第36話 鷹取誠司

 独房から解放されて数日が過ぎた夜、勲は歩哨に立っていた。


 のどかな月が田畑をボンヤリと映し出す。もうすぐ満月になるという明るい夜だった。


 遥か遠くの海の音さえ聞こえてきそうな静寂の中で、勲はぼんやりと地面に目を向けていた。疲弊した表情で探しているのは、蛇だ。蛇をその場で捌いて食べることも、その頃には難なく出来るようになっていた。飢えて生気を失った目も、鈍った身体も、食料を得るときだけはギラギラと急峻になるのだった。



 そのとき、闇夜に乗じて隣の部隊から出て来た者を見咎めた。こんな時間に出て来る者は、おそらく食糧調達が目的だろう。本来なら捕らえるべきところだが、勲は見て見ぬフリをした。みな生きるのに必死だったからだ。


 ところが、その男はなかなかその場を動こうとしない。何かと思って勲が目を凝らしてみると、男は月明かりに照らして何かを必死に読んでいる。


 声をかけようと近寄り、彼があの元法務官の鷹取誠司だと気が付いた。軍法会議から2週間ほどしか経っていないのに、かなりやつれ、その頬には大きな痣が出来ていた。法務官だった頃に兵卒達をイラつかせていた分、多めに隊でしごかれたのだろう。


 彼が二等兵に落とされたのは、十中八九、軍法会議での発言のせいだった。勲にとって雲の上の存在だった彼が、今や勲より下の階級に成り下がっていた。

 彼は勲の命の恩人だったが、そのせいで地位も名誉も失い、自らを飢えに晒すことになったのだ。


 勲は居た堪れない気持ちになったが、礼を言わなくてはと思って声を掛けた。


「鷹取さん……ですよね。軍法会議ではお助けいただきまして、ありがとうございます」


 鷹取は驚いたように顔を上げて、勲を見つめた後「ああ、あんときの……」と笑顔になった。


「矢田部一等兵殿。お勤めご苦労様です」


 いつもビシッと決めていた鷹取少佐が、今はボロ服を着て疲れ切った顔をしている。勲の心が痛んだ。


「何を読んでおられたんですか?」


 勲が尋ねると、鷹取は少し嬉しそうに答えた。


「息子からの手紙です。出征前に」


 鷹取の言葉には、関西訛りがあった。戦場に招請される前は大阪鎮台で法務官をしていたそうだ。


「戦場の軍紀の乱れは、内地にも聞こえてくるほどでした。私は法務官として、第14方面軍を規律正しい軍隊にするつもりでやって来ました。イバラのみが待ち受ける道やと覚悟しとったつもりでしたが……今考えれば、なんも知らんかった、こんなことになっとるやなんて。」


 鷹取は自嘲気味に笑った。勲は言った。


「でも鷹取さんは、自分を助けてくださいました。このご恩は一生忘れまへん」


「自分は何もしておりません。法が味方したんです」


 そう言った後、鷹取は少し面白そうに尋ねた。


「ところで矢田部一等兵殿、その大阪弁から察するに、お国は関西ではありませんな?」


 矢田部勲は、東京で育ったこと、米国で美しい妻と出会ったこと、徳島に移り住んだこと、移住してすぐ招集を受けたことを話した。もう下手な関西弁を使うのは辞めていた。


「なので、自分は徳島弁はおろか、大阪弁も隊の仲間の見様見真似なのであります」


「なるほど、そういう訳で英語が堪能でおられるんですな。私は読み書きは学びましたが、話す方はからっきしです」


 それからいくつか言葉を交わした後、鷹取は兵舎へ戻って行った。




 2人は日中にもたびたび言葉を交わすようになり、良き友人となったのだった。

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