第2話
「悪いけど断る」
それが、カイが返した一言だった。
「どうして?」
ソラは渋いというよりはただ不思議そうな表情をしていた。
カイはそれに対して、答えを用意していた。
「……わけが分からないからとか、まだ受け入れられてないからとか、色々と理由はあるのかもしれないけど……」
もっと適切な答えが、彼の中には最初からあった。ずっとこの少女に対して言おうと思っていたことが、ようやく限界点を越えて外に溢れ出る。
「………嫌いなんだよ、君が何度も使う、その『運命』って言葉が」
「そんなこと言っても、現に私達は『運命の双子』なんだから当然のこ……」
「その決めつけに、俺は納得が出来ない」
突き離す口調。冷たい声だった。
「俺は『運命』ってのは、信じないことにしてるんだ」
そう言って、カイはソラに背を向けて歩き出す。彼女の顔は、もう見ないようにした。
「でも、私達は、『運命の双子』………」
彼女が呟く声が聞こえても、カイは振り返らないようにした。
「私にはそれが分かってる」
振り返らない。足を速める。振り切るように。忘れるように。
だが、彼女の声はカイの鼓膜に刻まれていて、捨て去ることはできなかった。
買い物を終えてキシリグ孤児院に戻ったカイは、急いでカレーを作る。材料を切る包丁の音は、いつもより早い。
「落ち着け……落ち着け……」
自分の鼓動が速いのが分かる。きっとこんな時に刃物を扱うべきではなかったのだろう。
「いてっ!」
案の定、包丁で少し指を切った。
鋭く痛む指。だが、その痛みのおかげで、かえって冷静になれた。
「そうだ………俺は『運命』なんて信じない、俺は……」
まじないのように何度も呟く。
それから、台所の隣室、食事をする部屋へと向かう。その部屋の戸棚に、救急箱が置いてある。その中から絆創膏を取り出して、指の傷に合わせて貼る。
傷の手当てをしているそこへ、セシル院長がやって来る。カイの絆創膏を見て、少し驚いた。
「あら、どうしたの?」
「ああ、包丁で切っちゃって」
「そう、珍しいわね」
基本的に、キシリグ孤児院の子供達は皆、家事全般が得意だ。なにも特別なことを行っているわけではなく、孤児院での家事全般が当番制であるために、自然と上達するというわけだ。つまり、カイは包丁に不慣れな段階はとうの昔に卒業しているわけで、だからこそセシル院長は少し驚いたのだった。
同時に、彼女はその異変から何かを敏感に感じ取っていた。
「何か悩みごとかしら?」
「まあ、そんなところです」
「良かったら相談に乗るけど?」
「いえ…………遅刻が多くて、先生に課題をたくさん追加されちゃって……」
「あらあら」
カイはとっさに誤魔化して、ソラのことではない理由を作った。
ただし、課題の山も悩みとしては嘘ではない。
「課題、手伝ってもらえたりは………」
「ダメよ、自分でやりなさい」
「ですよね……」
そう言いながら、台所に戻る。
「夕食の準備、何か手伝う?」
課題はダメでも、台所の手伝いはしてくれるらしい。
「いえ、材料はほとんど切ったんで、あとは煮込むだけですから」
「あら、そう。じゃあ、お願いするわね」
そう言って台所から去っていくセシル院長の後ろ姿を見送り、カイは調理を再開した。
。
考え事をしながらも、手際よくカレーの野菜と肉を炒める。雨音のような油の音を聞きながら、カイは今日出会ったソラという少女のことをまた考えていた。
彼女は信念、あるいは信仰に従って生きているようだった。彼女の行動には一切の迷いがなかった。きっと信念という神を持っているのだ。
そして、その神をカイは持ち合わせていない。
夕食の時間には、基本的に孤児院の全ての子供達十五人が食堂に集まり、一日の終わりに騒々しさはピークを迎える。そして、年齢に関わらず全ての子供が集うこの時間が、カイにとって最も楽しい時間だった。
大鍋で作ったカレーも、十五人プラス院長の計十六人分も盛りつけると、三分の二が無くなってしまう。
いただきますの元気な声で、皆が食べ始める。
「おいしい!」
そんな声がいくつか上がった後、しばらくは皆が黙々と食べる時間が続いた。
「おかわり!」
やがてそんな声が上がり始める。セシル院長やカイも含めた年長の子供達で、年少の子供の分も盛りつけてあげる。
カレーを食べている最中に、カイの隣から話しかける声。
「そういえば、今日の夕方……」
話しかけてきたのはアカネ。カイより一つ年上の少女で、この孤児院では姉みたいなものだ。
