第3話 訓練

一九四四年五月三十日午後十六時五十分


 午後、早速暁部隊は東京駅から東那須野駅まで東北本線で向かった。東京から半日かけて到着した駅前は閑散としており、民家もあまりないようなところだった。まだ夏休みにもなっておらず、また戦時中ということで、訪れる人は殆どいない。駅からは荒野のような景色が広がっており、駅前でも舗装された路面はなかった。 


 そのような一寒村の駅前に不釣り合いな一式半装軌装甲兵車 ホハが停車していた。


 北条らは佐野と共に半装軌装甲兵車に乗り込み、輸送された。室内は薄暗く、窓もないため外の様子がわからず、どこへ向かっているかも不明であった。途中までは路面があったようだが、やがて不整地となり、車体がガタガタと揺れる。どこを走っているかわからないが、勾配が強いため、山地に入っているということは間違いない。不整地なので、半装軌装甲兵車が必要だということが分かったが、座席自体も堅かったため、乗り心地は良くなかった。北条らは長い時間、ひたすら尻の痛みに耐えていたが、ようやく停車した車両から降りると、白い木造の建物が目に入ってきた。洋風の建物であり、ブナの木々が散在した庭の芝生が鮮やかだった。初夏であるため日が長かったが、時間も遅いため、沈む夕日が最後の弱弱しい光を宿舎に投げかけていた。


「ここが貴様らの宿舎だ。この建物はカズキ イシグロが設計したといわれている。元々は駐日外国人の別荘として建てられた。今は我々大日本帝国陸軍が接収使用しておる。我々は『農場』といっているがな」


 佐野が説明しながら中に入る。玄関を通り抜けると、吹き抜けの広いホールが広がっていた。床はタイル張りで、自身の顔が映るほど綺麗に磨き上げられている。内部も白かった。


「清水、どこだ?」


 暫くすると、中から若い女性がでて来た。二十代半ばだろうか。黒い髪をショートカットにしており、碧眼、白い肌。


(間違いない。この子も我々と同じだ)


「清水 ルーシーです。皆さんのお世話をすることになりました。こちらは富永 キャシー、多米 ルースです。同じく皆様のお世話をいたします。何卒よろしくお願いいたします」


 紹介された他の女性達も同じように若く、白人系の顔立ちであった。富永は赤毛で、顔にそばかすがうっすらと見えた。多米は亜麻色の髪を持ち、黒い瞳で顔立ちが整っており、一見して日本人とは異なる容貌だった。北条達も頭を下げ、挨拶した。


「部屋への案内の準備が済むまで、こちらでお待ちください」


 北条達は玄関ホール傍の応接室に通される。暖炉のある広い部屋にはソファが置かれていた。


「すごいなあ」


 今川が感嘆の声を上げる。部屋自体も豪奢な作りであった。


「皆様には各自一部屋用意しております。皆様をお部屋に案内する前に、いくつか注意点を述べさせていただきます。まず、起床は六時。就寝十一時です。朝食は一階食堂で六時十分から。ただし六時半には訓練準備を整えてください。十二時に昼食。午後は十三時十分より。十八時夕食。お風呂は天然温泉があり、二十四時間入浴は可能ですが、基本的に許可された時間内のみです。風呂、厠は原則男女共同使用ですので、ご了承ください」


 清水は説明を終えると部屋から退出した。


(時間スケジュールが本当に分刻みだ。食事時間が十分というのは軍隊の常ではあるが、混浴とはこれ如何に?)


 北条は頭を巡らす。


「いええい。何か天国いきなり来ました! 意味不明なルール! しかし大歓迎だぜ!」


 武田は完全に舞い上がっていた。それを無表情で見つめる長尾。


(気が付けよ! 武田!)


 北条は心の中で叫んでいた。


「いやあ、私は妻も子供もいるんですけど、まあ任務だから仕方ないですよね」


 今川は申し訳なさそうに言ったが、ニヤリと笑ったのを北条は見逃さなかった。長尾も見逃さなかった。


「仕方ないですね。任務とあれば。これも訓練の一環です。まあ、何かあった場合は許していただきたい」


 太田は黒縁の眼鏡を指で押し上げながら、静かに言った。


(太田。何があるんだ!? 何もないだろう!)


