第13章 宝物

第49話 台風のあと

 8月31日。私たちの移送の日だったが、延期になった。大型台風が到来したからだ。連合国軍駐在時、台風は英語の女性名で呼ばれた。その台風もキティと名付けられた。


 その日は朝から酷い風雨だった。


 17時、高潮の時間に小田原から本土上陸したキティ台風は、民家の屋根を剥がし、看板を吹き飛ばし、川を溢れさせた。そしてそのまま北上し、翌日には日本海へ抜けた。


 私たちがいた江東方面では荒川が氾濫し、7万戸が床上浸水した。


 養護施設『しあわせの村』も浸水した。

 周辺の道路は私の胸の高さまで冠水し、道路の上に舟が通った。


 台風が去ってからの数日間、保護児たちは指導員と共に、2階の部屋でギュウギュウになって眠り、昼間も外に出られなかった。


 3〜4日が過ぎると、汚水が溢れたせいで赤痢が蔓延し、バタバタと腹痛に倒れる仲間たちの看病に追われ始めた。


 弱ったことには、指導員の佐々木と田辺までもが次々と倒れたのだ。私たち保護児は、普段の恨みを晴らすべきかと話し合ったが、結局献身的に看病することになった。


 水が引くまでに10日を要し、そのあと保護児たちは総動員で消毒や片付けに駆り出された。


 結局、9月半ばを過ぎるまで、施設側には私たちを移送する余裕は全くなかったのだ。


 その頃になると、やっと学校が再開した。正確には2学期が始まった。

 それと同時に、佐々木と田辺の体調も徐々に良くなり、私の移送の日取りが再度決まった。



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


 

 その朝、私は紙製のランドセルを背負い、すっかり秋めいた大通りをひとりで歩いていた。雲ひとつない青空の下、路面電車沿いの通学路にはまだ台風の爪痕が色濃く残っていた。


 浸水被害で出た大量のゴミが路傍に寄せられて並び、道を狭めていた。そんな人間の事情などお構いなしに、木々の葉は色づき始めている。


 反対方向に中学校があるので、学生服、セーラー服の人たちとしょっちゅうすれ違う。制服を流されたのか、私服登校する生徒もいる。


 自転車の後ろに大カゴを乗せた青年が「新鮮なアサリだよ〜!」と快活な声を張り上げながら私の前を横切って行った。


 皆、日常を取り戻そうと努力している。




 小学校では運動会に向けた準備や練習が始まっていたが、全く身が入らなかった。この日を境に、学校を去ることになったからだ。


 私は山手にある生家に戻ることになった。施設から荷物は既に送ってあり、この日の午後には両親が学校に挨拶に来て、そのまま家に戻る予定だった。決めたのは父だ。「運動会が終わるまではここにいたい」という私の希望は、例によって通らなかった。


 街路樹を見上げながら、「それでもいい」と思った。長年の習慣はそう簡単には変わらない。少しずつ話をしていけばいい。決して屈しはしない。もしダメなら、また出て行けばいい。


 ブギと今村は、移送先の施設の被害が大きかったため、もうしばらく『しあわせの村』に留まることになった。その日も元気よく、始業1時間前に朝練に出掛けていった。


 私は始業ギリギリに着くように施設を出て、重い足取りで最後の教室へ向かっていた。


 路面電車沿いの通学路は慣れ親しんだ場所だったが、今は見慣れぬ光景が広がっている。これが最後の風景なのだと思うと、何だか寂しい気がした。



 そうやって脇見しながら歩いていると、前から来た人にぶつかった。私服だが、学帽を被っているから中学生だとわかる。急いで謝り、私はまた歩き出した。


 程なく、背後からトントンと肩を叩かれた。振り返ると、セーラー服の女子学生が私の財布を持って立っていた。


「ウチの中学の生徒が拾ったの。アナタに返しておいてほしいって頼まれて。でも、学校にお財布を持ってっちゃダメじゃない」


 私は驚いて懐を確認した。確かに無い。でも、これまで財布を落としたことは一度も無かった。落としたなら気がつくはずだ。


 息を呑んだ。思い出したのだ。アイツが「てっぽう」の名人だということに。


「財布を拾った人、今はどこに?」


 そう尋ねた私の目は、ギラギラと血走っていたかもしれない。女子学生は引き気味に、「先へ歩いて行ったわ」と答えた。


 私は、もと来た道を引き返して走った。息を切らして走った。アイツがすぐ近くに来ている。

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