第6話 ブラックハウス

一九四五年二月十四日午前六時五十分


 連日の激しい訓練だったが、北条達は全員その訓練に耐えた。北条達の戦技上達は早かった。しかし戦況の悪化はもっと早かった。


 昭和十九年六月十九日から二十日のマリアナ沖海戦で海軍機動部隊は壊滅。マリアナ方面での制海権を失い、サイパン島は七月九日には失陥。陸軍大臣および参謀総長を兼務する東条英機が七月十八日に総辞職した。十一月日本本土空襲開始。


 訓練は繰り上げられ、終了が早められた。その理由は戦局の切迫。日本本土への連日の空爆が始まり、兵器の生産が滞り、さらにもっと恐ろしい自体が起こっていた。近代軍隊の血液、すなわち燃料の枯渇である。燃料がなければ近代的武器の運用、訓練はできない。もう一刻の猶予もなかった。訓練はいよいよ最終段階に入った。



「この建物は『ブラックハウス』。内部および外観、庭も含めてホワイトハウスに準じた作りになっている。ここで貴様らは最終演習を行う!」


 佐野は隊員一同を前に厳しい表情で言った。宿舎より山中にさらに入ると、森を切り開いて作られたかなり広い平地があり、そこに黒い巨大な洋館があった。通称『ブラックハウス』。本作戦演習の為に建築された洋館である。内部構造は米国ホワイトハウスに準じて設計、建築されているが、航空偵察、爆撃機からの偽装のため、外観は黒く塗装されていた。



「最終演習の説明を行う。ルールは簡単。ブラックハウスの中に入り、三階の大統領執務室にある旗を取って、無事に出てくる。当然、内部には清水、富永、多米が隠れており、模擬銃およびナイフを使い貴様らを妨害しようとする。今回模擬銃は無毒のインクの入ったゼラチン弾を使用する。撃たれるとピンク色のマーキングが体に付着する。次にナイフ。これはゴム製であるが、これを体に当てると、やはりピンク色のマーキングがされる。いつも通りであるが、模擬銃および拳銃にてピンク色のマーキングが体に付着した場合、演習終了とする。自身で死亡をコールし、外に速やかに退出すること。ナイフも同様の判定だ。何か質問はあるか?」


 佐野は隊員を見回した。



「模擬銃はその他に特徴はありますか?」


 北条が質問する。



「形重さにはガーランド自動小銃と差異はない。ただし今回ゼラチン弾を打ち出す機構はガスなので、ほぼ無音である。実戦では発砲音があり、自身の居場所が知れることに注意しろ」


 他の隊員達から質問はなかった。



「よし。それでは今川、ゴー」


 佐野が簡潔に指示を出した。



「え?」

「ゴー」


「えっ、私ですか?いやいや、ここは武田君とか北条君でしょう」

「さっさと行け!」


 佐野が叱責すると、今川は渋々とブラックハウスの玄関に向かった。



「早く入らんか! 日が暮れるぞ!」


 佐野がさらに檄を飛ばす。



「分かってますよ。入りますよ~」


 今川は情けない顔をして、正面のドアに手を掛けた。中は暗い。



「お邪魔しま~す」


 今川はおずおずと中に入る。玄関ドアが閉まると、外部からは内部の状況を窺い知ることは出来なかった。暫く何事もなく時間が過ぎていく。佐野は今川がブラックハウスに入ってからの時間を計測していた。内部に一旦入ればどのように動いているのか外部からは分からない。北条らは体をほぐしたり、模擬銃などの装備の確認をしたりしていた。



