第9話 潜水艦内での再会

一九四五年三月十八日午後二十一時四十分


「浮上準備」


 深夜、潜水艦は浮上してディーゼルエンジンを動かし、水上航行をするとともに蓄電池を充電しなければならない。昼間は潜行して、蓄電池に蓄えられた電力で艦内の動力を維持する。危険を避けるため、笠原艦長の方針は徹底していた。敵駆逐艦などとの不意の遭遇、哨戒機から発見されることを避け、夜は進み、昼は潜る。昼はスクリューをも停止し、ただ潜るのみ。稼働させる機器は必要最低限度に留め、必要のない人員は交代で眠らせた。外の空気が吸えるのは夜の浮上した十分間だけ。北条らも長い日中はひたすら眠ったり、国や家族の事を考えたり、作戦の事や、自身の死について考えた。

 潜水艦の中は噂にたがわず、劣悪だった。臭いがひどい。燃料の臭い、人間の排せつ物の臭い、カビの臭い。それ以上に艦内温度が高く、湿度も高いため、まるで四六時中温度の低いサウナに入っているようだった。北条たちも艦内にいる時は酸素消費量を減らすためになるべくベッドで寝ていることが多かった。



「いいか、皆! 持ち時間は十分だ」

「了解!」


「君たち、いいぞ。十分だ」


 潜水艦員がハッチを開けた。


「有難うございます」


 そう言うや否や、佐野を先頭に司令塔の梯子を上り、ハッチの外へでる。潜水艦後部甲板に移動し、訓練を開始する。


「腕立て五十回開始! 二分以内に終わらせろ。いいか、二分以内だ。終わったものから、スクワット五十回、これも二分以内。そしてバーピージャンプを四分間続ける。これは同時に行う。終了したら脈拍を数えて記録する。息を整え、艦内に戻る前には脈拍が百以下になるのを確認しろ。汗をかいている場合はふき取ることを忘れるな!!」


「ひえーっ、厳しい!」


 武田はそういうが、難なくこなしていた。佐野はそれを見て取ると、自身も腕立て伏せを行いながら、武田に向かって激を飛ばした。


「武田、貴様は負荷が足りない。さらに腕立て三十回追加!」


 司令塔に上がり、見張りをしている海軍乗組員たちは、叫び声を上げながら訓練をしている北条らを、怪訝な顔で見つめていた。


「艦長、何なんでしょうかね。あいつら」

「どういう意味かな」


 笠原も自ら双眼鏡を持ち、四方を警戒している。波は穏やかで、月がでていた。今夜はほぼ満月なので、警戒を強めなければならない。月明りの中、潜水艦員は交代しながら、煙草を吸ったり、体操をしたりしていた。


 北条たちの持ち時間も十分間であり、他の潜水艦員と変わらない。その間は全て体力維持のための訓練に充てるのだった。その訓練は乗組員からすれば、一種の狂気じみて見えた。


「アメリカで何をするかはわからないですが、まるで可笑しな奴らですよ。陸軍ってのは、誰も彼もあんな感じなんでしょうかね。うちの者が奴らをなんて言っているか、知っていますか?」

「いや、知らないな。なんと言われているんだ?」


 笠原は双眼鏡から目を離さず、聞き返した。


「『消防隊』ですよ。浮上したら、真っ先に出て、あれですからね」


 笠原は苦笑する。


「何かやるさ。 何かを成し遂げる人間というのは、わき目もふらず、ただ真っすぐに進んでいくものだ」

「そういうものですかねぇ」


 そう言っている間にも佐野の怒号と隊員達の悲鳴が聞こえた。


「おらっ! 休むな! バーピージャンプだ! 四分間連続して行う」


 この運動がきつい。日本での体力増強に取り組んでいたため、全員こなせるようになってはいたが、潜水艦に乗り込み始めてから、充分に体を動かす機会が不足している。北条も自身の運動能力の衰えを懸念していた。


「こらー! 今川! 気合を入れろ!」


 佐野が今川を叱責した。


「ひいいい」


 太田がへばり、喘いでいる。


「き、きつい」

「おら、眼鏡ザル!やらんか!」


 太田は佐野から叱責を受け、ペースを上げる。驚くべきことに佐野はこの隊員の中では最も高齢だが、体を鍛え上げ、北条たちと同様の訓練を自分に課していた。性格が合う合わないはあろうが、佐野が口先だけの人間ではないことは、隊員全員良く分かっていた。


「よし、終了!」


 やはりバーピージャンプ四分間連続で行うことはかなりきつかった。全員大きく息を弾ませている。訓練直後の脈拍の計測を行い、チャートに記載。佐野は計測を終えたものから、チャートを回収し、ノートに記録していた。


