甘いお菓子と漆黒の狼
「くっ……!」
リビングにあるテーブルに飛び乗り滑って向かい側へ移動、背後からは砂糖の匂いがする杖が投擲され、一本目は床を貫通、二本目はグレイルの顔をスレスレに横切った。
すぐさま横の扉をくぐるとキッチンに訪れる、急いで身を隠そうと鼻で低い位置にある戸を開け中に潜る。
「一体何が起きてるんだ、あの黒い人間は何なんだ! うおっ!?」
狭い空間に無理矢理身体をねじ込もうとすると、戸が開かれ尻尾を強い力で引っ張られる。
すかさず尻尾を掴む主の腕を牙で穿つ。
「なっ!?」
グレイルは再び驚いた。口の中に懐かしい味が広がったから、しかも、噛んだはずの腕は乾燥した枯れ葉の様に容易く粉砕され、床に破片となってこぼれ落ちる。
人間の腕はこうも脆かったか、と疑問を浮かべた瞬間、腹部に衝撃が走り壁までぶっ飛んだ。
「がはっ! げほっ!」
人の姿に代わり腹を抑え、さっきまでいた位置を見る。
そこには全身茶色いの人形が膝らしきものを突き出した姿で硬直していた。
腕からはポロポロと何か塵のような物がこぼれ落ちている。
最初は血だと思った、血の匂いがしないことと口に含んだ風味が甘いことにグレイルはその正体を凝視する。
「クッ……キー、なのか?」
レティリエが焼いてくれた焼き菓子の味。グレイルは信じられないという表情で、自分とほぼ同じ大きさの焼き菓子人形を見やる。
焼き菓子人形がゆっくりと足を着ける、丸みを帯びた足は器用に床の上に立ち、のっぺらぼうな顔をこちらに向けた。
グレイルは全身の筋肉を強張らせる、顔は無いのに肺を押しつぶような重圧が甘い匂いに紛れて漂う。
「まさか、焼き菓子を狩るときが来るなんてな」
グレイルは口の端をやや自嘲気味に吊り上げた。狼が焼き菓子に投げられるなんて、例え夢でもあってはならない。
雄が強さを追い求めるのは、仲間を守るためであり、大切な人を守り続けるための誇りでもあるからだ。
グレイルは人の姿のまま焼き菓子人形の脇に迫る。身体は脆く、両腕を無くしている獲物の隙は大きいと判断しての突進。
「うおおおっ!」
人形は蹴り上げる動作を見せるが、その前にグレイルが身体にしがみついた、そのまま壁に激突すると人形の頭がポロリとこぼれる、しかし、まだ両足に力があるのを確認したグレイルは一歩下がると狼に変わり、両足に牙を立てる。
切断された両足はただの残骸へと変わり、グレイルは捕らえた事を決定づけるため頭があった箇所に噛み付いた。
「思った以上に弱かったな……」
歯型が付いた焼き菓子を人の姿でじっと見つめる。
これは一体……。
「甘い」
「なっ!」
気配がしたのと同時にグレイルは横に飛んだ。元々いた場所に艶のある透明な何かが鞭の様に飛んで来ると、床にくっついて固まり支柱のようになった。
そして、伸ばされた方角から男がそれを掴んで滑り落ちてくる。
グレイルは再びキッチンに逃げ込む。
バンッ! と突然岩が叩きつけられるような音が背後から轟き、茶色い液体が流し台から溢れ出る。ドワーフの村で嗅いだ火薬の様な匂いが背後から漂い転回すると、線の細い黒尽くめの男が無表情で見たことのない道具の口をこちらに向けていた。
「な、何だ今のは!」
「捕獲成功」
「何を言ってる」
「お前の背後から噴き上がってるのはコーティングチョコレートだ」
「はっ?」
身体にかかってるこの液体のことだろう。だが、それがどうしたとグレイルは構える、軸はブレず視線は真っ直ぐこちらを見据えている。
狼の動体視力でなら見切って反撃できるかもしれない。
拳を握る。
「……うっ!」
「時間が経ったか」
「これは……」
身体が動かない、動かそうとする度に表面の茶色い物体がまとわり付き重くなる。
「さて……」
