僕らは運命の双子

空殻

第1話

「…ひってきまーふ!」

勾坂カイはキシリグ孤児院のドアを開け、飛び出していった。

口の中には、まだ咀嚼しきれていない食パン。だから、威勢のいい挨拶も間が抜けたものになる。その声を聞いて、セシル院長は笑った。

「はいはい、気をつけていってらっしゃい」

その言葉を後ろに置き去りにして、カイは走り出す。

急がなければならない、食パンをゆっくり食う暇もないほどに。

当たり前だ。

普通に歩いたら二十分かかる場所にあるチャリオン学園。そして、カイはその学園の生徒で、授業が始まるまであと十分もない。だが、ほとんど全速力で走り続ければ、ギリギリ間に合う。

だから風のように走る。


走り続けて五分ほど。タイムリミットは近い。

パンを咀嚼しながら、というよりもほぼ噛まずに飲み下しながら彼は走り続けた。口の中の水分が一気に吸い取られた気がするが、朝食を食べないで学校へ行くことは院長が許してくれなかっただろうから、これでも最善の選択だったということになる。

走り続ける彼の視界には、ほとんどのものは注意を向けなくていいものとして映る。

もちろん通行人は避けて走っているし、赤信号なら止まる。だが、それらは反射的な行動に近く、少なくとも注意を向けるという感覚ではない。

そんな彼の世界に、突如として注意を向ける対象が出現した。

真っ黒の空の中で、不意に一番星が光り始めるように。


前方数メートル先に、一人の少女が見えた。

白い肌は日光の中で眩しく、その長い髪は風に揺れていた。

カイの視界の中で、少女の姿だけが目をそらせない焦点だった。ただ、その理由を彼は知らない。

彼女を視界に捉え続けながら、カイは走り続ける。視界の中で少女の占める面積が大きくなる。

少女が避けないので、彼の走りは左へずれる。

二人はすれ違う。

その時、彼の右耳に声が響いた。

微かな、この世界で彼しか聞き取れなかった、微かな響き。しかし、彼にだけは間違えようもないほどにはっきりと。


「見つけた」


第一声、だがそれが彼女の声であることは疑いようもなく、カイは振り返りたい誘惑に駆られる。

しかし、今彼が抱えている状況においては、可能な限り一時も足を止めるわけにはいかない。奇妙で脈絡のない感覚に身を任せることを理性が阻んで、彼は振り返ることもなく駆け抜けていく。

