姫と忍びの忍法帖
八十科ホズミ
第一部・第一章:一五九三年・冬
第一話:忍ぶ者
西暦一五九〇年。世界の極東に位置する島国、日の本は豊臣秀吉によって天下統一がなされ、ようやく戦乱の世が治まった。
全国を平定し天下統一をなした秀吉はこの年、元号の改元を朝廷に申し入れた。
以後、瑞祥歴が用いられ、後にこの時代は瑞祥時代と呼ばれることとなる。
※
※
※
一五九三年、瑞祥歴四年。初冬。
奥州では三日前に初雪が降ったばかりでまだそれほど雪は積もっていないが、少年の視界は吹雪によって閉ざされていた。
吐く息が白い。少年は小さく舌打ちし、腰の刀に触れる。
お目付役の目を盗んでここまで来たのはよかったが、まさかこれほど吹雪いてきたのは予想外だった。これでは
視界がますます白くなる。なにも見えない。この低い山には何度もお忍びで来ており、雪は降ったがそれほど積もっていないだろうとたかをくくっていた。いつも通りに鍛錬に励もうとしたところでこの吹雪である。吹雪の中を歩き回るのは自殺行為だ。少年は
ふと、少年は自身の領地を騒がしている熊騒動のことを思い出した。
この季節になるとほとんどの熊は冬眠につくのだが、稀に眠り損ねる熊がいる。寝ぼけ眼の熊は大抵山の中をうろつくのだが、中には餌を求めて人里に下りてくる個体もいた。
その中でもたちの悪いのは、人を食った熊だ。
人を一度食った熊はその味が忘れられず、必ずもう一度人を襲う。一月前、領地の村の外れの、山に一番近い小屋に住んでいた家族が熊に全員食われた。赤子もふくむ五人もの人間を食った熊は、小屋に落ちていた毛が血のように赤かったことから「人食い赤熊」と呼ばれ、
はず、というのは、少年はその話を従者ごしにしか聞いてなかったからだ。それら領地のことを考えるのは少年の役割では無い。少年はいつものように鍛錬と勉学に励んでいれば良い。例え監視つきだろうとも。
「…………」
そっと、右目に手を置いた。手をかぶせても少年の視界の狭さは変わらない。幼い頃に光を失った、忌々しい目。何度抉り出そうとして止められたことか。この何も見えない醜く白濁した目など無くなってしまえばいいのに――
そこまで考えたとき、ざしゅ、ざしゅと雪を踏みつける雑な音と、白い視界に大きな影が見えた。
お目付役に見つかったか、と思ったがその影は人の背より一回り大きい。近づきかたも人のそれではない。
まさか―――
全身に緊張が走り、かじかんだ手が腰の刀の柄を掴む。赤毛の人食い熊か!
熊はまだふらふらと薄く積もった雪を踏みながら歩いている。吹雪でこちらの事がよく見えていないのか、冬眠しかかって眠いのか、ふらついている。
少年は警戒態勢のまま立ち、そのまま視線をそらさずゆっくりと後ろに退いた。熊に出くわしたとき、背を見せて逃げてはいけない。視線をそらさずに後ろに退く。一歩、二歩、履いた
「うわ!」
後ろは崖であった。足を滑らせた少年は、身体が一瞬宙に投げ出されたかと思うとそのまま後ろ向きに転がり落ち、傾斜をごろごろと転がっていった。
その途中、右足が出っ張った石に強く当たってしまった。
「うっ!」
それほど深くない崖だったのが幸いして、少年は身体のあちこちをぶつけながらなんとか生きていた。雪が積もった崖の底で、ふらつきながら起き上がろうとしたところ、右足に激痛が走り立つことが出来ず蹲っていると、少年の目の前に黒い塊が上方より降りてきた。
一瞬、熊が追いかけてきたのかと思い、腰の刀を鞘から抜いて塊を斬ろうとした。
すると黒い塊は同じく刀をそのまま横に薙いできた。少年の刀とその者の刀がぶつかり合う。濁った金属音が響く。
吹雪が収まってきた。視界が徐々に晴れていく。
少年の目の前にいたのは熊ではなく、黒い合羽に身を包んだ、髪が短く、少年と同じ年の頃十五、六ほどの人間の子供であった。
(人間!?)