 北条は心の中でツッコミを入れてしまう。


「大尉。こんな広い屋敷であるにも関わらず、風呂、洗面所の共同使用とする理由を説明していただけませんか?」


 長尾が尋ねた。北条は初めて合理的かつ的確な質問が出た気がした。


「その点については本官から話そう。つまりだ、最初の潜水艦で一か月ほど航海して米国へ辿り着くのだが、その間は当然男女の別なく過ごさざるを得ない。乗艦予定の伊号第十三潜水艦は百名ほどの乗員で便所は二つしかない。個室はなく、当然風呂もない。室内温度は常に三十度以上。湿度百パーセント。本官も乗艦経験がないので、知ったことは言えないが、相当過酷な環境らしい。衛生状態を考えると、体を拭かなければならないが、更衣室はないのだ」


 佐野は暗い表情で答えた。


「潜水艦内はそんなに衛生状態は悪いのですか?」


 今川が心配そうに尋ねる。


「軍医は乗艦しているが、何らかの皮膚病は必発とされている。ただし伊号潜水艦は欧米、ドイツのUボートと比較すると大型であるため、まだましな方だ。一応我々には一人一人に専用のベッドも与えられるらしいしな」


 佐野はそう説明したが、言い訳じみて聞こえた。


「冷房装置、除湿器はついてないのですか?」


 太田が黒眼鏡を指で上にあげながら聞いた。


「伊号潜水艦には冷房装置が完備されている。されているにも関わらず、この温度、湿度であるらしい。ベテランの潜水艦員ですら、心を病む。それ程過酷」


 佐野の話を聞き、武田、今川、太田が揃って頷いていた。


「それで風呂も便所も共同使用。慣れろということか」


 武田が言うと、佐野は頷いた。


「実際に潜水艦内には男女の別はない。海外でも女性兵士がいるとのことだが、扱いに差異を設けていないところが殆どだ。兎に角上陸するまでは、我々は健康に留意して、隊員が欠けることがないようにしなければならない。 付け加えておくが、潜水艦内は感染症の予防のため和式便所であるが、上陸後は洋式便所である。我々も使い方を学ばなくてはな」


 いつもは高圧的な佐野も海のこととなれば、不安があるようだった。何より隊員の健康を齟齬するのを極度に恐れていた。多分米国人と見分けがつかない兵士をそれほど集められるわけではないからだと北条は思った。


「だとすると、宿舎もこのようにそれぞれの部屋というより、狭い部屋で過ごす方が良くないですか」


 今川がさらに聞いた。


「訓練期間がかなり長い。習得する技術があまりに多く、年余の訓練期間が必要だ。あまりに過酷な訓練環境だと、慣れる、慣れない以前にストレスにより体調不調、精神疾病に罹患する可能性がある。リスクは避けるという小田少佐の考えだ」


 佐野が答える。


(折衷案か)


 羞恥心は慣れるのに時間が掛かるが、閉鎖空間での慣れはそれ程時間が掛からないという判断だろう。逆に修正可能な慣れか、それとも修正不可能な慣れかでこのような事になったかもしれない。


「お待たせしました。それでは順に部屋にご案内いたします」


 そうこうしている内に清水が現れた。それぞれが案内に従い、順に自室に向かっていく。


「ふうーっ」


 北条は大きく息をついて、ベッドに座り込んだ。そして倒れ込むようにベッドに横になった。部屋は一人用の部屋としては広く、ベッド、ソファー、机などが設置されている。さらに訓練用の衣服、装備が部屋に設置されたロッカーに置かれていた。あまりに目まぐるしく、多くの事があり、北条は疲労していた。しかもまだ終わっていない。


「これが軍隊というものか」


 北条は自分をそう納得させるため、声に出して呟いた。






一九四四年五月三十日午後十七時五十五分


 気が付くと室内は真っ暗で、暫くの間眠っていたらしい。北条は体を起こし、ベッドに暫くの間座り込んだ。するとドアのノック音が聞こえてくる。北条がドアを開けると、長尾が立っていた。


「北条少尉。夕食の準備ができたそうです」

「あ、ああ。有難う」


「私は隣室です。よろしくお願いいたします」

「あ、こちらこそ」


 北条は寝起きで、上手く受け答えできなかった。そのまま長尾と共に部屋を出る。


 その後、宿泊施設において、全員が食堂で夕食を取った。夕食のメニューは白米、牛肉の味噌煮、ひじきと大豆の煮込み、みそ汁、沢庵漬だった。たった今死刑宣告をされたのも同然というのに、全員食欲旺盛で、出されたものを全て平らげていく。

