出した。彼女は駄々っ子をあやすように言った。

「ごめんなさい。うっかりしていたわ」

 カスピアはまだ、むすっとした表情を崩さなかった。アローシャはあきれ返って物も言えないような顔をした。


「タタール人、か……」

 セレイラはひとり、そう呟くのだった。

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