第七十五話:ある少女の回想

 阿国がさやの簪を盗んだ理由は、嫉妬、というとても単純で陳腐なことからだった。

 元々阿国は、悪質な女郎屋に売られた孤児であった。初花もまだの年端もいかない子供の阿国は、無理矢理客を取らされそうになったところを、偶々任務で出雲の国に立ち寄ったお千代にその身を買われ、一緒に月の里へと来た。


「あんたの身はあっしが買った。これからはあっしが姐さんだよ。これから行くところではきちんと食事も出すし、教育も受けさせる。子供のあんたに身体を売らせることはしない。だけど修行は厳しいし、冬はとても寒い。もしかしたら遊び女あそびめの方が楽かもしれない。それでも来るかい?」


 お千代の問いに、阿国は黙って頷いた。いつも殴られ、まともに食事も与えてくれなかった女郎屋になどなんの未練も無いし、屋根の下でご飯が腹一杯食えるならどこでも良かった。少なくともあそこより悪いところなど地獄以外にないだろう。


 里に着くまでの長い旅路で、阿国は初めて大人の優しさに触れた。垢とノミに塗れていた阿国を、湯宿でお千代は嫌な顔をせず丁寧に洗ってくれた。ぐしゃぐしゃだった髪を櫛で根気よくとかし、綺麗に肩口で切りそろえてくれ、山盛りのご飯を食べさせて貰った。あんなに美味しいご飯は生まれて初めて食べた。


 痣だらけ、傷だらけの身体にも、お千代は軟膏を塗ったり湿布を貼って治療を施した。阿国は右頬から額にかけて火傷の痕があり、そのせいで女郎屋にいた頃は醜女しこめと煙たがられ、酷い虐待を受けたが、お千代は阿国をとても可愛らしい顔立ちだと褒めてくれた。


「まなじりがキリリとしてとても綺麗ね。化粧をして着飾ったら可愛らしいお姫さんになれるだろうよ」


 頬を撫でながらそう言うお千代に、阿国はこの時敬愛の念を抱いた。こんなに親切にしてくれるだなんて、この女性は天女か何かではないだろうか。人買いでも何でもいい。これだけ優しさをくれたのだから、あたしはこの人をあねとして慕おう。

 冷え切った阿国の心は、お千代によって温められていった。里に着くまで、阿国はお千代に字を習い、歌を習い、踊りを習った。阿国は芸事、特に踊りに高い才覚を表し、お千代を唸らせた。自分にこんな才能があったなんて驚きだ。


 里につく直前、奥州のとある宿坊にて、お千代は逗留中の果心居士かしんこじを阿国に会わせた。


「この子はあっしの新しい弟子になる子なんだけど、火傷の痕が痛々しくてね……。なんとかならないかい?」


 ううむ、とその僧侶は呻いた。そして大きな手で阿国の火傷の様子を触って確かめ、痕を完全に消すことはできないが、分からないほどに薄くすることは出来ると言った。


「ただし、儂が何をしても文句を言わないこと、そして……」

「分かってるよ。あっしは居士の手術中の姿を絶対に見ないよ。報酬も里に言って用意させるさ」


 こうして取引は成立した。阿国は火傷の痕を消せるなんてできっこないと思っていたが、果心居士に全身麻酔をかけられ、眠っている間に手術とやらが終わり、数日後包帯をとって銅鏡を覗くと、醜い火傷の痕は殆どわからなくなっていた。


「今はまだ少し痕が残っているが、この子の年齢なら新陳代謝が活発だから、数ヶ月、数年経てばほぼ消え去るだろう」


 阿国はまだ信じられなかった。火傷の痕をこんなに薄く出来るだなんて。このお坊さんは妖術使いなんだろうか。これから行く月の里で修行を積めば、このお坊さんやお千代姐さんのような凄い人になれるだろうか?