 今川はさらに特別食の羊羹を注文して、喜んでいた。驚くべきことに武田などは酒を頼み、しかもふんだんに出されている。明日早速訓練を開始すると聞かされていたので、北条は飲まなかった。武田もその辺は心得ているらしく、酩酊するほどは飲みはしない。そして佐野も口うるさく言わず、静かに食事をしていた。


「いやー、極楽みてーな所だ。酒も食事も美味いし」


 武田が言うと、今川も相槌を打った。


「本当だ。贅沢だよなあ」


 北条自身、白米をふんだんに食べられたのは何時以来だろうか。量も充分だった。


「潜水艦員でもストレスを軽減し、精神的な疾病発症を防ぐために、腕利きのコックを乗船させて、旨いものを振舞っているらしいからな。しかし、和食は今日で最後だ」


 突然、佐野が言った。


「ええっ」


 一同から声が上がる。


「どういうことですか?」


 北条が訪ねた。


「どうもこうもないだろう。その言葉通りだ。まず向こうに上陸したら、人間であるから食事をしなければならない。かと言って食料、水を担いでいくのか? 違うだろう? 商店に入り、レストランで食事をする。我々はテーブルマナーに熟知しているか? 味は大丈夫か? 料理を知っているか? チップの額は? もちろん貴様らの中には母親が作ってくれた洋風料理もあるだろう。マナーをある程度わきまえているものもいれば、家庭の都合で和食に馴染んでいるものもいるだろう。つまりバラバラだ」


 そこまで言うと、佐野は橋を置き、さらに続けた。


「これから全員洋食に切り替える。味にも慣れ、テーブルマナーも身に着ける。誰から見ても米国人として、疑われないようにするのだ」

「偽装訓練の一環という訳ですか」


 北条が言うと、佐野は頷いた。佐野はさらに続ける。


「また今日から、互いに敬礼や階級名を付けることを禁止する。この理由も同じだ。ありふれた米国市民になるのだ。厳密にいうと、民間人に偽装した軍人というのはこれだけでも国際法違反であり、問題だ。しかし、ここまで戦況が不利な状況で我々に残された手段は限られている」


 佐野は一同を見回して、異論があれば何時でも受けるという顔をした。


「じゃあ、あんたの事をどう呼べばいいんだ? 糞野郎か?」


 武田が茶化すように言うと、佐野は武田を睨みつけ、自分の目を指差しながら言った。


「俺の目を見ろ。冗談を言っているように見えるか? 貴様の俺に対する呼び方を教えてやろう。佐野様か佐野殿だ。そしてあまりお勧めしないが、佐野閣下だ。好きなものを選べ」


 武田は鼻を鳴らしたが、一応納得したらしい。佐野は隊員達の反応を確認してから、さらに話始める。


「さらに明日から全て英語での会話に切り替える。貴様らがある程度英語に通じているというのは分かっている。ある程度の日常会話レベルなら問題ないはず。訓練も英語にて行う。徹底するぞ」


 北条は、その外見はともかく、食事は専ら和食だった。母を早くに亡くしたこともあるが、父の嗜好のためもあり、何より和食が好きだったのである。


「本日はこれより自由行動とする。明日朝食後、六時半に一階会議室に訓練用装備一式揃えて集合すること。明日からの訓練に備えてたっぷり休んでおけ」






 桜舞い散る中、子供たちが争っていた。子供らの年齢は十歳くらいであろうか。輪の中にいるのは金髪碧眼の少年。遠い遠い昔。


「毛唐に負けるな、やっちまえ!」


 周りにいた少年たちは一回り背の高い金髪碧眼の少年を囲んで、交互に蹴ったり、殴ったりしていた。しかし金髪碧眼の少年も負けてはいなかった。果敢に反撃し、その内一人を引き倒し、馬乗りになって殴る。しかし、直ぐに蹴り飛ばされ、逆に馬乗りになられて殴られた。そうした争いが暫く続いたであろうか。不意に取り囲んだ少年たちの動きが止んだ。ある一点を見つめている。


「やーい、毛唐。ざまあみろ」


 そう言ってその少年たちは北条から離れ、散っていった。金髪碧眼の少年は身を起こし、取り囲んだ少年たちが見たものを見た。それは少年の母親だった。母親は白い日傘を差し、土手の上から今の騒ぎを見ていた。


 川沿いの土手を母親の後ろを少し遅れて歩く。少年は殴られたり蹴られたりで、体中が汚れて腫れ上がっていた。


「毛唐って何?」


 少年は不意に母親に問うた。母親は立ち止まり、そしてゆっくり少年に振り向いた。その顔は美しく、色白の肌で、少し頬が赤みを帯び、少年と同じ金髪碧眼であった。そして悲しそうに少年を見つめ、何か言おうとした。



 その時、北条は目が覚めた。



(今何時だ?)