少年が、何者か、と問う声を出そうとしたところ、その子供は少年の口元を手で塞いだ。
(な……!)
「静かに」
少年の抗議の声を黙らせるように、その子供は鈴の鳴るような声で制止し、崖の上を凝視する。口元を塞がれたまま、少年も崖の上を見た。
崖の上では、先ほど吹雪越しに見えた熊が、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いており、こちらに気づくことなくゆっくりと森のどこかに消えてしまった。どうやら人喰い赤熊ではなかったようだ。
熊の姿が完全に見えなくなって、やっと少年の口から手が外された。
「おい、おまえ!」
目の前の者に問い詰めようと身体を動かすと、右足に再び激痛が走り、少年は呻きながら立ち上がれずその場にくずれおちてしまう。
子供はそんな少年を見下ろしながら、そっと手を差し伸べた。
「……?」
いぶかしげに少年は目の前の子供を見つめた。
この寒い季節に、蓑わらではなく黒い布の合羽だけ纏っているのも不思議だが、少年は、子供の肩より上の短く切られた髪にまず目がいった。
この日の本で髪を肩より短くし結いもしないで流している者は、髪を綺麗に維持できない下賎な身分の年端もいかない子供か、俗世を捨てて出家した僧侶か、反骨精神旺盛な
見習いの僧侶の子供か、と考えたが、刀狩りが行われているこのご時世に、武士以外で刀を持てるのは限られた高い身分のものだけだ。合羽から少し鞘をのぞかせている子供の腰の刀は、古めかしくも立派な拵えである。僧侶が持つには分不相応だ。
「……ああ、もう!」
差し伸べた手を握ろうとしない少年に苛ついたのか、子供は少年の横隣に座ったかと思うと、少年の右足首を掴んで真っ直ぐに引っ張る。またしても痛みが走って顔を歪ませると、子供は腰の刀をはずして、少年の右前足に添えて布をぐるぐると巻いている。
「おい、何してんだ!」
抗議の声をあげた少年に、「動かないで!」と子供は叫んだ。そのまま手を止めず「右足の脛骨が折れている。だからこのまま処置する」と簡潔に言った。
気触れ者か? と少年は一瞬思ったが、子供の真っ直ぐな瞳に見つめられ二の句が継げなくなった。
明るい鳶色の瞳の眼力は、まるで少年の身体の奥底まで見透かすような不思議なものであった。少し怒っているかのように眉を寄せている子供からは、少年と同じく規律正しく厳しく育てられた芯の強さのようなものを感じる。
すると子供は少年の脇に手を入れたかと思うと、少年の左手を自分の肩に乗せ立ち上がった。少年はそのままごく自然に無事な左足に力をいれたまま子供の肩を借りる形になった。
「な、なんだよいきなり!」
子供と顔が近くなり反射的に子供を突き飛ばそうとするが、折れている右足を地面につけてしまい、またしても痛みが全身を走り「いってえ!」と呻いてしまう。
そんな少年に呆れたように息を吐くと、子供は少年の左手を肩に乗せたままその手首を掴んで、右手で目の前を指さした。
「この先二町ほど歩くと、小さい洞窟がある。ひとまずそこに行くよ」
そういうと子供は、少年に肩を貸したまま歩くよう促す。思わず少年は子供の横顔を凝視する。何故二町(約二二〇m)もの先の地形を知っているのか。この山に詳しい人間なのか。
「お前、なんなんだ? この山のこと知っているってことは、マタギの子か、まさか山賊か?」
そう問われて、子供は一瞬目を大きくする。が、次の瞬間もの凄く嫌そうに眉を寄せて「違う」と吐き捨てるように言った。
「私は……」
言いかけて、一瞬子供は目を瞑り、そして少年を真っ直ぐ見据えながら言った。
「山賊じゃない、マタギでもない、私は、しのぶもの」
「あ?」
「私は、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます