第41話 てっぽうの匠
青森の母方の親戚が「百合子だけなら」と引き取って行った後、匠は孤児院『茨木寮』に入った。
鉄格子のついた大部屋で、脱走防止のために南京錠が掛けられていた。布団はなく、夜はコンクリートの床に雑魚寝させられた。
食べるものも不十分で、週に1度は誰かが飢えや病気で死んだ。病気の子が垂れ流した尿便や吐瀉物の掃除は、孤児たちが素手でさせられ、感染が広がった。
匠はそこで、また村八分にされることを恐れて本名を明かさなかった。大部屋の壁に貼ってあった標語から1文字とって、「匠」と名乗った。
ここにずっといたら、自分もいつか死ぬのではないか。匠はそう思った。そしてそれはみな同じだった。
ある暑い日の午後、孤児院の職員たちは、何故かみな意気消沈していた。その隙を突き、2人の仲間と共に脱走を果たした。それはちょうど終戦の日だった。仲間の名はそれぞれ、力蔵、義一といった。
「東京のノガミでは才覚次第で白い飯をたんと食える」という当てにならない噂を頼りに、3人で汽車に乗り込んだ。
いざ上野に降り立ったとき、その浮浪者の多さに恐怖を感じたという。雨風をしのげる地下道はフケまみれの浮浪者でごった返し、尿便を垂れ流す者もいたため、不衛生を極めていた。毎日のように瘦せこけた遺体を目にした。上野もまた、死と隣り合わせの地獄であることに変わりなかった。
匠たち3人は、ある陽気な米兵と仲良くなり、もらった靴墨で靴磨きの商売を始めた。進駐軍の靴墨は品質が良く、3人の靴磨きは繁盛した。匠が少し英語を扱えるのは、このときに学んだからだという。
しかし、それも長くは続かなかった。
3人は、多勢の不良少年達に囲まれ、「シマを荒らした」として袋叩きに遭った。余所者の商売が繁盛することは、彼等の食い扶持に大きく影響するため、死活問題だったのだ。
こうして3人は、金銭、商売道具、商売場所を全て奪われてしまった。
その頃には、力になってくれた米兵も異動して姿を消していた。
3人は一気に飢えた。商売を始める元手も無く、ゴミを漁って食べ物を探す日々だった。
寒風吹きさらす12月、服にはいくつも穴が空き、裸足なので霜焼けだらけになり、しょっちゅうガラスで足を切った。3人とも痩せて、
ある凍えるような朝、いつものように地下道で目覚めると、力蔵が冷たくなっていた。
少し前から、彼は病気で身体に水が溜まり、腹は膨れて顔面も醜く変形していた。その病気は、栄養失調から来るものだった。
匠と義一は力蔵の遺体を抱きしめ、何時間もさすって温めようとした。無駄だと悟ったとき、自分たちがこれから行く運命を見ているように思われ、茫然とした。
そんなとき、2人に声を掛けた男がいた。彼は、痩せこけた匠と義一を食堂に連れて行き、残飯シチューを食べさせてくれた。匠と義一は、ガツガツと無心で食べた。
男は翌日も、その翌日も、2人の寝床のそばに現れ、うどんや雑炊を食べさせてくれた。彼の恩義に報いたいと申し出たのは、匠たちの方からだった。
その男、安田十兵衛はヤクザの舎弟頭だった。匠と義一は、闇米の買い付けや食券の高額転売を手伝わされた。その間、何度も危険な目に遭った。
一方で、十兵衛は「馬鹿のままじゃあ、生きていけねぇよ」と、熱心に勉強を教えてくれたという。浮浪児だった期間が長い割に学業成績が良いのは、そういう理由だそうだ。
十兵衛は気性が荒く、2人が仕事に失敗すると、革ベルトで折檻した。一方、成功すると2人を良く褒め、駄賃をくれた。十兵衛は2人の身の上に同情し、家に泊めてくれた。匠は、屋根のある部屋で眠れること、食べ物に困らないこと、勉強が出来ることに感動したという。
殊に十兵衛は匠を可愛がり、重用した。
失敗すれば打ち据えられたが、そのあとに必ず煙草を分けてくれた。
「厳しくするのはオマエのためなんだぞ」と言いながら、火をつけてくれた。
ある夜、十兵衛の様子がいつもと違った。暗く沈んでいる十兵衛に、匠は恐る恐る声をかけた。
2人は4畳半の畳の上で、たばこを片手に語り合った。
十兵衛の母親の葬儀の日だった。極道の彼は実家に入れてもらえず、塩を撒かれたそうだ。
「実家なんかろくなもんじゃねえな。」
十兵衛は煙を吐きながらそう言い、匠に訊ねた。