 あまりに色々有りすぎて、夕食後自室に帰るなり、すぐに寝てしまったらしい。腕時計をみると朝五時。北条は昨日の事を思い起こしていた。


(輸送船に乗り込もうとしたところを、小田少佐に連れてこられ、とんでもない作戦を知らされた。米国大統領暗殺。小田少佐、佐野大尉、今川、武田、長尾、太田。忍者戦隊、暁部隊、那須野山奥に連れてこられ、それから、それから、自分は任務で死ぬのか。そうだ、死ぬ。父さん、母さん)


 その時、宿舎から電話が掛けられることが思い出された。


 ベッドからでて、洗面を済ますと、もう既に陽が昇っており、廊下に出ると明るかった。一階のホールに降りて、電話機を探す。ふと見ると、武田が一階のホールにある電話を使っていた。丁度話が終わったらしく、電話を切っている。武田は北条を見かけると、手で挨拶をした。


「よう」

「武田も妹に電話か」


「ああ。実を言うと昨日あまり眠れなくてな。早朝で申し訳なかったんだが、昨日の今日だからな。昨日無事を確認するために疎開先へ電話した時は妹もショックで話にならなかったし」

「だろうな。で、大丈夫だったのか?」


「ああ。まあ一安心だよ。この電話使用可能時間も短く、盗聴されるらしいから、肝心な事は何も話せん。それでも声を聴くことができた。お前も電話するんだろう。じゃあな」


 階級では北条の方が上だが、そういうことについて武田は無頓着のようである。しかし悪い気分はせず、さばけた人柄は北条と馬が合いそうであった。

 北条は武田と入れ替わり、受話器を取る。女性の電話交換手が出て応対してくれた。


「こちら忍者部隊交換台です。本電話は全て録音されます。会話許容時間は一日につき、三分です。尚不適切な発言、会話があった場合、予告なく電話回線を遮断する場合があることを了承ください。どこへおつなぎいたしましょうか?」


「北条 康です。自宅へ」

「了解しました」


 呼び鈴が鳴っているのが聞こえる。暫くして父が電話に出た。父は横須賀の造船所に勤務しており、母が亡くなってからは自宅も職場の近くに移していた。


「父さん? 朝早く電話して御免」

「康か! 康なのか。もう日本を出たのかと。どうだ、元気か?」


「うん。大丈夫だよ。まだ生きている」

「いつ日本を出るんだ?まだ暫く日本にいるのか?」


「ちょっと詳しいことは言えないけど、まだ暫くいる予定」

「そうか。まだ日本にいるのなら、会いに行くことはできるのか?」


「会うことは出来ないんだ。町の皆に華々しく見送ってもらって、まだ日本にいるってちょっとね。僕はもう南の島に行っていると思っている人もいるかもね」

「何を言う。無事ならいい」


「誰よりも立派な日本人として戦地で死んで来るよ。これで父さんも肩身が狭くなくなるよ」


心に渦巻く感情。昔からいつもそれはあった。誰よりも日本人らしく。そう思い続けていた。父に思わず自身の感情をぶつける。


「馬鹿な事を言うな!」


 お互い無言の時間が暫くあった。北条は電話口の向こうで父親がすすり泣いていることに気が付いた。いつもこうだった。北条は自身の心の捻くれ具合はつくづく嫌になっていた。自分の感情を上手く伝えることができない。


「じゃあ、そろそろ行くよ。父さんと話せて良かった」

「ま、待て、康!」


 北条は静かに受話器を置いた。三分も続かない会話。思わず苦笑して、振り向くと、長尾が立っていた。綺麗な顔立ち。どこまでも深いエメラルドグリーンの眼が北条を見据えていた。


「ミスター北条。もうそろそろ朝食の時間です」


 まるで人形の様な彼女の口から英語が発せられる。


「ミスター北条?」


 英語で話しかけられ、北条は戸惑い、思わず言われた自分の名前を復唱した。


「階級名で呼ばないんでしょう。昨日言われたでしょう」

「あ、ああ」

 

(そういえばそうだった。しかし何か馴染まない)