それに、振り返っても彼女はもういなくなっているような、そんな予感がした。

暁の星のように淡く、消え去っているのではないかと。



チャリオン学園の正門を通過したのが、授業が始まる約1分前。

そして、教室に入ったのは、始業のベルが鳴り終えたその瞬間だった。

騒音を立てて教室のドアを開けたカイを、怒鳴り声が襲う。

「おい、勾坂!遅刻だぞ!」

教卓に立った教師の怒鳴り声だった。

九条サイ、歴史の教科担任、そしてカイのクラスの担任でもある。

「先生、セーフですよね?」

「何がセーフだ!ベルは鳴り終わっている!」

「いや、鳴り終わるのと同時に入りました」

カイは必死の抵抗を試みるが、しかしそれは状況を悪くするだけだった。そのことにカイが気付いたのは、九条の眉間のシワが深くなっていく。

「あのなぁ……普通に考えて、『ベルが鳴り終わらなければとにかくセーフ』…そんなことになると思うか?」

「いや、でもあの……」

カイの表情が凍り付く。

「はぁ……朝から疲れるのは勘弁だ。いいから席につけ、授業が始められない」

「あっ、はい!」

諦めたようなその言葉に、カイは勝利を確信した。続く言葉が聞こえるまでは。

「お前に追加する宿題は、あとでまとめて伝える」

「え、ちょっと…」

教室に忍び笑いが満ちていくと同時に、教師の朗々とした声が響いて一日は始まる。



昼休み。

「はあ……勘弁してくれよ、もう……」

ぐったりと机に突っ伏して、カイは大きく溜息をついてぼやいた。

「そんなに宿題追加されたのか?」

聞いてきたのは前の席に座る新田コウヤ。

「ああ、見てくれよ」

カイはそう言って追加された宿題のリストを見せる。

「うお……『まとめて』って言ってたけど、ホントにまとめないといけないほどの量だな」

「冗談じゃないって……」

疲れ切ったカイに、リストを返しながらコウヤは言った。

「まあ、しょうがないんじゃねえの?お前、遅刻してばっかだし」

「ホント他人事だよな」

「本当に他人事だからな」

そう返されて何も言えない。遅刻ばかりで学業成績はパッとしないカイに対して、コウヤは成績がいい。カイには、彼がそんなに勉強熱心でないように見えるのがやや不満だ。


だが、今日もまたカイは勉強に身が入らない。

朝からずっと、奇妙な感覚が続いていた。

視線を感じるのだ。こちらを、じっと見つめる目の存在。

ふと感じるその度ごとに周りを見るが、視線の正体は分からない。



もやもやとした疑問は解消されないまま、授業が全て終わった。コウヤが遊びに誘ってくれたが、今日はパスする。用事があるのだ。

キシリグ孤児院の料理や掃除などは、当番制になっている。今日はカイが夕食の当番で、予算内で食材を買って、帰って料理をしなければならない。おまけに例の罰課題もある。今日からでも取りかからないと終わらないだろう。



だが、帰るために校門を出たところで、彼の予定は一瞬で崩れ去る。

下校する生徒達の群れと共に校門を数歩出たところで、すぐに気付いた。

群衆の中でも彼の目は、一点に吸い寄せられる。

今朝と同じように。

視線の先に、例の少女がいた。


相変わらず周囲の世界から浮いたようで、そして相変わらず、少女は彼だけを見ていた。

そして少女が近づいてくる。非日常が近づいてくる気配だった。

カイは逃げるのも変だと思い、かといってこちらから近づくのも気が引けて、結果としてただ突っ立っていた。

少女はカイの目の前で立ち止まり、その唇が開いた。


「見つけた」


紡ぎ出された言葉は今朝と同じで、ただ異なるのは彼女が目の前にいて、すれ違いなどなくこの場に留まっているということ。

カイは何か訊ねようと口を開こうとするが、言葉に詰まる。それを察してかそうでないのか、ともかく少女は突然言った。

「君だった……」

「え?」

思わず出た声は、間の抜けた疑問符の響きだった。

お構い無しに少女は話し続ける。

「今日一日、君を見ていた。そして、今目の前に立って確信した……やっぱり君だった」

矢継ぎ早に出される言葉は、相手の疑問など関係無しに、ただ事実だけを告げる声。機械のシステム音声に似ている。

数秒の間があって、カイがようやく頭の中の疑問をまとめ終える。

「今日感じた視線は、君だったのか……」

それは問いかけではなく、半ば認識を確かにするための独白に等しかったが、彼女は律儀に頷く。

「ええ、きっとそれは私」

「なぜ?」

「確認したかったから」

「何を?」

「探していた『運命の双子』の片割れが、君であると」

キャッチボールとはとても言えない会話にため息をついて、それからカイは思案する。

そもそも、この少女が言っていることがまだよく分からない。もっとよく話を聞かなくてはならないが、聞いたところでおいそれと納得できるとは限らない。そして、この後の買い物予定を考えると、あまり時間を無駄にはできない。