「ぎやああああああーっ」


 突然内部から今川の絶叫が聞こえた。北条らは慌てて視線をブラックハウスに向ける。やがてゆっくりと玄関ドアが開き、ピンク色にマーキングされた今川が内部から出て来た。



「訳が分からない内にやられちゃったよ~」


 今川はそう訴えたが、顔中マーキングされているため表情が分からなかった。ゴーグルもマーキングだらけで視界が悪いのに違いない。足取りも覚束なかった。



「ふむ。それでは次、太田。ゴー」


 佐野はボードに今川の戦闘記録を付けながら、次に太田を指名した。



「えっ!? お、おう!」


 太田は模擬銃を構え、ゴーグルを装着する。



「しっかりやれよ。奴らに一泡吹かせてやれ!」


 武田が太田に声を掛けた。



「おう。只じゃ、やられねえぜ」


 太田も元気に武田に返し、内部に入って行った。暫くすると、やはり絶叫が聞こえてくる。

 出てきた太田は胸腹部がマーキングされていた。



「今まで何を訓練していたのだ」


 佐野が呆れたように太田に言った。ボードに経過時間を戦闘記録として記載していった。



「次、長尾。行け!」

「はい」


 長尾は模擬銃を携え、ゴーグルを装着した。今川、太田が入った同じ玄関の扉を開く。まず外交レセプションルームに入った。内部のホールは広く、薄暗い。内部は外部と違い、壁も床も全体として白い色調で統一されていた。

 長尾は周囲を警戒しながら、進む。外交レセプションルームの出口付近で拭き取られているが、わずかにピック色のマーキングが見えた。今川あるいは太田のどちらかが、ここで襲撃されたに違いない。外交レセプションルームを抜けると、左右を突き抜ける廊下に突き当たる。この正面左手には警備室。実際にはここに警備兵が詰めているため、敵兵が出現する可能性が高い。慎重に辺りを伺うが、呼吸音一つしない。素早く廊下を渡り、壁に密着。息を整え、部屋に銃口を向ける。誰もいなかった。

 ホワイトハウスの部屋の数は膨大。待ち伏せする箇所は無数にあった。西側の厨房を探るべきか悩んだが、先に進むこととした。背後を警戒しながら、大きな廊下を進む。二階に進む階段の手前で壁に張り付いた。そっと小型の手鏡で階段を探る。視界の限り見回したが、誰もいなかった。音を立てないように階段を上る。


 三階へ続く階段があったが、まずは二階を探索することとし、階段を出て大きな廊下から左側の部屋、イーストルームに入った。イーストルームに人気はない。聞き耳を立てるが、静かだ。むしろ静寂で耳が痛い。部屋の壁にレプリカの肖像画が多数みられた。イーストルームを出て、緑、青、赤の部屋を探索、最後に食堂を見て回るが、誰もいない。接待用食堂床にわずかにピンクのマーキングがみられた。ここも注意深く拭い去られているが、僅かに痕跡があった。恐らく襲撃者は家族用の食堂で待ち伏せ、食堂入り口において侵入者を狙い撃ったのだろう。

 長尾はエントランスホールを左手に見ながら、廊下を再び渡り、階段のところまで戻った。

 用心深くさらに三階に向かう。大統領は三階で通常起居しているとされている。実戦では当然長尾らはそこを目指すこととなる。三階に辿り着くと、手鏡でセンターホールを死角から伺う。誰もいない。体を晒して移動する前には鏡でその方向を確認することを長尾は徹底していた。

 ホワイトハウスの構造は頭に全て入っているが、一階から三階まで清水、富永、多米のいずれとも遭遇していない。待ち伏せをするのなら、ここしかないだろう。耳を澄ます。下の階から上がってくる者はいなかった。間違いない。彼女らはここ三階で待ち構えている。センターホールの西端居間のドアが開いており、黒い影が横切った。


(待ち伏せ?)


 長尾は影の見えた西側の居間に移動しようとしたが、その時頭に警報音が鳴った。清水、富永、多米は練達の士。待ち伏せている最中に視界にわざわざ入るように移動するだろうか。否。しかもわざわざドアが開いている。居間内部を見せつけるためだ。とすれば陽動。動いて欲しい反対側に彼女らが待ち伏せているはず。長尾はそう考え、逆の東端の居間に向かう。人気は無い。長尾は右手のリンカーン寝室ではなく、左手にあるクイーンズルームのドアノブに手を掛けた。