「あ、その。北条と呼び捨てでいいよ。こちらは君の事なんて呼んでいい?」


 北条も英語で返した。


「長尾でお願いします」

「じゃあ、それで行こう」


 二人は食堂に向かった。


「苦手なのね。お父さんの事」


 長尾は小さな声で呟いたが、北条には聞こえなかった。





一九四四年五月三十一日午前六時五分


 六時を過ぎると三々五々食堂に隊員は集まり始めた。よく眠れなかった者、眠れたもの、様々だった。昨日言われた通り、テーブルには洋食が配膳されていた。さらにファイルが置かれており、テーブルマナーについて冊子が入っていた。


「食事も訓練の一つだ。ファイルが置かれているが、その中に冊子が入っている。これら訓練、知識に関する冊子は全て同じ大きさで印刷されており、ファイルに収納可能になっている。自由時間に予習、復習を各自するように。余白に書き込み自由だ。何せ周囲は山地。勉強する以外何もなし。訓練、勉強時間はたっぷりあるぞ!」


 佐野はそう言ってから、朝食を取り始めた。彼も英語の発音が完全だった。学校の先生をしている北条より、佐野の方が余程先生らしかった。

 食事はトースト、目玉焼き、ベーコン、果物の盛り合わせ、果実汁、牛乳。


「こ、こいつはなんだい?」


 武田がボトルに入った物に目を見張る。


「それはケチャップというものです。米国の民衆が好んで使う調味料です」


 清水が答えた。


「本当にこういう料理を食べたことないのか?」


 横にいた太田は呆れながら武田に聞いた。


「いや、あるというお前たちが凄いよ。俺の周りにはこんなもの食べている奴いねーよ。俺自身食べてないし」


 武田は顔の彫も深く、見かけは完全に西洋人のそれだが、純粋な日本人そのものの食習慣だったらしい。


「いやあ、こういう朝食も美味しいね」


 今川が食べながら言った。トーストにこれでもかというくらい、ジャムとバターを塗りたくっていた。


「今川さん、食べすぎると訓練きつくなりますよ」


 北条は今川のその旺盛な食欲が心配になっていた。

 母親が米国人あるいは英国人である場合、テーブルマナーに困難は感じないようだった。北条、長尾、太田などは問題がない一方、佐野、武田、今川は苦労していた。分からないことが有る度、清水、富永、多米から指導を受けている。佐野や今川は配布された冊子に注意点を書き込んでいたが、武田は出された料理が珍しかったのか、あれこれと聞くに留まっていた。

 食事をしながら会話をして気づいたことは、長尾以外全員が米国訛りだった。長尾だけは英国訛り、いわゆるクイーンズイングリッシュだったのである。


「武田。得た知識は全てメモをしろ。これも訓練だ!」

「分かってるって。じゃなかった、分かりました。これでいいか?」


 ソーセージをかぶりつきながら、武田は返答していた。


「よーし。朝食が終わったら、直ちに準備。六時半に一階会議室に訓練用装備を整え、集合せよ」


 佐野は席を立った。






「傾注!」


 一階会議室に訓練用装備一式揃えて隊員全員が整列していた。


「最初の八週間は体力増加期間とする。これからすることを、良く頭に叩き込んでおけ。早朝、朝食後、十キロの行進。最終的には山地五キロを三十分で走破することを目標とする。一分以内に三十回の腕立て伏せ、腹筋運動、時間制限なしで十回以上の懸垂運動、これは最低限だ。これを隊員全員の至上命題とする。まずは体力がなければ話にならない」


 佐野はそう言って締めくくった。


「あのーですね。発言よろしいでしょうか」

「なんだ、武田」


 面倒そうに佐野が答える。


「俺とかはいいんですけどね、長尾さんの様な女の子にはキツイじゃないですかね。かなり厳しい体力基準ですよ」


 長尾をチラチラ見ながら、武田は神妙な顔で言った。


「心配いらん。長尾は元陸上部で、聖心女子学院時代は陸上の万能選手だったらしいからな。彼女の記録をここで読み上げるか?」

「嘘でしょう・・・」


 武田が絶句した。長尾が武田に向かい、口元に笑みを浮かべ、どうだと言わんばかりの顔をしている。いつも無表情な彼女が少し人間らしい表情を見せる時、極めて魅力的だった。


「いやー、私はもう中年ですよ。」


 一方厳しい目標に今川がげんなりしていた。今川は確かに小太りで、一見して運動不足が見て取れた。


(軍隊にいたのに、これまでどうしてたんだろう)


