第48話 前進

 養護施設『しあわせの村』の施設長室は、玄関から延びる廊下を突き当たりまで進んだところの、1番奥にある和室だ。私が呼ばれたのはそこだった。


 許可を得て襖を開けると、部屋全体が夕焼けの色に染まっていた。障子の開いた窓から差す夕日が、箪笥たんすの上に飾られている賞状を照らしていた。施設長が区から表彰されたときのものだ。


 長方形の古びたちゃぶ台を挟んで、施設長と両親が座っていた。両親は、いかにも養護施設にそぐわない小綺麗な洋装をしていた。


 そしてその隣で、同じく小綺麗な幼児服に身を包んで遊んでいる男の子は、弟の健だ。しばらく見ないうちに大きくなっていて、時の流れを感じた。


「史人……」


 懐かしい母が駆け寄って来て、私を抱きしめた。母はすぐに体を離すと、私の目を見て両肩を揺さぶった。今にも泣き出しそうな顔だ。


「どうして危険なことをしたの。みんなが心配するって、どうしてわからないの?」


 母の言う「どうして」はいつも、理由を尋ねていると言うより謝罪を要求している。私には謝ることが出来なかった。謝るのだけは、絶対に嫌だった。


「あなたって子は……」


 涙ぐむ母に返す言葉もなく、私はただ立ち尽くすしか出来ない無力な子供だった。


 助け舟を出したのは父だ。


「まあお母さん、落ち着くんだ。史人、座りなさい」


 私は施設長の隣、下座の潰れた座布団の上に座った。茶を出す余裕が無いのだろう、卓の上には白湯が出されている。


 父が言った。


「史人、思うところはあるだろうが、まずは謝りなさい。お前が悪い連中とつるんでみなさんに心配をかけたということだけは、事実なのだから」


「誰が心配したの」

 私は言った。


「僕は今日も漫画を描いていたし、さっきもお父さんたちの言う『悪い連中』とつるんでいた。僕を変えようとしても無駄だ。そんな僕を、お父さんとお母さんは心配なんかしたの?」


 父は不快そうに眉をひそめた。母は泣き腫らした目をハンカチで覆った。それでも私はやめなかった。


「心配したならもっと早く来るでしょう。もう2週間だ。誤魔化してもわかってるよ。でもいいんだ。僕は……」


 私はハッとして、喋るのをやめた。


――そうやって最初から諦めて来たんじゃないのか――


 脳裏に、今はどこにいるかも分からない親友の言葉がこだました。


――お父さんとお母さんは、オマエを分かってないだけだ――


 親友は、私のように意地を張ることが無かった。自分が悪くないときでさえ、一歩引くことが出来た。常に和を重んじる、それが彼の強さだった。それに比べて自分は何だろう。


 急に黙り込んだ私に、父が言った。


「すぐに来られなかったのは悪かった。お父さんは急な仕事が入り、お母さんも遠方に抜けられない法事があった。でも、だからってお前を心配しなかったという訳じゃないぞ」


「お父さん、お母さん。……ごめんなさい。健も……あのとき、痛かったよな。ごめんなさい」


 今までずっと言えなかった言葉が、私の口からツルッと出て来た。


 あまりに急だったので、両親は目を皿にした。弟は訳がわからないようだ。私が彼に怪我をさせたのは赤ん坊の頃のことで、もう憶えていないのだろう。


 私は両親の顔を交互に見ながら言った。


「今すぐって訳にはいかないけど、いつか僕の話を聞いてください。僕にはかけがえのない友達がいて、黄金みたいな思い出があるんです。……でも、今回はご心配をおかけしました」


 私は両親に頭を下げると、立ち上がって回れ右し、襖の引手に手をかけた。


「史人」


 母が後ろから声をかけてきた。鼻声だ。


「大きくなって……」


 振り向くと、母は泣きながらそう言った。私は黙って母を見つめた。


「史人」と、父も私を呼んだ。


「帰りたくなったら、いつでも帰って来なさい。お母さんが部屋をそのままにしていてくれている」


 私は頷くと、部屋を出た。


 両手に拳を握り、暗い廊下を早足で歩いた。ズンズンと前に進みながら、不思議と涙が溢れ出していた。

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