第3話 ワルシャワにて

・I・


 ワルシャワはレックランド王国の中西部、国土をエス字に縦貫するヴィスワ川のほとりにある。六百年の間、レックランドの都は南の町であるクラクフに置かれていた。しかし、南部の領土を失ったことで、防衛上の観点からワルシャワへと遷都を余儀なくされた。




 栗毛の軍馬が、ワルシャワの南東に開かれた門をくぐる。馬体は大きく、その背にまたがる二人の姿がより小さく見える。

「ここから先は歩いて進むよ。この馬は人目につきすぎる」

 セレイラが街の外れに馬を停めると、カスピアは口を尖らせた。

「えー、ちょっとぐらいいいじゃん」

「嫌ならあんただけ乗っていきな。私はどうなっても知らない」

「もう、つれないなぁ」


 彼女は石畳の上にひらりと着地すると、二週間ぶりの空気を肺いっぱいに吸い込んだ。黒海沿岸の湿った風とは違い、ワルシャワの大気はひんやりとしてすがやかだ。セレイラには、その方が好みだった。


 王都の街道を一歩ずつ踏み締める。

 革のブーツが地面をたたくコツコツという音とともに、昼下がりの喧騒が耳にまとわりつく。セレイラには、それが嬉しかった。通りが騒がしいのは、街が生きている証拠だ。彼女はワルシャワの町を愛していた。

 ここは一国の都である。行き交う人々は少なくなく、その装いも華やかだ。しかし、彼女には分かっていた。今のワルシャワには、以前のような活気も人口もない。町の中心部から一歩外に出れば、そこには孤児や物乞いのたむろする貧民街が広がっているということを。


「何が面白い」

 先ほどからニヨニヨと口許くちもとをひん曲げているカスピアに、セレイラは眉をひそめた。彼女は喜びの感情を隠すそぶりも見せずに答えた。

「だって……念願のワルシャワだもん」

「なにかえにしでも?」

「ううん。でもずっと、ここへ行きたかったの。それに、知らない町ってワクワクするものでしょ?」

 セレイラは答えなかった。


 彼女にとってこの街を出るということは、すなわち任務を意味する。どんな美しい町へ赴こうが、待ち受けているのは盗むべき機密であり、殺すべき標的ターゲットであり、また自分の命を狙う王党派の手先だ。そこに旅の喜びなどは皆無だった。


「とにかくお前は騒ぐな。革命軍に入る前に憲兵に捕まることになるぞ」

 初めて目にする景色に小躍りするカスピアを、セレイラは母親がするようにたしなめた。王のお膝元である以上、この街の有力者はほぼ全員が王党派。セレイラたち革命軍は、その素性を決して悟られないよう、偽の個人情報を頭に叩き込み、息を潜めて任務にあたるものだ。正体が露見してしまえば、待っているのは拷問と断頭台だけだ。


 二人は右手にヴィスワ川を望みながら、川沿いに作られた小径を歩いた。

「で、革命軍はどこにいるの?」

 カスピアは一刻も早く革命軍に入りたくてうずうずしていた。セレイラは、いましめるように人差し指を唇に当てた。

「その話も控えるように。それに、まだ革命軍に入れると決まったわけじゃない」

 彼女の言葉に、カスピアは真面目な顔つきになった。

「それ、どういうこと?」

「誤解するな。契約した以上、私も手引きはする。ただ、最終的にあんたの処遇を決めるのは私じゃない。そんな権限、私にはないからね」

 セレイラはただのスパイだ。それに、いかに革命軍が人手を欲しているとはいえ、素性の知れない子供を味方に引き入れる確証はどこにもなかった。


「それじゃあ、わたしはどこへ連れて行かれるわけ?」

 カスピアが首を傾げる。セレイラは少し迷ったあと、半径五十メートル以内に人の気配がないことを確認した上で答えた。

「ミストラル。革命軍の情報組織さ。私のようなスパイや暗殺者の元締めであり、私たちからもたらされた情報の処理や分析を一手に引き受ける」

「そんな後ろ暗い集団が、よりにもよってワルシャワにいるのね」

 カスピアは苦笑いを浮かべた。

「ああそうさ。そもそも、革命軍の本拠地はワルシャワじゃないんだ。体制に不満を持つ人間は、常に辺境から湧いてくるものさ」

との国境付近ってことだね?」

 セレイラは黙ってうなずいた。


「東? 西? それとも南?」

 カスピアは臆することもなくずけずけと訊いてくる。道でも尋ねるような気安さに、セレイラはうっかり口を割ってしまわぬよう細心の注意を払った。

「列強三国は炭田の確保に躍起になっている。”フロル機構”は大量の石炭を食うからね」

 彼女はそれ以上の説明をするつもりはなかった。カスピアは訳知り顔で鼻を鳴らしたが、セレイラの言葉の意味するところを察したかどうかは判らなかった。




・II・


 ワルシャワ王宮から北西に進むと、大きな広場に出た。

 旧市街広場と呼ばれるそれは、十四世紀ごろに形成された旧市街の心臓部だ。広場には巨大な市場が開かれ、買い物客でごった返している。セレイラは広場全体ををぐるりと取り囲む建物群を目指した。


「街のど真ん中にあるんだね」

 カスピアが感心したように言うと、セレイラは彼女を横目に見た。

「王党派の懐の方がむしろ潜り込みやすい。下手に貧民街でこそこそやると、憲兵の目にも付きやすいものだ」

「なるほどね……。でもよかった。わたし、シラミだらけの硬いベッドはもうごめんだもの」

 歩調は変えぬまま、セレイラは目を眇めた。カスピアの話はどうも引っかかる。彼女がどんな出自で、どうしてここにいるのか、謎は深まるばかりだ。

 あとで絶対に聞き出してやる。セレイラは密かにそう言い聞かせるのだった。

 そんな水先人の気苦労を知ってか知らずか、カスピアは上機嫌で宣った。

「あ、そうだ。飲むなら紅茶がいいかな。わたし、コーヒー苦手なの」


 薄暗い路地に入り込んだ二人を、呼び止める声がした。

「セレイラ」

 どこからともなく聞こえた声に、カスピアはあたりをぐるりと見回した。

 セレイラはその場で立ち止まり、左側にそびえる建物の壁を二回、一回、三回とノックした。

「今行く」

 やがて、壁の一部が奥に向かって開いた。隠し扉の影から、声の主は姿を現した。


 金髪の少年が立っていた。

 純白のシャツに膝丈のキュロットという出で立ちで、二人をいぶかしげに眺めている。目は大きく、頬の輪郭線は柔らかい。華奢な体格も相まって、少女のようにも見える。

「帰ったぞ。ほら」

 セレイラは革張りのアタッシュケースを少年に突き出した。


 少年はそれを両手で受け取ると、カスピアに視線を向けて眉をひそめた。

「その子は誰?」

 セレイラはさもありなん、という風に腰に手を当てた。カスピアに目で合図をすると、少年にも中に入るよう促した。

「話は後だ、アローシャ。こんなところで立ち話はするもんじゃない」

 アローシャと呼ばれた少年はまだ不服そうだったが、黙って彼女の言う通りにした。

 三人の姿が扉の中へ消えると、通りにはなんの変哲もない壁だけが残された。

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