第37話 約束

 鷹取が二等兵に降格してひと月が過ぎた。その頃には、鷹取はすでに隊の中で頭角を現していた。


 彼は、野生のブタや水牛などの大型動物を捕獲するのが非常に得意だったのだ。この1ヶ月の間に、ひとりでもう4頭も仕留めていた。


 この頃には食糧難はさらに進み、その波は上官にさえ及んでいた。兵卒たちは脚気やマラリヤ、デング熱、赤痢などでバタバタと倒れ、命を落としていた。


 そのため、決められた期限内で隊を離れ、食糧を確保しに行くことが許されるようになっていた。そうして、兵たちは交代でジャングルへ踏み入ったのだった。


 鷹取は足跡や匂いから野生動物を探し当て、銃剣をまるで槍のように用いて大型動物を仕留めたそうだ。1ヶ月前まで法務官をしていたとは思えない野生的な姿に、彼は隊の中ですっかり市民権を得ていた。


 一方の勲は、英語が話せるばかりに食糧調達に行くことを禁じられており、「穀潰し」として肩身の狭い思いをしていた。



✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎



 その月夜も、やはり勲は見張り当番だった。満天の星だったが、湿気をまとった空気がスコールの到来を予感させていた。


 勲は、栄養失調で腹や背中に出来た腫れ物が痒くて仕方がなかった。衰えた大腸は、もはや水分を吸わなくなっていた。それでもまだ、大病を罹っていないだけマシと思える状況だった。


 日中に何も口にしておらず、ふらついて立っていられずに座り込んだ。どうせ誰も見ていないと思ったのだ。


 そのとき、隣の隊の見張りが声を掛けてきた。


「矢田部はん」


 見ると、鷹取が敬礼していた。勲は座り込んだまま敬礼を返した。


 鷹取は勲の側に来ると、懐から何かを取り出した。干し肉だった。


「今日、何も食べとらんでしょう」


 肉を見た瞬間、勲の摂食中枢が大興奮を起こした。しかし一方で、彼の理性が警鐘を鳴らした。ちょうどその頃、隊の中で人肉食の噂が広がっていたからだ。もはや飢えは、その段階に来ていた。

 勲の警戒心を察した鷹取は、笑って言った。


「水牛です。この間、自分が獲ったもんを炊事班が上手いこと捌いてくれましてん」


 腹が空いて仕方がなかった勲は、鷹取から奪うようにその肉を受け取り、ガツガツと噛み砕いた。久しぶりの肉の味に、涙が出た。


「ありがとうございます」

「ええんです。困ったときはお互い様やさかい」


 味方同士でも奪い合い、殺し合いが起き始めていた。そんな殺伐とした中で、鷹取は不思議と仏のように人間性を保っていた。それは、周囲の人間に「彼から奪うより、彼を味方につけた方が得だ」と思わせる才能があったからかもしれない。ボロを纏い、痩せこけても、人を惹きつけるものが彼にはあった。


「鷹取さん、自分たち、飢え死にするまでこの生活を続けねばならないんでしょうか」


 膝を抱えて弱音を吐く勲の隣に、鷹取も座り込んだ。


「命が尽きるのが先か、戦争が終わるのが先か、でござりますなぁ。死ぬ前に一度、空を飛んでみたいですわぁ。あ、どうせ死んだらお空にいてまうんでしたな」


 鷹取の笑えない冗談を、勲は黙殺することにした。代わりに、少し迷ってから思い切って言った。


「日本は勝っていると言われているでしょう。ところが、自分は招集される前、ラヂオで米国のチャンネルを聞いていたんです。本当の戦局は……」


「そこまでです」

 鷹取が鋭く遮った。

「また恐ろしいことを言わはる。上に知れたら、今度こそ銃殺でっせ」


 勲は話したことを後悔しかけたが、鷹取は声を落として続けた。


「自分も法務部におりましたよって、そんな情報は入って来とりました。おそらく日本は……」


 鷹取は最後まで言わず、目配せで伝えた。「負ける」と言いたかったのだろう。鷹取はさらにこう続けた。


「大阪の妻子が気掛かりです。九州から本土空襲が始まったと聞きましたさかい。自分の命運が尽きる覚悟は出来とります。ほんでも、妻子だけは……」


 本土空襲、と聞いて、勲はゾッとした。いずれ空襲の標的となるであろう東京には、両親や兄弟姉妹がいる。それに、本土空襲ともなれば、西洋人である妻に対する人々の視線はさらに厳しくなるだろう。


 リリー。その名を心の中で呼ぶと、恋しくてたまらなくなる。

 勲は懐から日記帳を取り出した。その表紙の中から、1枚の紙片を抜き出した。


「見てください。自慢の妻なんです」


 それは、結婚式のときに撮った妻の写真だった。西洋人の写真は没収されるかもしれないと踏んでいた勲は、日記帳の表紙に細工をし、隠して携帯していたのだった。


 鷹取は月明かりに照らして、折り目の付いたその写真をじっくりと見た。


「またえらいべっぴんさんですなぁ。果報者かほうもんとは、アンさんのことやな」


「鷹取さんも、写真はあるんでしょう?」


 勲がそう訊ねると、鷹取は少しはにかみながら、懐から写真を取り出した。

 出征前に撮ったものだろうか。男前の鷹取の隣に、美しい妻が座って微笑んでいる。そしてその前に、まだあどけない兄妹が満面の笑みで写っている。


「妻の小夜子や。ほんで、コレが息子の敬介。こっちが娘の百合ちゃんや。敬介は尋常小学校の2年生や。百合ちゃんの入学は来年度やな……行きたいなぁ、百合ちゃんの入学式。」


「本当に子煩悩ですね」

 勲は苦笑して鷹取を眺めた。


 そのとき、鷹取がふと思い付いたように勲に言った。


「矢田部はん、自分ら、いつ命尽きるともわかりまへん。そやから、互いに約束しまへんか? もし片方が生き残ったら、片方の家族に会いに行くて。」


 勲も大賛成だった。自分がここで命を落としたとき、鷹取がリリーに自分の最期を伝えてくれるなら、心残りも少し軽くなるというものだ。


「いいですね。大阪と徳島、そんなに遠くありませんし、鷹取さんになら信頼してお任せ出来ます」


「よかった。自分も矢田部はんだからこそ、安心してお頼み出来るゆぅもんです」


 鷹取は穏やかに微笑んだ。そして、夜空を指さした。降るような満天の星空だ。勲は日々の生活に精一杯で、星を愛でることなどすっかり忘れていたことを思い出した。


「南十字星。見えますやろ。敬介の顎の下に、アレにそっくりの4つのホクロがありますのや。自分はアレを見るたびに、敬介を思い出しとりました。もし……もし、大阪が空襲にやられて、家族がバラバラになっとったら……顎下に南十字星のある男の子を探してもらえますやろか? その子と妹が幸せかどうか、見てきてもろてええでしょうか?」


 鷹取の表情は、懇願するようにも見えた。勲は力強く頷いた。


「分かりました。必ずご家族は見つけ出します。敬介くんの顎下のホクロを目印に、全員、必ず見つけ出しますから。その代わり、自分が死んだときには、リリーに伝えてください。最後まで君を想っていたと。」


 鷹取は安心したように頷いた。


「承知しました。必ず伝えさせてもらいます」



 そのとき、暗闇に閃光が走った。

 星降る夜、のどかな田園の兵舎めがけて、耳をつんざくような銃声が響き渡った。

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