第七十六話:処罰と髪留め
「……何しに来たの?」
木に縛られた阿国は、目の前で自分を見下ろしているさやを睨んだ。さやも眉を寄せて怒っているかのように口を真一文字に結んでいる。
阿国は、さやの短い茶色の髪が濡れているのが気になった。髪を洗った? 里では入浴は毎日するが、髪を洗える日は決まっていて、夏場だと月に二、三回「髪洗い日」がある。理由は、髪を洗うのに湯と洗髪料が大量にいるからだ。
まだ髪洗い日まで日にちがある。例外として、日常生活に支障をきたす程汚れた場合に洗髪が許されるが……
「……なんで、簪を盗んだの?」
さやが阿国に問う。その顔は苦々しく歪められている。
さやは地下牢から出された後、屋敷の広間にて阿国が簪を盗んだことを紫月から説明された。
他者の私物を盗むのは重大な掟破りである。さやと入れ替わりに地下牢に入れられた阿国は、折檻を受けた後、二日間火の一族の屋敷の中庭の木にくくりつけられ、罪人としてさらし者となるらしい。その間食事は与えられず、勿論
阿国の師であるお千代も、監督不行き届きとして、三日間の家での
そして被害者とはいえ、暴力を振るい阿国に重傷を負わせたさやにも罰が与えられる。それは、二日間の里中の厠掃除と排泄物の処理であった。
厠は、身分によって場所が決まっている。さやや紫月達実働部隊の者が使う厠と、党首や上役、里長の使う厠はそれぞれ分かれている。
さや達の使っている厠は狭く、用を足した後、傍に置いてある水瓶の水を流し、外にある沈殿槽へと流す。沈殿槽に溜まった排泄物を汲み取って、決まった処理場に持って行くのだが、これは里の仕事の中で一番嫌がられる仕事だった。理由は簡単で、もの凄い悪臭を伴うからだ。
しかしそのままにしておくと沈殿槽から汚物が溢れ出てしまう。なので里の下の階級のものや、忍びとしての位をまだ貰っていないもの、忍びになれなかった後方支援のものが交代で、日に三度汲み取りを行っていた。
掟を破ったものがいる場合、罰としてこの仕事が最優先に回されてくる。掟を破ったさやと、その師である紫月は、
あまりの臭さに吐き気を催しながら、さやは汲み取った糞尿を指定の処理場へと運ぶ。そこには大きな穴が掘られており、ここに糞尿を捨て、落ち葉や雑草、おがくずやヤシ皮繊維を入れて棒で攪拌させる。こうすることにより好気性微生物が活性化され、糞尿を分解し、暫く待てば水と堆肥へと変える。
糞尿の池を攪拌するのは力もいるし、また微生物により発酵しているのでものすごい臭気を放つ。さやは目に臭いが染みてツーンと痛くなった。
紫月は里長の使っている厠の汲み取りを行う。里長のような身分の高い方の厠は、実働部隊のものと違っていた。まず厠の作りが違う。面積が広く、匂い消しの香まで焚かれている。そして里長は最近足が悪くなってきているので、座って用を足せるよう椅子式の便器が置かれていた。
紫月は厠の掃除を済ませた後、外に出て便槽に付いている把手を回す。この厠は、便器の下の便槽に細かく粉砕したおがくずや落ち葉、雑草などが敷き詰められている。こうすることにより悪臭が軽減され、把手を回して攪拌させると好気性微生物により糞尿が分解されてそのまま堆肥として使える。これは現代の山小屋でも使われているバイオトイレと原理は同じである。
さやの方の実働部隊の厠と違うのは、いちいち処理場まで汲み取った糞尿を運ばずに済み、また臭気がそれほど酷くないという点である。紫月は攪拌が済むと、便槽から堆肥を取りだし、糧食班が管理している畑まで持って行く。里長他身分の高いものの排泄物は、良いものを食べているので質の良い堆肥となる。
月の里の畑は、小さいのが二面ほどしかない。元々ここ月山は火山であり、里のある弥陀ヶ原湿原は水はけの悪い土地なので、作物があまり育たない。以前は水田で米作りにも挑戦していたが、土が悪いので稲穂が実らず、二年前に廃止された。今は畑で実験的にいくつかの作物を育てているだけだ。今実験しているのは、馬鈴薯やサツマイモ、
「堆肥、持ってきたぞ」
紫月が桶に入った堆肥を担いでくると、畑を手入れしていた糧食班は遠巻きから、「ご苦労さん。そこに置いてくれ」と、堆肥の堆積所を指さす。紫月は堆積所に堆肥を振りまき、水をかけて鍬で堆肥を切り返した後、よく踏み固める。これで熟すだろう。
そうして厠掃除と排泄物処理が終わると、さやと紫月は行水して丁寧に身を清め、匂いのついている髪も洗う。通常、里では髪洗い日以外で髪を洗うのは禁止されているが、糞尿の汲み取りを行った者は、染みついた悪臭を取り除くためと疫病防止のために髪まで洗うことが許されている。さやは髪が短いので、髪洗いに使う湯の量が少なくて済むので、湯に余裕があるときにこっそり髪を洗っていたのは内緒だ。
※
※
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こうして糞尿処理を終え、髪を洗い終わったさやは、屋敷の中庭の木に縛られている阿国の元へ足を運んだ。
阿国が簪を盗んだ理由は、なんとなく察しはついている。お千代が、阿国が恨み言を言っていたとさやに告げていたからだ。
だけど、さやは直接阿国から訳を聞きたかった。それを聞いてどうなるかはわからないが、このままだとさやの気が治まらない。心の奥がモヤモヤして気持ち悪いままになってしまう。
「わかっているくせに……!」
問われた阿国は、さやを睨みながら呟いた。
「あんたのことが大嫌いだからだよ。踊りが下手なくせに、お千代姐さんの直弟子でもないくせに、あんな簪もらって……! あんたにあの簪を挿す資格なんて無い! 大体そんな短い髪でどうやって簪を挿すのさ?」
大体予想はしていたが、改めて言葉にされるとショックだった。さやは自分は人から特段好かれるような性格ではないと思っている。愛想も良くないし、話し上手でもない。人より秀でているのは視力だけで、容姿も頭脳も身体能力も平々凡々としたもので、里に来たばかりの頃は、元・お姫様が忍びになるなんて図々しいと白眼視されたこともあった。しかし小さな嫌がらせは受けたものの、自分を心の底から憎んでいるものはいないと思っていた。
だが、阿国の剥き出しの憎しみの言葉を聞いて、自分がここまで憎まれていたことを知り、落ち込んでしまう。
誰からも好かれようなんて思わないが、嫌われたり憎まれたりすることがここまでショックを受けることを、さやは今知った。
「お千代さんは私にだけじゃなくて、あんたにだって十分優しくしていたと思うけど?」
「嘘だ!」
さやの言葉に、阿国は縛られている身を乗り出して叫ぶ。
「あたしは簪なんて貰ったことないもん! それにあんたは姐さんの胸に埋もれたりしてさ! 弟子でもないくせに、踊りも唄も下手くそなくせに、姐さんにベタベタしないで!」
そういえば、よくお千代さんは私を抱きしめていたな、とさやは思い出した。豊満な胸をぐりぐりと押しつけられたこともあった。でもお千代さんは私だけではなく、紫月や他の弟子にもそうやってスキンシップをとっていた。別に私だけが特別だったわけではないが、阿国はそう思っていないらしい。
「……私のことは嫌いでもいいけど、お千代さんにはちゃんと謝りなよ。お千代さん、あんたが盗みなんて働くから、蟄居を命じられているんだよ」
蟄居、と聞き、阿国の腫れた目が丸くなる。
「うそ……どうして姐さんが……」
「弟子の不始末は師の責任だもの。それが里の掟。知らなかったの?」
現に、さやの師である紫月も、二日間の糞尿処理をさやと共に行った。さやが阿国に跳び蹴りして重傷を負わせた罰だ。罰は弟子と師どちらも受けなくてはならない。
「お千代姐さんが、あたしを破門だって……。姐さん、ごめんなさい、姐さん……!」
うっう、と阿国が泣き始める。ボロボロと涙を流し、嗚咽をこぼす。そのうち咳き込むまでになったが、その咳は段々と激しくなり、阿国は
「!?」
吐きながらも、阿国の咳は止まらない。咳と咳の間に、ヒュー、ヒューと喉から木枯らしが鳴くような音を発する。
さやは天恵眼で、阿国の気管支が炎症を起こしているのを確認する。肺は炎症を起こしていない。となると
「阿国、あんた、喘息もちなの!?」
阿国は答えようとして、また咳を発する。ヒューヒューという音は、喘鳴だ。さやは、医療班の手伝いで、一度喘息の子を見たことがある。その時の子の症状と目の前の阿国の様子は酷似していた。