「次にこのうまい空気が吸えるのは、明日だ。深呼吸してたっぷり新鮮な空気を吸っておけ」


 佐野がそう言って、自身も深呼吸を始めた。残り一分。北条は脈拍を計測しつつ、息を整えながら夜空を見上げた。満点の星々。月明り。


「綺麗ね」


 長尾が横で呟いた。北条と同じく、長尾も脈拍を測っていた。


「そうだね」


「こんな綺麗な星の下で私たち殺し合いをしているのね」

「本当だ。なんて馬鹿なことをしているんだろうね」


「私最近昔の夢をみるの。楽しかった頃の」

「そうなんだ」


「私達、未来がないから、過去の事を、楽しかった思い出をみるのかな」


 北条は長尾に答えなかった。いや、答えられなかった。北条も自身の死を受け入れられてない。今夜も葛藤することになるだろう。潜水艦での何もすることのない長い時間が自然とそうさせるのだった。


「よし、時間だ! 艦内に戻るぞ!」


 佐野がそう告げる。潜水艦乗組員達もぼつぼつ帰り始めた。次の隊員が待っているのだ。北条らも佐野に促され、ハッチを目指して歩いた。北条は星空を今一度見上げる。次に見られるのは翌日、深夜だ。


 司令塔のハッチから潜水艦内に潜り込む。佐野、今川、太田、武田、北条は先に兵員室に向かっていた。長尾が潜水艦内に戻る途中、潜望鏡室で笠原艦長から呼び止められた。


「君、長尾さんじゃないか?」

「えっ」


 長尾は少し驚いて立ち止まった。


「ほら、覚えてないかな。東京の安藤家で会ったことがある。確か安藤さん、松田さん、ハヴィランドさんと一緒にいたよね」


 笠原は軍帽を取り、長尾に話しかける。髪は坊主刈りになっていた。


「ええ。私達友人です」


 長尾は慌てて胸のポケットからいつも眺めている写真を取り出した。確かにその中に笠原の姿があった。現在は坊主刈り、口髭を生やし、痩せているため、これまで全く気が付かなった。長尾の驚きに、笠原は苦笑した。


「潜水艦では水が貴重なんでね。髭は皆剃ってない。艦内はこんなに黴臭いし、缶詰の食事が多いので、痩せてしまう」


 笠原は顎髭を摩りながら言った。


「潜水艦乗りになられたんですね。本当にすごい偶然です」

「今は潜水艦だけでなく、そもそも海軍で動いている船はあまりないからね。君が乗り込むのが潜水艦となれば、合流する確率は高かったよ」


 笠原は作戦の詳細は聞かされていない。しかし、隊員の風貌から、民間人に紛れての偽装工作であることは察しがついていた。そして片道切符の作戦だということも。だからこそ、その中に女性が、長尾が居たことに心底驚いていた。笠原は長尾に話したい、伝えたいことが山程あった。


「実は僕は安藤 美沙さんと結婚するんだ」

「ええっ!」


「まあ、こういう時世だからね。周りからもせかされてしまって」

「そんな。おめでとうございます」


「うん。有難う」


 長尾はまた皆で会おうねと言えない自分が辛かった。笠原も長尾にかける言葉がないのだろう。長尾に将来はないのだ。そして笠原自身も生きて帰れる可能性は限りなく低かった。長尾らを米国に送り届けたその後、笠原は欧州に向かうことになっていた。しかも北極海を突き抜けて。


「ご武運を」


 笠原はこれしか言えなかった。


「笠原艦長も」


 長尾はそう言うと、兵員室へ戻って行った。長尾は振り向かない。笠原はやり切れない思いを振り払うように再び軍帽を被り直し、潜水艦任務に戻っていった。



ロサンゼルス近海 米国太平洋時間一九四五年四月一日午後十時四十分 


 長尾は微睡んでいた。日に当たらない生活なので、昼夜および曜日感覚が消失していた。一日一回夜間に運動する以外はベッドにいる。潜水艦の中では長尾らは何の役にも立たない、ただのバラストに過ぎない。


 遠くで潜水艦の機械音がする。凄まじい臭気だが、もう気にならない。胸のポケットからいつもみる一枚の写真。自分の人生で最も輝いていた頃。長尾は新潟県で生まれた。父は新潟で貿易商をしていた。祖父の代からロシアとの交易で財を成したという。若き日に英国へ留学した時、母と出会い、そのまま結婚したという。しかし、日本の他の男性と同様、やがて愛人を有し、それを誇ってもいた。その破天荒な生活は流石に当時の日本であっても祖母も咎めるほどだったが、父はその生活を改める気配は無かった。

