10.見極めの最終日

「すみません、病を診てほしいのです」


 下級役人の身なりをしていて、典薬寮てんやくりょうという役所へ足を踏み入れてよいものかとばかりに、頭を深くさげつつ入ってくる。


「腕のよい呪禁師じゅごんじさまがいるときいたのです。昨日、辻で倒れていた男を手の光で治してしまわれたと――」


 昨日、辻で、倒れていた男を、手の光で――。


 心当たりがあったものの、緋鳥ひとりはぽかんとして、首を横に振った。


「腕のよい呪禁師って――たまたまです。わたしはまだ呪禁生で……」


 緋鳥の小声をさえぎるように、白兎はくとはやってきた男を出迎えて、緋鳥の肩に手を置いた。


「それなら、この子ですね。この子は病気平癒の祓いが得意なんです」


 男は緋鳥に向き直ると、姿勢を正して深く頭をさげた。


「この娘さんが――。じつは、友人を診てもらいたいのです。昨日から熱がさがらなくて、水も口に入れなくなってしまって。うわごとのように同じことをくりかえしているので、怨霊に憑かれたせいかもと――」


「なるほど、それはたいへんだ。――ところで、典薬寮に依頼をするには木簡がいるのですが。見たところ、お持ちではなさそうですね」


 男は手ぶらだった。白兎からいわれると、男は「そうなのですか」と、からっぽの手を残念そうに見下ろした。


「すみません。知らなくて……貴族さまでなくても頼むことができるときいたので、つい――」


 鳳凰京で典薬寮になにかを依頼するには、記録用の木簡が要る。


 それは、きまりだ。


 でも、下級役人や庶民はとくに、おのれを取り巻くきまりしか知らないのが普通だった。


 白兎はにこりと笑って、筆記机のそばにつみあがっていた木簡と筆を手にとった。


「ええ、そのとおり。では、私が代筆しましょう」


「本当ですか」


 ぱっと目を輝かせる男に白兎はうなずいて、「場所は」「病はどんなふうですか」「どんな方ですか」とひととおり聴きとって、さらさらと木の面に筆を走らせた。


「なるほど。――ここには多くの依頼が集まるので順番待ちになることも多いのですが、ちょうどいまは呪禁師が増えていて、すぐにいけそうですよ」


 字を書き終えると、白兎はそのまま緋鳥へと木簡をさしだした。


「はい、緋鳥。つぎの仕事だよ」


 木簡には、こんなことが書いてあった。


『西市場、八条大路辻の近くに怨霊に憑かれた人あり。急ぎ確認せよ』


 そろそろと手をのばして木簡を受け取りながら、緋鳥は苦笑した。


 ――これなら、できる。


 さっき白兎がいった「簡単な依頼」の類だ。


 どう息巻いたところで緋鳥は、昇進への見極めまっただなかの、新米にもなれていない呪禁師見習い、呪禁生。


 難しい依頼は白兎や先達に任せて、まずは自信をもってできる仕事から。


 それが、布に水が染みゆくように、心にゆっくり沁みていった。


「それにしても、すぐに腕が認められるなんて、たいしたものだね。それで、緋鳥。私はいかなくてもいいよね?」


「うん?」


「病気平癒は得意でしょ? 一人で任せても大丈夫だよね。頼んだよ」


 前に出かけた時は、白兎と一緒だった。


 緋鳥が見立てを誤ってもどうにかできるように、白兎がついてきてくれたのだった。


 じっと見下ろしてくる白兎の両目は、こういっていた。



 ――緋鳥の腕を信じたよ?