 長尾は静かにドアを開く。部屋の内部はカーテンが掛かっているため、薄暗い。多米は息を潜め、まるで蜘蛛のように四肢を伸ばし、クイーンズルームの天井に張り付いていた。多米は長尾の侵入を確認すると、天井から落下し、ゴム製のナイフを長尾に突き立てようとした。瞬間、長尾が模擬銃を天井に向けて伸ばし、マーキング弾が乱射される。たちまちの内に多米はピンク色に染まり、そのまま床に倒れ込んだ。


「ば、馬鹿な!」


 多米は信じられないというように長尾を見た。長尾は多米に顔を近づけ、人差し指を口元に当てた。そう、長尾にとってまだ襲撃者は二人いるはず。それまで音を立てられないのだ。多米はそれを察し、発声をせず、口元だけ動かして会話をした。


(何故この部屋を探索した?)


(待ち伏せをする側としては、西端居間に侵入者を誘引したかったと思ったからです。侵入者が西端居間に向かえば、これを背後から襲撃。この計略が失敗しても、クイーンズルームで待ち伏せ待機。この部屋は他に出入口がない。よって袋小路となり、待ち伏せするには具合が悪い。であるから、侵入者はまず探索するにしても条約室と繋がっているリンカーン寝室を先に探索するだろう。それを背後から襲う。二段構えの作戦だと推察しました)


 長尾は手短に多米に説明すると、立ち上がった。多米は長尾が自身の考えを完全に読み切っていることに驚いた。


(それではあとの二人を倒してきます。ここで静かに待機してください。演習上のルールでは、もうあなたは死んだことになっていますから)


 長尾はそう言うとクイーンズルームを出て行った。



「演習上ではか・・・実戦でも死んでいるよ」


 多米はそう一人で呟いた。



 清水は大統領食事室前、西端居間から廊下を伺っていた。長尾が来ない。東端の方で物音がした。まさか多米の方に向かったのだろうか。廊下は光が入らず、全体的に暗い。



(多米がやられたの・・・!?)


 あり得ない考えが清水の頭をよぎる。その時、クイーンズルームから人影が走り出て、真向かいのリンカーン寝室に入り込んだのが見えた。清水はマーカー弾を射撃するも、相手が素早く移動したため、命中させることは出来なかった。



(リンカーン寝室、条約室を抜けて、イエローオバール室へ行くつもりだわ。イエローオバール室には富永が伏せているけど、こうしてはいられない)


 清水は西側居間から、慎重に大統領寝室に入った。


 一方富永は黄色の楕円形室で待ち伏せていたが、クイーンズルームで物音がし、さらにリンカーン寝室に侵入者の音がした。



(来た。すぐ隣まで来ている!)


 富永はイエローオバール室から、注意深く条約室の中を覗き込んだ。人の気配はない。まだ侵入者はリンカーン寝室に居るのだろうかと不思議だった。しかしよく見ると、リンカーン寝室と条約室の間のドアは大きく開いていた。



(おおっと。もう入っているのね。どこ?)


 富永は暫く部屋の中を伺っていたが、やはり気配は無かった。一体長尾はどこへ行ったのだろう。富永は床に這いつくばり、音を立てず、まるで蛇のように条約室に侵入した。


 清水は大統領寝室から用心しながらプライベート居間に入ろうとした。居間を抜ければ黄色の楕円形室に入ることができる。プライベート居間に入ったその時だった。背後から口を塞がれ、模擬ナイフを首に突き立てられる。



(・・・!!)


 清水は声もでなかった。長尾だった。ここで逆に待ち伏せていたのだ。長尾は清水の耳元で囁いた。



(近くに富永さんがいますので、お静かに)


 そう言うと、長尾は清水の口を塞いでいた手を離した。



(ど、どうやって・・・!?)