「何?」
『今日の夕方』というワードから話題は類推できたが、予測と違うならその方がいいと思った。
アカネは答える。
「あれだよ、あの怪物騒ぎ」
やや興奮した様子のアカネに対して、カイは無言。
「あの場所、カイが買い物するスーパーの近くじゃなかった?時間も近いし……」
「あ、いや、時間がずれていたし、気づかなかったな。ニュースを見て知ったくらいだ」
「ふーん、良かったね」
言葉は素っ気ないが、アカネが安堵しているのが分かった。
もちろん、ソラのことも、あの錆びた怪物のことも、何も言わない。言わないで、忘れてしまえば、それは無かったことになる。
夕食が終わり、その片付けをした後、孤児院の2階にある自分の部屋にカイは戻った。担任に出された課題が山積みなのは事実だが、今日はもう疲れて、課題をこなす余裕はない。ベッドに寝転がると、自然とまぶたは落ちてきて、もう眠りに落ちる。
翌日。
目覚まし時計の音で起きたカイは、朝食のトーストを食べていた。食堂には他に、年少の子供が四人。ちなみにアカネもカイと同じくチャリオン学園の生徒だが、部活の朝練のためにもうとっくに出発していた。
トーストの半分ほどを食べた時、食堂に慌てて男の子が入ってきた。
彼はジル。まだ十歳だ。
ジルは慌てた顔で、しかもはしゃいだ様子も混ざっていた。
「カイにい、カイにい」
この『にい』は『兄』という意味で、ジルは年上の子供全員に『にい』か『ねえ』を付ける。
「もんのまえに、おんなのひとが!」
女の人が『立ってる』ということだろうか。カイはジルに問いかける。
「その女の人、何か言ってた?」
「うん、カイにいにね、おねがいがあるって」
「………分かった。ありがとう、ジル」
状況を理解したカイは、トーストの残りを一気に頬張り、牛乳で流し込んだ。
「行ってきます!」
鞄を担ぎ上げ、カイは孤児院の玄関を出た。後ろで、はしゃぐジルの声が聞こえる。
「カイにいの知り合い?かのじょ?かのじょ!」
玄関のドアを開けた瞬間、三メートルほどの前庭の向こうの門に、予想通りの人物が立っているのが見えた。
來葉ソラだ。
「また君か……」
「おはよう」
「いや、『おはよう』じゃなくて」
カイはそのまま歩き出す。この少女の予定は知らないが、カイは学校があるので、ゆっくり立ち話をするほどの時間はない。ソラがついてきて、昨日と同じように、二人は並んで歩く。
「……どうして、孤児院の場所を?」
少し気になって訊ねてみたが、ソラはその質問を完全にスルーして、ただ彼女が言いたいことを言ってくる。
「私と一緒に戦って欲しい」
「昨日も言った、断るって」
「だけど……私達は『運命の双子』……」
「俺は『運命』って言葉が嫌いだ。それも昨日言った………」
つい早足になり、並んで歩いていた二人は、ソラが遅れる形になる。
「………一つ聞かせて」
後ろから追いかけてきた声に、カイは足を止めて振り返る。
「なんだよ」
「どうして、そこまで『運命』という言葉を嫌うの?」
「それは………」
「何があったの?」
「………」
この少女は躊躇なく、容赦なく踏み込んでくる。一歩も引くことがない彼女をはね除けるには、下手な誤魔化しでは駄目だと悟った。
「………………昔、八歳の頃に、俺は飛行機事故に遭った」
彼が孤児になる前の記憶。何もかもが普通だった頃の記憶。
「その事故で両親は死んだ………両親だけじゃないな、乗客はほぼ全員死んだ………生き残ったのは、俺を含めて二人だけ」
ショックで記憶が飛んだのか、カイ自身はは事故のことをあまり明瞭には覚えていない。
むしろ鮮明に覚えているのは、その後のことだ。
「次に目覚めた時、俺は病院にいた………ずいぶん長い間、昏睡状態で生死の境にいたらしい。で、目覚めた俺を、皆は『奇跡の子』とか呼んで、『死の運命に打ち勝った』と言った」
ここでカイは、自分の声が徐々に震え始めているのが分かった。怒りか、悲しみ、あるいは名付けようのない感情が、心のダムを食い破ろうとしている。
目の前で聞くソラの表情からは、彼女が何を思うのかは読み取れない。ただカイはもう、言葉を止めることはできなかった。
「………『死の運命』って何なんだよ?父さんは、母さんは、死んでも仕方なかった、そういうものだ…………たまたま俺が生き残って、『奇跡だ、本来なら君も死んでたはずなんだ』って………そんなの、認められるわけがないだろ!」
気づけば声は叫びになっていた。