 月の里に着き、阿国は忍びとしての修行をお千代から授けられた。修行は過酷だったが、阿国は辛いとはあまり思わなかった。毎日殴られ、醜いと罵られ、無理矢理身体を売られそうになった女郎屋時代に比べれば、ここは天国だ。なによりお千代姐さんがいる。姐さんがあたしを褒めてくれる。姐さんが微笑んでくれれば、あたしはなんだってできる。


 そうしてお千代を慕って阿国は修行に励んでいたが、気に入らないことが一つだけあった。それは時々、さやという娘がお千代から教えを受けていることだ。


 たまにお千代が別の忍びから弟子を預かり、芸事を教えることはあったが、さやという娘は、弟子でも無いのにほぼ全ての芸事の稽古で阿国と一緒にお千代から教えを受けていた。

 阿国より四つ上のこの娘は、お千代の夫のひのえの弟子らしい。夫の弟子なら他の子より稽古を付けるのが多いのも仕方ないが、問題はお千代がさやにことだ。


 阿国が一回で覚える踊りを、さやは何回も間違え、やっと覚えるとお千代は感激し、褒美に水飴まであげていた。阿国も優秀な成績を残す度貰っていたが、さやは自分より明らかに芸事では劣っているのに、たった一回踊りを覚えただけであんなに喜んで褒美をあげるだなんて、お千代姐さんはどうかしている。そもそもさやは姐さんの弟子ではないじゃないか。なのになんであの女は姐さんの近くにいるの? なんであの女は姐さんの隣に立って笑っているの? なんであたしよりあの女に優しくしてるの――?


 どす黒く膨らんだ嫉妬は憎しみになり、阿国の心を圧迫する。

 姐さんに愛されるのは、弟子であるあたしのはずなのに。あんな奴あたしより全然たいしたことないのに。弟子でもないのに姐さんを独り占めするなんて、絶対許さない――


 そうして阿国が最終試験を突破し、さやと同じ「つちのえ」の忍びになっても、阿国はさやを同じ党の先輩だなんて認めなかった。忍びになっても相変わらず稽古で一緒になることがあったが、その度に阿国はさやに敵意を向けた。あんな奴、さっさと里から追い出されればいいのに。もしくは任務で殉死しちゃえばいいのに。


 どす黒い怨念を抱いていた阿国は、ある日朋輩から聞いた話で、とうとう怨念が爆発してしまう。

 なんでもあのさやという女は、四年前月山神社で神楽舞を踊った時、お千代姐さんから花簪を貰ったらしい。

 わざわざ忍具制作班に姐さんが頼んで作った簪は、梅・桃・桜の花が象られた豪華なものらしい――それを聞いた時、阿国の頭の中で何かが


 そんな簪、あたしはもらったことない。なのに、なんでまだ忍びでもなく、直弟子でもなかったあの女に、そんな簪をあげたのか。あんな踊りが下手な奴が、姐さんから簪をもらう資格なんて無い。あたしが、姐さんの弟子で一番踊りの上手いあたしこそが、綺麗な簪をつけて踊る資格があるんだ――!


 そのままさやの行李から簪を盗むまで、そう時間はかからなかった。罪悪感よりさやへの憎しみのほうが強かったから、簪を髪に挿すのに全く悪びれることもなかった。


 さやに跳び蹴りされ、お千代姐さんから破門を突きつけられるまでは――


 ※

 ※

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 火の一族の屋敷。その中庭の木に、阿国は縛られていた。盗みを働いた罰として、棒で何回も打擲された後、地下牢からここに移され、二日間仕置きとして木に縛られ、掟を破った罪人としてさらし者になっている。

 阿国を遠くから見て、ヒソヒソと陰口を叩く者もいた。その中には、阿国と一緒に簪を見て笑った女児達もいたが、阿国の意識は別の所に飛んでいたので気づかなかった。


(あたしは、破門……もうお千代姐さんと一緒にいられないんだ……)


 真っ赤に腫れた目から、また涙が溢れる。どんなに泣いても、涙が止まることはなかった。

 お千代姐さん……あたしは姐さんを裏切ってしまった。なんて馬鹿なことをしたんだろう。でも止められなかった。さやが憎くて憎くて、その気持ちで頭がいっぱいだった。

 姐さんに謝りたい。謝って破門を解いて貰いたい。もう一度、姐さんに頭を撫でて欲しい。姐さんに笑って欲しい。姐さん、お千代姐さん――


 ざ、と前の地面を踏む音が聞こえ、阿国は顔を僅かに上げた。

 そこには、あの憎きさやが眉を寄せて立って、阿国を見下ろしていた。

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