(先程清水さんがやろうとした陽動を今度は私がしました。リンカーン寝室に入ると見せかけて、清水さんが大統領寝室に入った頃を見計らい、センターホールを一気に走り、先にプライベート居間に入って清水さんを待ち伏せたのです。貴方がリンカーン寝室に私が入ったことを視認したことは確認済みです。何故なら貴方は私を視認して撃ってきました)


 清水は長尾の説明を聞き、息を呑んだ。



(ここで演習終了まで待機してください)


 清水は茫然と富永を待ち伏せするために部屋を出ていく長尾を見送るしかなかった。


 富永は慎重に条約室内の探索を終え、リンカーン寝室の開かれたドアの近くまで来ていた。多米はどうしたのだろう。演習中止のコールがない。まだゲームは続いている。長尾は生き残っているのだ。多米、清水の襲撃を長尾は避けえたのだろうか。富永は少し首を振って馬鹿な考えを振り払った。まだ経験が浅く、訓練も十分にしていない長尾が多米、清水を凌ぐことなどあり得ない。

 富永は開いたままのドアを改めて見た。間違いなくこれは長尾が開けたものだ。富永はこれまでリンカーン寝室から条約室内に長尾が侵入した前提で考えていたが、条約室に彼女はいなかった。



(おかしい)


 富永は自身の心に疑心が湧いてきた。何故、だったのか。ドアを開いたことにより、リンカーン寝室から条約室に侵入したと思わせたかったのではないか。とするとこれはトラップ。富永から汗が噴き出てきた。



(いけない。ここから直ぐに出なくては。長尾は恐らく別の場所にいる。彼女の意図が分からないのに、このままここに留まっているのは危険だ)


 イエローオバール室へ後ずさりして戻り始めた。通常の動きならそれほど時間が掛からないが、音を立てず、しかも周囲を警戒しながら移動するので、部屋を単に通過するだけでも大変な時間がかかる。漸くイエローオバール室に辿り着いた富永は、長尾が一体どこに消えたのかと頭を巡らせていた。



「銃を捨て、手を上げてください」


 富永は突然声を掛けられ、心底驚いた。振り返らずとも長尾だという事が分かった。長尾は模擬銃を構えて富永に狙いを付けて背後に立っていた。長尾はイエローオバール室で待ち伏せていたのだ。富永はこれまでと模擬銃を捨て、両手を上げた。



「驚いたわ。私を仕留めるなんて。運が良かったわね。けどまぐれは続かないわ。残りの二人からも逃げられかしら」


「二人はこの演習が終わるまで待機中です。貴方が最後です」


 富永が驚いた。まだ訓練を始めたばかりなのに、最終演習で四式究極汎用戦闘術を極めた清水、富永、多米を仕留めたということになる。



(才能か・・・)


「何故すぐに撃たなかったの?」

「撃つ必要がないからです」


「ふふふ。大陸での実戦経験がある私から貴方にアドバイスよ。戦場では躊躇いもなく引き金を引きなさい。相手の心情、年齢、性別、思想諸々を考慮することなく。それが貴方を救うわ」

「できれば人は殺したくありません」


「貴方が人を殺せないからといって、相手が貴方を殺さないということはないわ」

「・・・・・・・・・・・・」


「戦いではそんな考えで上手く行くのかしら」

「富永さんは簡単に人を殺せるのですか?」


「人を殺すことに慣れることはないわ・・・。長尾さん」


 富永は暫く考えた後、絞り出すように答えた。



 長尾が館内に入ってから随分と長い時間が経過した。内部の様子は伺い知ることが出来ない。時々館内から物音がしたが、殆ど静かだった。



「おいおい。何時までかかっているんだ。体が冷えちゃうぜ」


 流石にしびれを切らした武田が佐野に詰め寄った。その時、ブラックハウスの扉がゆっくり開く。長尾が旗を持って出て来た姿に、待機していた隊員一同がどよめいた。



「長尾、ブラックハウスでの演習を終了しました。旗の奪取に成功。清水、富永、多米以下三名は演習再開の別命があるまで館内で待機しております」


 長尾が佐野に報告して、旗を渡した。


 

「うむ」


 佐野は大統領に見立てた旗を確認すると、短く頷いた。驚くべきことだった。清水ら三人を倒したのだ。佐野を始め、隊員一同長尾の実力に舌を巻いた。風がそよぎ、長尾の長い金髪をわずかに揺らす。長尾はいつも通りの表情であり、そこから如何なる感情も読み取れなかった。

 



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