 ――一歩ずつ、一歩ずつ。急がなくていいから、腕を磨いていきなさい。



 緋鳥の顔に、むずむずと笑みが浮かんだ。


「はい、いってきます」


 これが、いまやるべきことだ。


 呪禁師がすべきは人を救うことで、厄介な謎を解くことではないのだから。





 一日が過ぎるごとに細くなっていく月を見あげ続けて、六日後。


 緋鳥にとっては長い長い半月が終わり、月の出ない朔の日がやってきた。


 緋鳥が呪禁師になるための、見極めの終わりの日だ。


「やっと、終わった――」


 見極めのための考課の内容はふたつ。


 ひとつは、出仕の日数だ。


 官人のお勤めのはじまりは、都に朝を告げる守辰丁しゅしんちょうの鼓が鳴らされる早朝。さだめられた刻限までに持ち場につかなければ、遅刻となる。


 休みも呪禁生以上に厳しくさだめられていて、呪禁師であれば休みは六日に一度だ。


 呪禁師になった後も、遅刻や欠勤が多ければ格下げなどの処分を受けるが、呪禁師にもなっていない昇格の見極めのあいだとなれば、遅刻もずる休みも厳禁。


 というより、出仕の日数が足りなければ、見極めそのものをしてもらえないのだ。


 半月のあいだの緋鳥のふるまいを書き留めた木簡を並べて眺めつつ、白兎はにこりと笑った。


「出仕については問題なし。がんばったね」


 呪禁生のうちなら、少々の遅刻やずる休みの代償は居残りや追試だったけれど、見極めのあいだにしでかしてしまえば即落第だ。


「よかった――」


「つぎに、お勤めの内容だが――やや態度が悪かったが、後半はよくがんばったね。及第だ」


 一番気にしていたところが、そこだった。


 官人らしからぬ素行の悪さを叱られたことは多々あったが、どうにか踏みとどまった。


 試験のあいだだけでもおとなしく、と心がけたせいもあったけれど、「いまやるべきこと」をやり続けていれば、おのずとまじめに暮らせるものだ。


 我慢のならないものでも、呪禁の道のためなら我慢が効くのである。


「よかった――」


「おめでとう。では、呪禁師になる挨拶をしにいこうか。鳳凰ほうおうのもとへいこう」


 とうとう、その時がきた。



 ――鳳凰京というのは、大きな火の鳥が守る都なんだよ。

 ――鳳凰といって、その霊獣のお世話をする人を、呪禁師というんだ。



 幼いころにそうきいて、緋鳥が一番楽しみにしていた呪禁師の仕事だった。






 その霊獣は、南にいる。


 鳳凰京の南にそびえる天鳥山あまのとりやまの頂に祭壇があって、月の出ない朔の晩になると、その霊獣の世話役をになう呪禁師が捧げものを届けにいくのだ。


 たそがれ時を待って、白兎は緋鳥をつれて典薬寮を出た。


 鳳凰京の南門にあたる羅城門をくぐり、野道をいき、山を登る。


 さほど高くない山なので、ゆっくり登っても、天を茜色に染めていく夕焼けよりも先に頂に着いた。


 暗くなりはじめた空には、星の白い明かりがひとつ、ふたつとまたたきはじめていた。


 山の上から振り返ると、鳳凰京が見下ろせる。


 天鳥山は、「京見の小山」とも呼ばれる国見の丘だった。


「わあ――いい眺め」


 盆地に築かれた鳳凰京は、山々の手のひらにそうっとすくいあげられた豪華絢爛な宝のようだった。


 鳳凰京の中でも、帝が暮らし、大勢の役人が勤める官衙のある白鳳宮は柱や扉が朱に塗られているが、夕時のいまは都すべてに同じ色が塗られたように、真っ赤な光に包まれている。


「いい夕焼けだね。こんな日は、きっとくるよ」


 白兎も同じ夕景を見下ろして、笑った。


 鳳凰京の四方には、都を守る霊獣が棲んでいるのだという。


 霊獣の世話は神祇官の役目だが、天鳥山に祭壇をもつ霊獣の世話だけは、呪禁師がうけおっていた。


 その霊獣が炎をまとっていて、呪禁師以外に近づけないからだ。


 霊獣の名は「鳳凰」という。


 鳳凰京の南方を守護する聖なる獣だ。


 鳳凰というのは、海を渡った先にある大陸にすむ五色の瑞鳥のことだ。


 朱雀すざくという神獣や、彼方の国には不死鳥という炎の鳥もいるそうだが、鳳凰京を守護する「鳳凰」はそのどれでもなかった。いくつもの霊獣、神獣の姿をあわせもっているふしぎな鳥なのだとか。


 名前がわからないので、その霊獣が守る鳳凰京の名から「鳳凰」と呼んでいるそうだ。


 天鳥山の頂に設けられた石の祭壇に、運んできた笹の葉や果実を並べ終わったところだった。


「――きたね。熱い? 緋鳥なら大丈夫だよね」

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