第九十一話:逃亡

 ドオォン……という衝撃音が、月華楼の建物全体を揺らす。

 爆発音に似たそれは、お千代のねやから聞こえてきた。


「何事か!?」


 楼主や忍びの男衆おとこしが、閨の襖を開く。

 途端、粘つくような甘ったるい匂いが男達の鼻孔に届く。女郎が焚く伽羅や麝香のような香の匂いではない。もっと爛れていて、胸がつかえるような危険な香りだ。


 毒の香りだと分かった忍び達は、鼻と口を塞ぎながら部屋を見渡す。屏風の裏では阿国が気を失って倒れている。乱れた褥に、穴が開いた壁。恐らくぜ玉で倒壊させた壁の穴に、半裸の木村八郎が意識のないお千代を担いで片足を穴の縁にかけている。


「こいつは頂いていく。いい女だからな」


 言い終わる前に、木村八郎は穴から飛んで屋根に降り立つ。そして大柄な体躯からは想像できない俊敏さで追っ手をかわし、次々と別の見世の屋根に飛び移って逃げていく。


「待て!!」


 月華楼の忍び達が八郎を追う。鍛え上げられた忍び達が全速力で花小路を走るが、八郎は更に速く、その挙動は肩に担いだお千代の重さすら感じさせない。

 忍びの一人がクナイを投擲する。が、それすら八郎はかわし、高く跳躍する。

 そして空中で体をひねり、後ろに迫る追っ手の忍び達に何かを放る。丸いそれは火薬のつまった複数の爆ぜ玉で、導火線に火がつけられており、爆発する。


 轟音。暴風で飛ばされる忍び達。壊れていく見世。爆発に巻き込まれ怪我を負った女郎と客達。

 花街が悲鳴と炎に包まれていく。


 木村八郎は、笑っていた。


 ――香炉と、この女を捧げれば、俺は今度こそ! 散々馬鹿にしやがったを見返してやれるんだ!


 ちりり、と、八郎の袂に入れた香炉が鳴く。女郎達の精気を吸い取って蓄えている九十九神つくもがみ。元は豊臣秀吉のものであったそれは、八郎が盗んできたのだ。

 下手な城より高い国宝級の香炉を盗み出しても、八郎の罪は消えなかった。それどころかだまし討ちされて殺されそうになった。

 最初から向こうは八郎を殺す気だったのだ。八郎を殺して、この香炉だけ手に入れる算段だったのだろう。


 ――そうはさせるか。俺は生き延びる。生きて、俺を騙して抹殺しようとしたを必ずぶっ殺してやる! そのために花街に来て、女どもの精気をこいつに蓄えさせたんだ。これさえあれば、俺は何倍も強くなれる!


「……くくっ」


 いやらしそうに笑いながら、八郎は担いでいるお千代の横顔を見た。

 こいつは土産だ。里への献上品。これだけの上玉なら貢ぐ価値はあるだろう。献上する前にもっと貪っておくか。いくら女を抱いても足りねえからな俺は。


 花小路を抜け、七日町を出る直前、八郎の後ろからすさまじい雷光が走る。

 その雷光は八郎のすぐ横を走り、気づいたときには八郎の左上腕がざっくりと斬れていた。


「……なっ!?」


 遅れてやってきた激痛に顔をしかめ、体を傾けると、肩に乗せていたお千代が地面に落ちる。

 八郎は雷光の正体を知った。雷のように神速で飛来したのは青龍偃月刀であった。先の大木に刺さった大刀を見て、八郎は後ろを振り返る。


 遠い花小路から、色黒で大柄な男と、その小姓らしき少年が素早くこちらに近づいてくる。

 八郎は痛みに耐えながらお千代を担ぎ直して逃げようとするが、今度は棒手裏剣が八郎の右肩とふくらはぎに刺さる。新たな痛みでお千代をまた落としてしまい、更に煙り玉をまかれ、八郎の視界は閉ざされてしまう。

 その隙にお千代を誰かが抱いて奪っていく。


「ちくしょう! 誰だてめえら!」


 煙幕の中、八郎は棒手裏剣を体から抜きながら叫ぶ。

 煙を必死でかき分けると、視界に大刀を構えた色黒の男が憤怒の表情で八郎を睨んでいるのが見えた。男の横には、お千代を抱いた少年が控えている。


 大刀の切っ先を八郎に向け、色黒の男――紫月は静かに告げる。


「もう逃げられないぞ。木村八郎。いや、伊賀の里・百地党の一員、石川五右衛門」

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