 北条が思っていると、佐野が何もかも見通すように言った。


「今川は昔剣道の有段者として鳴らしたが、今はどうだ。そのぶくぶく太った自身の体をみろ。大方内地勤務で旨いものをたらふく食っていたんだろう。ここでも旨いものは食えるが、訓練もやってもらうぞ」


 今川はそう言われると、肩をすくめて項を垂れる。


「頭脳労働を主にやっていたのでね。こんな体力を使う任務は・・・」


 太田も不平そうに言う。そもそも日光に十分当たっていないのではと思うくらい、青白い肌だった。炎天下で行軍した場合、倒れるのではと心配された。


「太田君。ここは軍隊だよ。お分かりかな」


 佐野が冷淡に言うと、太田は押し黙った。


「午後から武器、装備品の取り扱い訓練、射撃訓練を行う。夜の教育は座学だ。米国の歴史、習慣、語学などを学ぶ。貴様らは語学に関してはかなりできるということではあるが、改めてしっかりと学んでもらう。体力増強期間が終了したら、格闘訓練、爆破訓練を射撃訓練と並行して行う。最終的には水中潜水訓練、上陸訓練を行う」

「潜水訓練?ここは那須の山奥じゃないですか?」


 太田が聞き返した。


「潜水訓練用の二十五メートルプールが設置されている。水中潜水訓練、上陸訓練はそこで行う」


 こんな山中にそんな設備まで備えていることに一同は驚愕する。


「よし。それでは屋外に移動。まずは行軍訓練だ!」


 佐野はその他には質問が出ないことを確認すると怒号を放った。



「いちにさんし!」


 掛け声と共に訓練用装備を身に着け、駆け足で行軍した。M1ヘルメット、日本帝国陸軍の軍服を着こみ、銃はガーランド自動小銃を配布され、さらに弾倉六箱。マークII手榴弾を装備している。訓練に使用する武器が米国製なのには理由があった。米国上陸を成功させるには作戦を秘匿し、潜水艦の発見を避ける必要がある。そのため潜水艦は潜航したまま、北条らは魚雷発射管から射出され、潜航移動後上陸する。よって当初所持する武器、防具は必要最小限度である。基本武器、弾薬、爆発物は現地調達であり、さらに武器を喪失しても米国本土で再調達しやすい。軽装とは言え、武器防具を装備して駆け足行軍ともなるとかなりきつかった。しかも山中で平地ではない。道は一応踏み固められた地面ではあり、草木をかき分けて進む必要はなかったが、負担は大きい。今川、太田が遅れ始めた。二人とももう汗だくだった。


「こらあ! 何をやっている。進め! 進まんか!」


 佐野の怒号が飛ぶ。北条が前をみると、武田と長尾は先に進んでいた。彼らもはペースが乱れていない。それどころか汗一つかいていなかった。


「武田、お前陸上部かよ?」


 息も絶え絶えになった太田が前を行く武田に向かって叫んだ。


「俺はなあ、昔空手をやっていたが、こいつは金にならん。俺は将来職業野球選手になろうと思っていたんだ!」

「巨人軍を目指していたのか?」


 北条が驚いて聞いた。


「馬鹿野郎! 俺様がそんなスケールの小さい人間と思うか? 大リーガーだよ! 大リーガー! ベーブルースの様なスターになって、億万長者になる予定だった」


 武田はそう言うとさらにペースを上げた。佐野と長尾が負けじと追いかける。


「ちぇ、嘘ばっか」


 太田が呆れたように言った。


「こらあ! 太田、遅れるな!」


 佐野の檄が飛ぶ。一同は山中を風のように駆け抜けていった。



 日中訓練をやり続け、一同疲労困憊していた。佐野は高齢にも関わらず、常に檄を飛ばし、意気軒昂だった。


「こらっ! 装備品一式を収納して訓練終了だ。装備がきちんと収納されているか相互に確認せよ。太田、私の物を確認してくれ」


 全員が装備品の収納を確認。それぞれ自室に装備品を収納すると、食堂に向かった。出されたメニューはコーンスープ、グレイビーソースのかかったステーキ、マッシュドポテト、サラダ、フルーツ、赤ワインだった。ステーキも分厚く、戦時下の日本では中々食卓に上がらないものばかりだった。


