第2話 契約

・I・


 セレイラは悪態をつきながら上体を起こした。


 尻餅をついているが、大した怪我ではない。ただ、全身がヒートアップしている。このままだと体が歪んでしまいそうだ。彼女は懐からジンジャーエールの小瓶を取り出し、それを口に含んだ。二口ほど飲むと、五体から熱がうしおのように引いていくのが分かった。


 ボロ屋の中には、勝ち誇った表情の少女がいた。彼女は小さなブーツでセレイラの腹を踏ん付けると、喉元に短剣を突きつけた。

「わたしの勝ちね」

 彼女の笑い声が、今のセレイラには不思議なほど心地よかった。


「目的はなんだ」

 セレイラは一言、そう言った。本心から出た言葉だった。少女の声には、誰かを殺そうとする人間に特有の殺意や緊迫感が感じられない。セレイラには分かった。そのような人間は、最初から殺すつもりがないか、よほど殺しに慣れているかのどちらかだ。


 少女は愉快そうに口の端を吊り上げた。

「へえ、命乞いしないんだ」

 セレイラは言い返そうとして言葉に窮した。人の生き死には宿命だ。抗ったところでどうこうできるものではない。この仕事に身を捧げると決めた時から、セレイラはその事実に折り合いをつけてきた。


 それに。


「ああ。私なんて、使い捨ての歯車のようなものだからな」

 いつ命を投げ出そうが、惜しくもなんともなかった。

 だから、目の前に死を突きつけられても、恐怖は微塵も感じなかった。


 馬のいななきや鉄の擦れる音が、遠くから聞こえてきた。少女はボロ屋の窓から外を眺め、半ば独り言のように言った。

「ここが見つかるのも時間の問題みたいね」

「あんたの仕業か?」

 セレイラは瓦礫だらけの床に寝そべったまま尋ねた。少女は剣を突きつけたまま、彼女の腰からピストルを抜き取った。まるでそこにあるのを知っていたかのようだった。

「違うよ。わたしはここの憲兵とは関係ないもの」

「じゃあ何だ。どうして私の名前を知っている」

 セレイラは声に鋭さを忍ばせた。


 少女は短剣をしまうと、その場にしゃがみ込んだ。

「取り引きだよ」

 少女は言った。彼女はぽかんとするセレイラの髪の毛を引っ張った。

「なっ……やめろ!」

 セレイラはとっさに少女の手首を掴んだが、遅かった。


 黒い巻き毛のウィッグがとれ、中から銀河系のように眩い銀髪があらわになった。

「『ワルシャワの死神』。レックランド王国革命軍のエーススパイにして暗殺者」

 少女の声が無機質に響く。事実を並べただけの言葉が、セレイラには胸を抉られるように感じられた。

 少女は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、有無を言わさぬ口調で告げた。




「要求は一つよ。わたしを革命軍に入れて」




・II・


 セレイラの生まれ故郷であるレックランド王国では、現行の王を支持する王党派と、王の交代を望む革命軍が対立のさなかにある。

 そして彼女は、革命軍に与する協力者。すなわち、少女の要求はセレイラの味方になることに等しい。


「理由を訊こうか」

 彼女はつとめて平静を装っていた。憲兵たちはすぐそこまで迫っていた。

「説明してる暇はないの」

 少女はしゃなりと立ち上がると、掌をパンパンと払った。

「貴女の存在をセヴァストーポリの憲兵に密告したのは私。でも、その正体までは言ってないわ。革命軍の回し者がクリミア公国にいるなんて、バレたら国際問題になるから」


 殴りかかりたい衝動を必死に堪えながら、セレイラは黙って話を聞いていた。

「わたしをワルシャワまで連れて行ってくれるなら、逃亡の手助けぐらいお安い御用。さもなくば貴女の秘密、全部ばらしちゃうから」

「今ここで、あんたを殺すこともできる」

 セレイラは床に散乱した瓦礫の一つを手にとり、声をひそめた。少女は腕組みをして、ため息をついた。

「確かに、殺せないこともないと思うけど。それは時間がたっぷりあればの話」


 少女の声をかき消すように、号砲が響き渡った。出港の合図だ。


 ボロ屋のドアを蹴破って、憲兵たちが進入してきた。


「動くな!」

 隊列の先頭に立つ男が、低い声で凄んだ。


「見つけたぞ、銀髪のスパイだ!」

「捕らえろ!」

「油断するな、すでに何人かやられてるんだ」

 マスケット銃を構え、口々に叫ぶ。照準はセレイラに向けられた。


 少女は腰に剣を差し、セレイラから奪ったピストルを両手に握っている。その表情は穏やかだ。

 セレイラはゆっくりと目を閉じ、心を落ち着かせた。そして、自らを取り巻く状況を一つ一つ、胸の内で反芻した。


 周りには憲兵。

 ノアの方舟オデッサ行きの石炭船は残すところ数分で出航。

 武器は奪われ、身体の状態は万全とは言い難い。

 そして、目の前にはたった一つの脱出口が、優しい眼差しでこちらを見つめている。


 とるべき選択肢は、すでに決まっていた。

 

 セレイラは肺の空気を全て吐き出すと、意を決して立ち上がった。

「わかったよ。あんたの勝ちだ、お嬢さん」




・III・


 潮風が髪にまとわりつき、ベタベタと嫌な手触りになる。

 夜の海はタールのように真っ暗で、このまま世界の終焉に向かって吸い込まれていくような錯覚を与える。


「セレイラ」

 肩で息をしながら、少女はもう一人の少女の名を呼んだ。


「何だ」

 セレイラは遠ざかってゆく埠頭に視線をやりながら答えた。石畳の埠頭には、乗りつぶされた軍馬とぐちゃぐちゃになった憲兵たちが横たわっていた。


 二人の共闘に太刀打ちできる者は、セヴァストーポリには存在しなかった。


「わたしたち、結構息ピッタリじゃなかった?」

 少女の言葉に、セレイラは肩をすくめた。知る由もないことだった。ただ、これほどまでにスリルを感じたのは久方ぶりだった。

「断言するよ。あんたといると、私は碌な目に合わない」

 彼女の言葉に、少女は面白おかしそうに笑った。


「それで、あんたの名前は?私はなんと呼べばいい?」

 セレイラは思い出したように言った。

 少女は、ようやくその質問がきた、とばかりに顔をほころばせた。人懐っこい眼差しを銀髪の少女に向け、彼女は自分の名前をついに口にした。


「カスピア。カスピアって呼んで」


 聴き慣れない響きだった。

 セレイラがその感想を口にすると、カスピアなぜか嬉しそうだった。

 夜の帳に覆われた甲板に、静かな笑い声がそよいだ。

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