 カトリックを信ずる母はやがて精神を病み、長尾が十二歳の時それは起こった。学校から帰宅すると、長尾は使用人達に挨拶され、真っ先に母の部屋に向かう。母は感情の起伏が殆どなくなり、床に臥せることが多くなっていたが、娘が帰る度微笑みを浮かべて迎えるのだった。長尾は一日の出来事、楽しかったこと、悲しかったことをまるで日記のように母に語って聞かせた。やがて暗転する思い出。病魔が蝕み、美しかった母はみるみる衰え、見る影もなくなった。


(お母さん)


 長尾の夢は突如艦内に響き渡る警報音で破られた。米国に到着したのだ。


「暁部隊射出準備願います」


 潜望鏡を覗き込み、周囲に敵艦艇がいないことを確認した笠原は伝令管を使って暁部隊隊員にそう伝えた。隊員は速やかに前方部魚雷発射管室に集結し、潜水具に着替え始める。いよいよ潜水し、米国本土へ上陸するのだ。

 

「水深二十メートルで固定。暁部隊準備宜しいでしょうか?」


 笠原は佐野に確認した。


 「全員準備完了。いつでも出れます。本作戦に関する大日本帝国海軍並びに貴官および乗組員の協力に感謝いたします」


 佐野は笠原に丁寧に礼を言った。。


「ご武運をお祈りしています」


 笠原はそう佐野に伝えた。


「あ、長尾さんは、長尾伍長は今話せますでしょうか?」

「長尾です」


「知咲ちゃん、美沙に何か伝えることはないか。まあ、僕も生きて日本に帰れるか分かりませんが・・・」

「皆で一緒に遊んだ、あの頃が一番楽しかったと伝えて下さい。笠原さん、笠原艦長。どうか生きて、生き抜いて日本に帰還してください」


「分かった。ご武運を」


 もはや言葉はいらない。警報音がなり、総員最終的な準備に取り掛かる。佐野は一同に上陸作戦計画を今一度確認した。


「いいか。これから我々は潜水艦魚雷発射管より出撃する。現在現地時間で夜間。ただでさえ闇の中である。しかも水深二十メートルの海中からの出撃なので、視界はゼロだ。よって全員にヘッドライトおよび右腕に赤ライトを付けて単縦隊形で潜水移動する。ロープをそれぞれに結紮するので一定の間隔を取り、はぐれないようにしろ。何か異常があれば、直ちに俺に連絡。上陸直前には照明を俺の指示で一斉に消せ。全員が消灯した事を確認後、上陸。上陸後、浜辺に穴を掘り、潜水具を埋める。それと同時に現地の草部隊に打電し、指定の場所、時間で合流。武器を始めとする物資、移動手段であるトラックを受領後、速やかに東部へ移動開始。上陸後二時間以内に全てを終わらせる。何か質問は?」


 質問は無かった。この計画は何度も推敲し、それに従い訓練しており、全員が把握していた。作戦確認後、全員が潜水具と共に魚雷発射管に入る。


「注水!」


 魚雷発射管内に冷たい海水が一気に注水された。北条は真っ暗な狭い空間で身動き出来なかったが、潜水具の不具合が無いことを確認し、一安心する。ヘッドライトおよび右腕の赤ライトを点灯させた後、魚雷発射管を出て、真っ暗な海中を泳ぎ始めた。その他の隊員のヘッドライト、右腕の赤色ライトを確認。佐野を先頭に単縦隊形を組む。海中に並ぶライトが夜光虫のようで美しい。全員静かに海中を進んだ。やがて先頭の佐野が停止、ライトが消された。もう浜辺に近いようだった。佐野に倣い北条らもライトを消した。北条らは一九四五年四月一日午後十一時三十分、米国本土の土を踏んだ。



「とうとう、米国に上陸してしまった。ああ、もう帰れない」


 今川が天を仰いで嘆いた。


「全くだ。人生上手くはいかないもんだ。この作戦までに戦争は終わらなかったな」


 武田が笑いながらそう言った。


「ここまで来たら、もう腹を括るしかないでしょう。後は立派に死ぬだけです」


 と言いながら、今川は半泣き状態になっていた。


「よし、全員潜水具を脱げ! 急げ!」


 佐野の命令下、全員潜水具を急いで脱ぎ捨て、予め用意した民間人の服に着替えた。多少濡れているのは仕方がない。その後、潜水具を一か所に集めて砂浜に埋める作業を行った。


「深く掘れ!」

「了解!」


 武田、北条、長尾が折り畳みスコップを用いて、懸命に穴を掘った。

 それと同時に草部隊に打電する準備をした。


「太田、草部隊に上陸成功と打電しろ。我が部隊との合流時間、場所の指示を依頼」

「了解。鍵を下さい。今川さんも」


 指揮官である佐野と次席指揮官の今川が鍵を太田に渡す。二つの鍵を同時に使用しないと、通信機が起動できない。太田はその二つの鍵を同時に使って通信機を起動し、草部隊に打電した。

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