「皆食え。食らえ。体力が落ちてはいかん」


 佐野は言うと、テーブルマナーを確認しながら、ステーキを切り分け、ガツガツと食べた。


「あー、腹減った。ここステーキのお替りいいの?」


 そう言いながら武田も清水、富永、多米らにテーブルマナーを確認しながら器用に肉を切り分け、食べていた。北条は食べる食べない以前に激しい訓練のため食欲が無かった。


「こんな脂っこいもの、食べられないよ」


 今川も同様の状況だったらしく、食事が進まない。


「いいから黙って食え。米国人の肉の消費量は日本人の十倍に達する。上陸してからは、食事はこいつだ。食べられないんじゃない。食べるんだ! いざ戦う時に健康を損なうようでは困る」


「あのーですね。発言よろしいでしょうか」

「またお前か。なんだ、武田」


 面倒そうに佐野が答える。


「俺とかはいいんですけどね、長尾さんの少なくありませんか。これだとお腹減りますよ」


 長尾をチラチラ見ながら、武田は神妙な顔で言った。


(食欲が有り余るほどあるお前が凄いよ)


 北条は心の中でそう思った。


「心配いらん。全員体格を考慮した必要なカロリー数を考えて作製している」


 そっけなく佐野が答えた。武田の気遣いは又も空振りに終わった。それはそうだろう。武田と長尾とでは体格が違う。必要とする食事量も違うだろう。武田らの会話を余所に、長尾は無表情で食べ続けていた。表情からは彼女がどのような気持ちでいるのかは伺えなかった。


「これも訓練の一つですか?」


 北条が聞いてみる。


「その通りだ」


 佐野は食事をする手を休めない。北条はメニューをみて、東京から半日で行くことができ、しかも欧米人の食生活に適した牛肉、牛乳、果物をふんだんに供給できる地域として、那須が訓練場に選ばれた理由の一つだろうと考えた。北条は確かにこれも訓練の一環と割り切り、ステーキを切り分け、口に放り込んだ。

 夕食後、二階の自室に帰るのさえ辛い状況だった。まだ初日だが、これがこれから連日と思うと気が滅入る。気分が悪く、食事も吐き出してしまいそうだった。部屋に入るなり、そのままベッドに倒れ込んだが、北条は自身の衣服が汗臭いことに気が付いた。


(ああ。風呂に入らないとな)


 ロッカーには自身の新しい下着が用意されていた。清水さんらが用意してくれたのだ。替えの下着、バスタオルなどを持って風呂へ向かうことにした。

 下に降りた時、風呂場の前の椅子に武田、今川、太田が座っていた。


「よう」


 武田が北条を見て、手を挙げた。


「皆こんなところで何をしているんだ?」

「いやね。長尾さんが先に風呂場に入っていてね」


 今川が人懐っこい笑顔を浮かべて、恥ずかし気に言った。


「混浴と言われても。やはり初日だから。長尾さんに悪くて」


 太田が黒縁の眼鏡を指で押し上げながら、冷静そうに言った。皆なんだかんだと言って、優しい。


「だって、やっぱりなあ。だろ?」


 武田が言うと。今川も太田も頷いた。気まずい。そうだ。そうなんだ。思わず、北条は噴き出した。それにつられて、今川も、太田も笑った。北条は四人目として、風呂場の前に設置された椅子に黙って並んで腰掛けた。


