第50話 秋晴れの旅立ち

 息を切らして走った。


 途中で出会う顔をひとりひとり確認しながら、路面電車沿いの大通りを夢中で走った。


「てっぽうの匠」という通り名は伊達ではなかったらしい。全く気が付かなかった。迂闊だった。確かにあの背格好は間違いなく匠、もとい敬介のものだったのに。





 電停のそばで、学生服の中学生たちに囲まれた。顔を覗き込まれたことが気に食わなかったらしい。私は彼らに挟まれ、路地裏へ引きずられていった。


「人の顔をジロジロ見るとは、よく礼儀をわきまえてるじゃねぇか。その調子で挨拶してみな」


 ここは左右を長屋の壁に阻まれた狭い隙間で、人はめったに通らない。体格のいい男子中学生3人に凄まれ、恐ろしくて声が出ない。


「よぉチビ、後学のために教えてやろう。挨拶ってのはこうやるんだぜ」

 

 リーダー格の男が顎をしゃくると同時に、目つきの悪い男に背後から羽交い絞めにされた。逃れようともがくも虚しく、腹めがけて鉄拳が1発、2発。吐き気とともにうめき声が漏れる。拘束が解かれると立っていられなくなり、膝をついてうずくまった。上から3つの残忍な嘲笑が降って来る。最悪の日だ。次の攻撃に備えて頭を腕で覆い、体を固くする。


 そのとき、遠くから大声が聞こえた。


「おい、高橋が来てるぞ!」


 私を囲んでいた3人組は、それを聞くや否や「クソッ」「憶えてろ」などと言い捨て、慌てて退散していった。


 痛む腹を抑え、汚れた壁を支えに何とか立ち上がったとき、さっきの声の主が近寄って声を掛けてきた。


「高橋っていうらしい。そこの中学校の名物鬼教師」


 懐かしい声に目の前が曇った。振り返ると、学帽の少年が立っていた。顎下の傷跡がまだ生々しい。


「匠……いや、敬介……」


 彼を探していたというのに、いざ目前にすると、何と言って良いか分からなかった。嬉しくてたまらない気持ちと、こんな情けない姿を見られて悔しい気持ちでいっぱいになった。


 私の顔を見るなり、敬介の表情が曇った。


「アイツら、泣くほど痛めつけやがったのか。腹、かなり痛むか?」


 涙目の理由を勘違いしている敬介に、私は八つ当たりした。


「そうだよ。キミのせいだ。こんな煩わしい現れ方をして、格好つけるのも大概にしてくれ」


 敬介はすまなそうに言った。


「悪かったよ。本当は会わずに行くつもりだった。お尋ね者と会ってるのが知られたらオマエに迷惑がかかる。まさかオマエがこんなにすぐに気付いて追いかけて来ると思わなかったんだ。ここにはもう長居できない」


 敬介はすぐに発たなくてはならなかったのに、私はちっとも素直ではなかった。素直になれば、きっと無様に嗚咽してしまっただろう。


「見くびられたもんだよ。で、どこで僕を見つけた?」


「電停だ。チンチン電車を待ってたら、史人が物凄い顔をして走って来るじゃないか。心臓が止まるところだったぜ。しかも年上に絡まれてるしさ」


 電停というのは、路面電車の停留所のことだ。

 自分がひどく間抜けに思えて恥ずかしくなり、私はさらに虚勢を張った。


「そんなことよりその学帽、まさか盗んだんじゃないだろうな?」


「これは矢田部さんが……」と敬介は言いかけたが、口をつぐんだ。そして頭を掻き、「実はそうなんだ」と笑った。


「軒先に吊るしてあったのを、ちょっとな。用も済んだし、もう返しに行くよ」


 嘘だとすぐに分かった。状況や敬介の性格を考えるに、今こんなことを言う理由はひとつだ。湿っぽい言葉を避けているのだ。


「早く返しに行けよ。ここで待っていてやるから」


 私がそう言うと、敬介は「了解」と笑い、背を向けて歩き始めた。後ろ姿が別れを告げていた。


 彼に訊きたいことはごまんとあった。今どこにいるのか。妹には会えたのか。勲とリリーはどうしているのか。なぜ今日、私の前に姿を現したのか。なぜ財布をスッて返したのか。


 敬介の背中はすべての問いを拒否していた。


 長屋の角を曲がって消える直前、私は最後の言葉を投げ掛けた。


「ずっと元気でな」


 敬介は振り返ってニヤッと笑った。


「史人もな」


 そう言い残し、彼は私の視界から姿を消した。

 私は名残惜しさを押し込め、回れ右して歩き始めた。路地を縫い、学校へ向かう。


 大通りの方から路面電車の発車ベルが鳴り響き、ガタンッと動き出す音が聞こえてきた。


 不意に、兄弟のように過ごした日々が走馬灯のように頭を駆け巡った。

 言葉には限界がある。胸にあふれる幾千幾万の気持ちを伝え切ることはできない。だから、別れの言葉はそれだけでよかった。

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