「『運命』ってのは結局、人の意思を無視した何かってことだ……そんなものを受け入れるなんて、俺は絶対に嫌だね………」
カイはそう言って、また歩き出した。
追ってくる足音はない。
彼女が今、どんな表情をしているのかは分からない。あんなにも必死な彼女の頼みを無視して、自分はひどいことをしたのかもしれない。でも、引き返そうとは思わない。
それからカイは、チャリオン学園で午前の授業をぼんやりと受け、気づけば午後も終わりかけ。
あと一限で今日の授業は終わる、昼下がりの休み時間。机に臥せて時を過ごす。
今日一日、学校は昨日の怪物騒ぎでもちきりだった。カイはそれらの話題には上の空で答えた。コウヤも話しかけてきたが、ちょっと疲れているとだけ言うと、課題の山のせいだと思ったらしく、二言三言ほど軽口を叩いて、そっとしておいてくれた。
そんな風に休み時間が終わりかけようとしていた頃。
見ていた教室の風景に、ノイズが走った。ノイズは視界に映る世界を乱す。
昨日の現象と同じ。クラスの生徒達は何も変わらない。喋ったりノートを見返したり、思い思いのことをし続けている。カイ以外は誰も気づいていない。
だが、昨日とは違って、光景に割れ目ができることはなかった。
ノイズだけが走り続け、やがてそれも収まった。
嫌な予感に、カイの背を冷や汗が流れた。
。
「また怪物だって!」
クラスの女子から上がったその言葉は、まさしくカイが予期していたものだった。
携帯端末でネットニュースが流れているらしく、他の生徒も口々に同様のことを言う。
カイは沈黙し、自分の席に座ったままでいる。
ソラの姿が頭に浮かぶ。続けて、彼女が変異して戦う姿も。
彼女はきっと怪物を倒すだろう。あの特別な力があれば、容易なことに思える。
そう自分を納得させようとしたが、やがて生徒達の話す内容に変化が生まれる。
「怪物が三体?」
誰かの声に、カイは凍りつく。
昨日の怪物は一体だけで、被害が出る前にソラが倒した。
だが三体。あの錆びた色の怪物全てに、ソラが対応できるという保証はない。怪物は甚大な被害を生むかもしれない。
あるいは、もし、あの怪物三体を、ソラが同時に相手をしたら。
彼女は勝てるのか。勝てなかったら、どうなる。
数秒間、彼は迷う。
それは何か二つを天秤にかけて、その揺れをただ見つめ続ける時間だった。
不意に、怪物と対峙したときの彼女の独白が、残響が聞こえた。
「分かる………やるべきことも、その方法も」
彼女はそう言った。
自分だって同じだ。本当は分かってる。
そこにある迷いを叩き壊すように、机に拳を叩きつけてカイは立ち上がる。
教室を飛び出し、走り出す。
後ろからコウヤの声が聞こえる。
「おい、どこ行くんだよ!」
振り返って、教室から顔を出した友人にカイは返す。
「早退したって、先生に言っといてくれ!」
数分前。
ソラの目の前で昨日と同じくノイズが世界に走って、そして割れ目ができて、そこにまた怪物が現れた。
そして念じると、彼女は白く変異した。
目の前に怪物は一体だけ。
白い戦士は純白の刀を出現させ、切っ先を錆色の怪物に向けた。
跳躍して高く舞い上がり、白い刀を振り下ろす。錆色の怪物はやすやすと切り裂かれ、断末魔を上げて、塵芥に還る。
そこで彼女は突然、背後から攻撃を受けた。
衝撃によって体が宙を飛ぶ。
着地して体を起こしながら見ると、目の前に怪物が二体。
いずれもこれまでのものと同じ姿であり、単体であれば苦労しなかっただろう。しかし、二体が同時に襲いかかってくるとなると話は別。必ずしも勝てるとはいえない。
「それでも……」
戦うことを止めるわけにはいかない。
赤い目で一方の怪物を睨みつけ、白い戦士が斬りかかっていく。だが、その隙にもう一方が突進してきて、体当たりされた彼女は体勢を崩した。刀が何もない空間を斬ったところで、もう一体の怪物の拳が脇腹を突く。
「ぐっ!」
ソラはわずかに呻く。
さらに体当たりしてきた方の怪物が、両拳を握り合わせて叩きつけてくる。白の戦士は刀でガードするが、体勢の悪さゆえに力負けする。
劣勢のまま、防御を強いられる状態が連鎖して、ソラの身体にダメージが重なる。
そして、怪物二体が同時に拳を繰り出し、それが彼女を直撃して、ついに大きく吹き飛ばされる。
「があっ!」
地面に叩きつけられて、肺から空気が全て逃げていくほどの衝撃を感じた。急いで立ち上がろうとするが、蓄積した疲労で力が入らない。怪物がゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。