黒い男は半透明な流し台に手をかざした。一体何の真似かと動かない頭で男を睨みつける、不意に、真横からくねくねと半透明の液体が生き物の様に蠢き通り抜け、やがて男のかざした手の中に収まる。
それは留まるだけでなく何かへと変貌する。
針の様に長くなり、氷柱のような棘は紙のように薄く並ぶ。
ノコギリだ。
「何しに来た」
甘い香りの刃が首筋に当てられる。
「子ヤギを、助けに来た」
「なら問いを変える。何故助けに来た?」
ギザギザとした刃が首筋を滑る。抵抗し威嚇するも、男は微動だにしない。
「レティを……、愛する人を助けるためだ!」
「……」
刃は引かれなかった、冷たい半透明なノコギリはそのままに黒い男は立ち止まった。
グレイルは反撃を試みるのと同時に、初めて男を観察した。
黒いと印象付けていたのは、光沢のない貴族が着そうな上着とズボン、上着の奥には白い布が見える。両手には白い粉が付いた黒い手袋をしている。ほとんど黒ずくめだ。
男の顔は凍り付いたかのように無表情で、瞳からは恐ろしい程殺気が漂ってこない。
まるで、精巧に作られた人形に死神の衣装を着せたような、そんな印象。
「お前、ストーリーテラーなのか」
抑揚のない声がボソリと耳に届く。
「そんなのは知らない! 俺はただ、カボチャと約束しただけだ」
「カボチャ……、なるほどな、
「くっ!」
刃が振るわれる。そして、茶色い物体がこぼれ落ちた。
「子ヤギは置き時計の中にいる。探して連れて行け」
身体が自由になった事に驚いていると、男はそれだけ言って背を向け歩いていく。
「待てッ!」
「何だ?」
「どういう、つもりだ……」
「お前が任務の邪魔にならないことが分かった、それだけだ」
男が通路を曲がるのを見て追いかける。
しかし、男の姿はすでに無く、あるのは子ヤギの泣く声だけだった。
□■□■□
「ヒッホッホ! ありがとうなグレグレの旦那! これでオレっち自由だぜ!」
「そうか、それは良かった」
あの後、黒ずくめの男が言った通り子ヤギは置き時計の中で丸まって隠れていた。
泣きじゃくる子ヤギに母が家の外で待っていることを伝えると、何とか後ろを付いてきてくれる程には元気を出してくれて、母の元に引き合わせる事が出来た。
「にしても、随分とやられちまったみたいだな、一体誰にやられたんだか。ま! オレちゃんには関係ないけど!」
カボチャが喜ぶ様に空中をぐるぐると回って地に着地する。変わった笑い声こそ上げているが、カボチャの中身は覗えない。
「俺を捕まえた時、ストーリーテラーがどうとか聞いてきた」
「ほう、なるほどな」
立ち止まると、何か考えるような素振りを見せた。くり抜かれた陽気な表情とは真逆の静かな時間が数秒流れる。
「ま、グレグレには関係ない話だぜ、気にすんな」
両手を広げおもむろに両肩を落とす。何となく勘に触ったのを両目を深く閉じることでやり過ごすと、大きないびきが届く。
「まだ寝てたのか」
大の字で眠る狼を見た。よっぽど狩りが上手く行ったのかまだ寝ている。
「それが仕事みたいなものだからな、あいつ」
この土地の狼はあれが一般なのだろうか、グレイルは何となく心配そうな眼差しで狼を見やった。
「さて旦那、レティ……りえ? だっけ? 場所まで案内するぜ」
「すまないが、大急ぎで頼む」
「おいおい慌てんなよ、慌てると、そこらのカボチャに足掬われるぜ」
「……、ところで、どうしてあの狼を見張ってたんだ」
「あん? んなの、暇だったからに決まってるだろ、ヒホホ!」
「……、さっきの忠告、肝に銘じておく」
グレイルは狼の姿でカボチャの灯りを追いかけた。
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