「話を聞くの、歩きながらでもいい?」

カイの問いかけに、少女は黙って頷いた。



それから、カイと少女は並んで歩き始めた。急いでいるカイはやや早足なのだが、少女はそれを気にする風もなく、同じペースでついていく。

「……私は君に、一緒に戦ってほしい」

物騒な言葉であり、浮世離れした言葉でもある。要するに、カイにとっては意味が分からない。

「話が見えないな……先に、俺に質問させてくれ」

「……分かった」

理解を得るためと考えたのか、少女は同意した。

「まず、俺達はまだ互いに名乗っていないだろ。俺は勾坂カイ。君は?」

「私はソラ、來葉ソラ」

「くるは…そら?」

少女は頷く。

「ソラでいいよ」

「そうか、じゃあソラさんに聞きたい。『運命の双子』って、何?」

「運命的な結び付きを持った二人、つまり君と私」

「抽象的だな……」

この答えではほとんど追加情報は手に入らない。

「……その運命的な二人ってのが、どうして俺と君だと分かる?」

「分かるものは分かる、魂がそう告げてる」

「無茶苦茶だ」

「そう?」

「無茶苦茶だ」

同じワードを繰り返して、カイは大きくため息をついた。

埒が明かないとはこういうことを言うのだろう。言葉は通じているのに、こうも会話に隔たりがあるとは。

「……で、仮に俺と君がその……『運命の双子』だとして、俺は何をすればいい?」

半ば投げやりになりそうな自分の心をどうにか抑え、少しでも情報を得るために問いを繰り返す。

少女は答えた。

「さっきも言ったように、私と一緒に戦ってほしい」

今度もシンプルで、文脈もディテールも無い、抽象的な答えだった。

「その話に戻るのか……」

「そう、私は君に、協力してほしい」

「戦うって……何と戦うっていうんだ?」

「化け物」

「え?」

ソラという少女と出会ってからこれまでのわずかな時間で、カイはいくつもの質問を重ねたが、今度の疑問符は、単に理解できないがために発せられた、感嘆符に近いものだった。

「聞こえなかった?化け物だよ」

「それはまた、ぶっ飛んだ話だな……」

ようやくのことで、そう返すしかない。あまりにぶっ飛んでいて、真偽の判定すらできない。

ただ一方で、彼女は少なくとも、嘘をつこうとしてはいないと思った。それこそ文脈もディテールも無い、抽象的な判断でしかないのだが。こんな嘘をわざわざつくだろうかという、いくらか理性的な判断も混じっていたのかもしれない。だが、判断の主成分はやはり、ただの感覚だった。

「……化け物って何だ?それに、俺が何をできるって言うんだ?」

「それは……」



少女が答えようとしたとき、世界に異変が生じた。

カイの視界の中で、空間にひび割れができたかのようなノイズが風景に描かれる。

「な、何だよ、これ!」

カイは叫ぶ。

だが、周りの人間は皆、数秒前と同じように歩いている。

横を向き、隣の少女だけが自分と同じものを見ていると悟った。

今、世界に走るノイズが見えているのは、きっと二人だけだ。

見ているうちに、ノイズの中に割れ目が見え始め、そしてそれはあっという間に広がった。

そして、空間そのものが薄っぺらい紙か何かであるように、割れ目はぱっくりとこじ開けられる。



そして空間を突き破って現れる、人型の存在。

ただし、それは決定的に人ではない。つまりは二本脚の直立歩行で腕が二本あるという意味でしかない『人型』だ。

現れた化け物は、錆びた色をしていた。赤と茶が混じり合って、微かな金属の輝きを保とうとする色。ただし、怪物は錆びた金属に似た色はしていても、決して機械のようではない。生々しいほどに生物的な、筋肉の浮き上がる体。昆虫の外殻のような、硬そうな鎧に覆われている。

その怪物の姿が完全に現実になると同時に、世界の割れ目もノイズも消失した。そしてただ、怪物だけが残った。


先程まで世界の異変を全く感知していなかった周りの人々も、怪物は見えるらしく。悲鳴が上がる。

「うわ……あああ!」

カイも彼ら同様に悲鳴を上げた。

他の人々と違って、彼は怪物が出現するプロセスを目撃しているが、その間は、目の前で起こっていることを受け入れられず、声一つ上げることができなかっただけだ。

今、恐怖を思い出したように、彼はありったけの声で叫んでいた。



それから反射的に傍らの少女を見ると、彼女の表情はわずかに険しくなっていただけだった。

恐怖はなく、もちろん叫んでもいない。ただ、その視線は怪物を真っすぐに見据えている。

思わず、カイは逃げる足が止まる。怪物よりもその瞳の光の方が、余程異様なものだったのかもしれない。

「………あれだよ」

ソラが低く呟いた。

「あれが、私達が戦うべきもの」

「何を言ってるんだ!何でそんなことが………」

「分かる」

ソラは迷いなしに答えた。確信に満ちた答えに、問いかけた方が躊躇ってしまうほど。

「戦う………」

彼女の声があまりにも当然のような響きで、それゆえにカイはなぜか、悲痛に似たものを感じてしまう。物語や神話の、『天命』に突き動かされた挙句に悲劇的な死を辿る人間。目の前の彼女も、そういう類いの存在に見えてしまうからだろうか。