「オマエの親はどんなだった?」
匠は十兵衛を信頼し、「父が戦争犯罪人だ」と打ち明けた。しゃべるうちに止まらなくなり、これまで父のせいでどんな目に遭ったか、泣きながらすべて話した。十兵衛は匠の背中をさすり、「そんな親は忘れちまいな」と優しく微笑んだ。
そして、翌日には新しい戸籍を作ってくれた。こうして「本庄匠」が誕生した。
十兵衛は「俺を本当の親だと思いな」と言った。匠は十兵衛を父と慕い、「この人にどこまでもついていこう」と心に誓った。実父の存在など無かったことにして。
十兵衛に教わった様々な犯罪の中で、匠が特に頭角を表したものが「てっぽう」、いわゆる、人にぶつかった隙に財布を掠め取るスリの技術だった。
ナタ斬り(通行人の鞄を裂いて中身を奪って逃げるスリの技術)を得意とする勝四郎と並んで、「ナタ斬りの勝、てっぽうの匠」と通り名がつくほどだった。
勝四郎も匠も、それぞれ自分のシマを持ち、各々の仲間と協力してスリを行うようになっていった。2人はライバル関係で、盗んだ財布の数を競うこともあったという。
毎日十数人から掠め取った財布を十兵衛に届けると、十兵衛はその中から抜いた金の一部を匠に駄賃として手渡した。「ありがとな、お前は天才だ」と、頭を撫でてくれた。
匠はその金で食べ物を買い、自分を慕って付いてくる年下の浮浪児仲間達に分け与えて生活していた。
私にその話をするとき、匠は楽しそうだった。私は嫌悪感を覚えた。ヤクザに都合よく利用されて尻尾を振る匠なんて、想像したくなかった。
そんな私の様子に気が付き、匠は恥じ入るように背中を丸め、そっぽを向いて呟いた。
「いいよ、どうせ史人にはわからないから」
その通りだと思った途端、ふと寂しくなった。
このとき、自分が匠に兄の面影を重ねていたことに気が付いた。例え罪を犯していても、本来の匠は清廉潔白なのだと信じていた。しかし、それは間違いだった。目の前にいる少年は、兄とは似ても似つかない。私には理解の及ばない人間だった。
それでも……。
昨夜、匠は私に「らしくない」と言った。
赤ん坊の弟に怪我を負わせたと語った私に「理由があったんだろう」と、迷わずそう訊ねた。
例え理解できずとも、ただ1つ、私たちの関係性で出来ることがあった。それは、匠が私にしてくれたことでもあった。
俯く匠に、私は言った。
「僕には君を非難できない。非難出来るヤツなんかいない。もしいたら、そんなヤツには犬の糞を投げつけてやる。だけど匠、君自身はどうだ? 考えたことはあるだろ、それがどんなお金だったか。盗られた人やその子供は飢えて死んだかもしれないんだぞ。それなのに君に
匠は、痛いところを突かれたという顔をして黙り込んだ。そして少ししてから、私の方を向き、縋るように呟いた。
「やっと見つけた居場所だった」
匠は語を継いだ。
「衣食足りないのは辛かったけど、人間扱いされないことはもっと辛かった。どこへ行っても『野良犬』『ウジ虫』『ゴミ』と呼ばれて追い払われた。オレはゴミだった。社会のゴミ。でもあの人は、オレの汚い頭を撫でてくれた……やっていることが犯罪だとしても、別に良かった。誰かが傷ついても、死んでも、あの人を失うくらいなら……。わかってるさ、間違いだった。でも……」
そのとき一瞬、ほんの一瞬だけ、過去の私と匠が重なった。
『しあわせの村』に来る前の記憶だ。突如として湧いてくる抑えきれない怒り。私の衝動のために割れる窓や石板。周りの人たちの奇異な視線。
匠たちと出会うまで、誰といても私はひとりだった。
匠は眉間に皺を寄せて続けた。
「罪悪感には蓋をするしかない。そうしなきゃ生きていけなかった。どうすれば良かったんだ? 力蔵みたいに死ねばよかったのか? ……そうかもな。そうかもしれない」
「馬鹿言えよ」
――匠がいたから、僕は暴れなくて良くなった――
――僕を泥沼から救い出してくれたじゃないか――
――君はゴミなんかじゃない――
――僕はまだ君に何も返せていない――
伝えたいことが上手く言葉にならなかった。声になったのは、これだけだった。
「君に会えてよかった」
匠は膝を抱えて涕泣した。
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