喘息というと現代の病気と思われがちだが、実はそうでもない。喘息はギリシャでは“鋭い咳”と言われ、紀元前四世紀、ヒポクラテスは、職業と気候、遺伝的要因から喘息の発生要因を文献に記載している。二世紀にはガノレスにより喘息の基本病態の考察を記した文献が残っている。つまりそれほど昔から喘息という呼吸器疾患が認知されていたことになる。
喘息は放置していると死に至る可能性もある。さやは医療班のところへ向かおうとしたが、阿国がまた咳のしすぎで吐いてしまい、酸素不足の真っ青な顔でぜえぜえと苦しそうに息をしているのを見て、ここで放置しておくともっと悪くなると感じ、応急処置を施すことにした。
腰にぶら下げていた水筒に持っていた茶の粉を沢山入れ、水筒をよく振る。濃茶を作ったさやは、水筒を阿国に差しだし、ゆっくり飲むように促す。しかし阿国はそっぽを向く。
「あんたの言うことなんて聞かな――」
そこまで言って、また激しく咳き込んだ。強情張りな阿国に苛つきながら、ほとんど無理矢理水筒の先を口に入れ、咳の止んだ時に阿国に茶を飲ませる。医療班が見たら怒るであろう強引な行為だったが、今は緊急事態だ。
「ほら、もう一回!」
阿国が茶を嚥下したのを確認して、さやはまた水筒の先を阿国の口に入れる。最初こそ抵抗していた阿国だったが、今は為されるがままになっている。
そうして時間をかけて水筒の茶を全部飲んだ阿国は、いつの間にか咳が止まっていることに気づいた。まだ少し苦しいが、呼吸も先ほどよりしやすくなっている。さやはほっと胸をなで下ろす。
茶やコーヒーに含まれているカフェインには、気管支を拡張する作用がある。ただ、効能がゆっくりなので、あくまで今回のように薬がない場合の応急処置に限り使うのが望ましい。喘息の薬があればそちらを使うことに越したことはない。
「礼は言わないからね」
咳が落ち着いた阿国が、さやにそう言う。さやは嘆息しながら、懐から簪を出して阿国に見せる。阿国が盗んだ、梅・桃・桜の簪。しかしさやが阿国に跳び蹴りしたときに、二本の歯が折れてしまったはずだ。
さやは簪に付いた鋏のような二枚の細い板を開くと、そのまま自身の短髪を挟んで、髪に付けた。
阿国は唖然とその簪だったものを見る。普通簪は結い髪に挿して使うものだが、歯の折れた簪は花の部分を残し、下に二枚の細長い板が付いている。その板がさやの髪を挟んで、茶色い髪に花を咲かしている。
これは忍具制作班に直して貰った髪留めであった。折れてしまった歯を除いて、代わりに二枚の細長い板を付ける。板は端の方にバネが付いており、端をつまむとバネの力で板が鋏のように開き、そのまま髪を挟んで留まる。現在のヘアクリップと同じ原理だ。
これなら髪が短くても頭部を彩ることが出来る。さやは自らの短い髪に咲いた、梅・桃・桜の花の髪留めを得意げに阿国に見せびらかす。
「どう? 似合うでしょ?」
さやが頭を揺らす度、花から垂れ下がる三房の飾りが一緒に揺れる。梅・桃・桜の花の飾りがシャラン、と気持ちの良い音を鳴らすのを、阿国は口を開けて見とれてしまった。が、すぐに顔をしかめてそっぽを向く。
「全っ然、似合わない!」
阿国の憎まれ口を聞きながら、さやはそっと笑ってみせる。
全ての人と人が完全にわかり合うことなど出来ない。昔そう果心居士に教わった。その時はそんなことない、と反発を覚えたが、今となっては居士の教えは良くわかる。わかり合えないからこの世に争いがなくならないのだし、どんなに振る舞っても、自分のことを嫌いになるものは必ずいるのだ。阿国とだって、きっとこの先わかり合うことはないだろう。
でも、今はそれでいいのだと思う。別に自分のことを憎んでくれてもいい。悲しいけど仕方が無い。ただ、私だってこの簪は似合うだろう? と見せつけたかっただけなのだ。
さやのことを暫く睨んでいた阿国だったが、何かを言いかけたとき、また咳をし始めた。濃茶はあくまで応急処置にすぎない。さやは医療班の元へと急いだ。
その時、さやの髪に付けた簪、もとい髪留めの梅・桃・桜の花が眩しく光り、悔しいが似合っているな、と阿国は心の中で憎々しく感じたのだった。
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