錆色の怪物は、その目をこちらに向けていた。

カイはもう、逃げる足すらすくんでしまう。

一方のソラは怪物の視線に、その鋭い瞳の光で返した。


「分かる………やるべきことも、その方法も」

そう独白したソラは、一度その目を閉じた。

そして、何かに集中するような、あるいは祈るような一瞬の後に、彼女はまた目を見開く。

ただ一言唱える。

「変異」

その言葉が引き金となるように、彼女の周囲に白い光が満ちる。その白にソラの輪郭は一瞬掻き消され、それからまたすぐに戻る。

ただし、再び見えたその姿は、まさしく『変異』していた。

ベースはあくまで彼女のまま。ただ、刺青のような白い線が、枝分かれしながら彼女の全身を走っていた。そして、眼は燃えるような深紅に染まっている。

ソラは、その『変異』が完了した直後には、大きく地を蹴って前方に跳んでいた。人間では到底あり得ない距離を跳び、一瞬で怪物との間合いが詰まる。

そして、怪物の腹部めがけて拳を突き出した。怪物は防ごうという素振りを見せたが、一瞬間に合わず、拳は腹に入る。

悲鳴のようなざらついた不快音を発して、怪物を怯む。そこにさらにソラはもう一発。今度の拳は胸を打った。

そうやって怪物に数発パンチを浴びせて、ダメージを重ねる。



ソラと、錆色の怪物と、そしてその両者の戦いを呆然と眺めるカイの他には、周囲に人はいない。

「何なんだ……これ……」

カイは呟く。

謎の少女が現れ。空間を割って怪物が現れ。少女が異形に変身した。

今日一日が長い夢か。だが、目はちゃんと覚めていて、白昼夢であるはずはなかった。。だから、どれだけ不思議でも、どれほど虚構めいていても、目の前の光景は確かに現実だった。

今、ソラは怪物とは一度距離をとり、それから右手を軽く開いて、右腕ごと前に突き出した。

その手の掴むものは虚空のはずだ。だが、右手は確かに何かを掴んでいる。握った場所から白い光が生じ、光が消えるとそこには剣が現れていた。

真っ白な柄と、それよりもさらに白く輝く刃。

片刃の剣…刀と言う方が適切かもしれないその得物をソラは構えた。

そして、彼女はまた走り出し、駆けながら白い刀を振り上げる。

怪物は反応しようとするが、受けた痛みが積み重なっているためか、動きが鈍い。

白い戦士が怪物の懐に到達するのと、刀を振り下ろすのは同時だった。

その一撃は、怪物の甲殻を容易く切り裂いた。

さらに、振り下ろした刀の軌跡を変化させ、素早く水平にまた斬る。

「ガアァァァ!」

怪物が初めて上げた声は、断末魔だった。

切り刻まれた怪物が塵芥となって消えていくのを見届け、少女は元の姿に戻っていく。

あの人外の怪物と少女が戦うなど、先程までは想像もつかなかったが、今は理解できた。

彼女の瞳が宿す鋭い光は、怪物を切り裂いた刃の煌めきのようだった。

尻餅を着いたままのカイに、少女は手を差し出した。

「立てる?」

「あ、ああ。ありがとう」

手を借りて立ち上がるが、今はこの動作が不自然に思えてきてしまう。この少女にはこんな風な、人間の温度が伴う動作は似合わない気がした。

「これが、私達が戦うべき相手」

少女は先程の言葉を繰り返した。さも当然というように。



「私と戦って。それがあなたの運命」

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