「……やっぱり、一人じゃダメか……」
自分一人ではダメなのは、直感で分かっていた。
『運命の双子』は、二人揃って意味を成すはずだから。
だが、それでも片割れの彼に戦いを強要することはできない。
『運命は嫌い』と言った彼の声と瞳は、少なくともソラ自身と同等の頑なさで、だから彼自身を除いては誰にも砕けない信念だろうと理解した。
彼は来ない、間違いない。
理性ではもう諦めた。
それでも今、なぜかソラの心にはまだ絶望は無かった。
目の前の怪物は現実で、もう自分には戦う力すら残っていなくて、そして彼は来ない。
絶望の理由なら嫌と言うほど書き連ねられるのに、希望の理由は一つとしてない。
なのに。
その時、こちらに駆けてくる足音が聞こえた。
学園から走ってきたカイは、目の前に怪物がいるのを確認した。、そして、さほど離れていない場所にソラの姿も見えた。
「……俺がやらなきゃな」
ソラがこちらを見つめていた。何か問おうとしているようだった。だが、この場にいる二体の怪物もカイの方に既に気がついていて、目標は彼に切り替わりつつあった。。
今はただ、この状況を何とかすることを考える。
前日のソラの変異を思い出しながら、イメージを固める。確信はあった。
「いくぞ……うあああっ、ラアァ!」
裂帛の気合は、彼の体に変革を促した。彼の周囲に光が満ちる。彼を塗りつぶし、そして塗り替える。彼は白の戦士と同じ姿と、そして全く違う色を得た。
カイの体を、黒い線が走る。その紋様は所々枝分かれして、黒ではあるが微かに燐光のような光を発していた。そして、彼の瞳は深い藍色へと変貌する。
自分の変化に驚く暇もなく、カイはダッシュし、怪物二体が待ち構える方へ、突っ込んで行く。怪物の方もカイに向かって前進し、彼との距離はすぐに詰まる。
右拳を固めて、右の方にいた怪物を殴りつける。人間ではあり得ない力を乗せて打ち抜いた拳に怪物はよろめく。だが、その隙に左側の怪物が攻撃を仕掛ける。怪物の拳がカイに向かって突き出された。
その瞬間、カイは左腕を上げた。意識を集中し、ごく自然な流れに身を任せる。左手首の辺りから黒い光が発生し、怪物の拳を弾いた。動揺する怪物の前で、光は収束して形となる。
カイの左手に、手甲のように手首と一体化して、漆黒の盾が形成されていた。
そして、彼は怪物二体を相手に格闘戦を仕掛ける。挟み撃ちにされないように動き、敵の攻撃は全て左手の盾で弾き返した。
怪物にダメージが蓄積したところで、カイは跳躍した。
「らぁぁぁぁっ!」
最高到達点へ、そして下降。その勢いをで蹴りを放つ。
キックは怪物の片方に直撃し、叫んでそのまま塵と化した。
落下した体勢で地面に膝をついたカイに向かって、もう一方の怪物が迫る。
全体重のかかった怪物の突進を、カイはやはり盾で受け止め、衝撃ごと返した。のけ反った怪物の腹に、右手でパンチを打ち込む。拳が刺さるようにめり込んで、怪物は苦悶に満ちたうめき声を上げ、消滅した。
静かになった街で、カイは元の姿に戻った。
そして、しゃがみ込んでいるソラの元へ近づいていく。
「大丈夫か?」
「うん、問題ない」
そう言うが、ソラは立ち上がらない。そのままカイを見上げる形で、彼女の瞳から視線が注がれる。ソラは擦り傷のある顔を不思議そうに歪ませて、カイに訊ねた。
「どうして来たの?……『運命』は嫌いなんでしょ?」
その様子は、昨日から彼女を見た中で一番人間らしくて、カイは思わず笑ってしまいそうになる。笑えない現実だが、笑みは勝手にこぼれる。
「何がおかしいの?」
「いや…」
可笑しさのついでに、カイは言ってやることにした。言い訳ではなく素直に、ここに来た理由がある。
「運命じゃない……」
「えっ?」
「戦うことは俺が決めた……だから、これは、俺自身の選択だ」
驚いた表情のソラに、カイは手を差し出す。
彼女は一瞬だけ戸惑って、そしてその手を取った。
その瞬間、互いの中に何かが流れ込んでくるような、パズルのピースがはまるような、歯車が噛み合うような感覚を覚えた。
カイの手を借りたまま、ソラは立ち上がる。そして、彼女は微かな声で言った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
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