「何だよ。お前ら、何が可笑しいんだよ」


 武田もつられて笑う。そして四人は次第に笑いが止まらなくなった。大笑いしているところで、長尾が風呂場から出てきた。


「どうしたの?」


 ケタケタと笑っている四人を見て、長尾が怪訝そうに聞いた。


「いや、男の子同士の会話だよ」


 北条はそう返したが、笑いがまだ収まらなかった。


「そうよ、男同士の会話って奴だ。さあ、皆行こうぜ!」


 武田は先頭きって風呂に入っていった。今川と太田も後に続く。


「じゃあ」


 北条は踵を返して、後に続こうとした。


「北条君」


 長尾は北条を呼び止めた。


「うん?」


 北条は首だけ長尾に向けた。


「有難う」


 長尾が礼を言った。北条は微笑んで、風呂場の暖簾をくぐる。


「糞っ。皆で我慢したのに、どうして北条だけ有難うなんだよ」


 北条の後に続いて入った太田が忌々しそうに毒づく。


「やっぱり顔かなあ~!」


 今川がおどけたように言った。


「今川さん、それ禁断の言葉ですよ!言っちゃいけない!」


 武田も茶化して言う。


「ざけんなよ。これは差別じゃねえか」


 太田はさらにふてくされて言った。風呂は屋内と露天の二つに分けられていた。共に広く、湯も透明であったが、かなり熱めの湯だった。



「いやー、疲れたね」


 今川が呟きながら露天風呂に浸かっていた。湯の流れる音と虫の声が何とも言えない風情がある。空気が澄み渡り、月や星々が綺麗だった。東京の空とはまるで違う。


「本当、湯治に来たような感じだよなあ。これで戦争さえなければなあ」


 武田が目に手拭を当て、肩まで湯に浸かり、寛ぎながら言った。実際そんな感じだった。一瞬戦争中であることを忘れるような静かな、そして美しい世界。今この瞬間も何処かで誰かが死んでいる。殺されている。そして自分達ももう直ぐ死ぬということに現実味が無かった。


「戦争はもうすぐ終わるさ」


 唐突に太田が言った。


「ええって、それってどういうこと?」


 湯に浸かって赤ら顔になった今川が太田に驚いて聞いた。


「大本営ではこの戦争は百年続くって言っていたがな」


 武田は目を瞑り、寛いだ姿勢を崩さず返した。


「別に。誰もが考えている事さ。東京からさほど離れていないサイパン島が陥落するんだ。そうなれば米軍のやりたい放題だろう。東京を始め、各都市は爆撃され、火の海になる。飛行機も船も銃も作れない。それ以前に最近燃料や物資が敵潜水艦の活動により南方より入ってこなくなっている。もう終わりだ」


 太田は淡々と言った。忍者部隊に所属しているのに、大日本陸軍軍人としては問題となる発言だった。いや、忍者部隊に所属しているからこそ、このような厳しい戦局の認識が出来るのかもしれなかった。


「どんな終わり方なんだ?」


 北条は太田に聞いてみた。分かり切ったことを聞くなという風に太田は笑った。


「それは多分日本の上層部が望んだ形ではないだろうな」


 太田はそこまで言うと黙り込んでしまった。


(けど、もし、もしも出撃前に戦争が終わってくれたら)


 新しい未来像が、全く異なる世界が見えるような気がした。


「そうだね。多分」


 今川がぽつりと呟いた。


「けっ、湿っぽくなっちまったな。先に上がるぜ」


 武田は早々に上がってしまった。



 北条が風呂から上がると、ホールで電話を終えた武田に出会った。頻繁に妹と連絡を取り合っているらしい。


「電話していたのか。妹さんどうだった?」

「まあな。少し進展があったみたいだ。生活費支援や学費まで軍の方で出してくれるらしい。その点では小田の糞野郎は信じられるな」


 武田は少しはにかむように言うと、やや間を置いて北条に話を切り出した。


「さっきの風呂場での太田の話、どう思う」

「どうって。確かに厳しい戦局だと思う。戦争についても、いつ政治的な決着がついてもおかしくないと思うけど」


 北条は率直な感想を武田に返す。


「出撃前に戦争が終わり、俺たちは助かり、万事上手くいく」

「ああ。そこまで上手く行けばいいけど」


「俺は逆だと思うぜ。あの小田の野郎が戦争終結を望んでいるとは思えねえ」

「どういうことだ」


 北条はついつい武田の話に引き込まれた。互いに聞かれないよう小声で話し始める。


「つまり和平交渉が始まり、戦争が終わりそうだから、逆に俺たちを米国にぶっこむっていう寸法さ。米国大統領が殺されたとなれば、向こうだって引きはしねえ。日本人を皆殺しにするまで戦争を続けるだろう」

「そんなことをして、小田にとって何の得になる?」


「奴の望んだ世界が続く。闘争と殺戮の世界だ。この世界が続く限り、奴のような半分イカれた人間は役に立つ」

「戦争の継続が本作戦の最終的な目的だと?」


 北条は単に思い付きを口にした。武田は小さく頷いた。


「ようやく意見の一致をみたじゃないか。この作戦で大統領を討ち取り、戦局を挽回、終戦に持っていく。そして俺たちはその為の最後のバッター。こんなところだったな。そう上手く行くかどうかはさておいてだ。俺はこの筋書きがどうも信用ならねえ。現実的かどうかというところを別にしてもだ。つまり、言いたいことはだ。奴はこの作戦で、決定的な戦局の好転を期待していない。この作戦の真の目的は別にある」


 そこまで一気に喋ると、武田はさらにトーンを落として、呟くように続けた。


「お前だって、このイカレタ作戦を額面通りに受け取っていないだろう?」


 武田は小さく笑った。北条もうすうすと感じていた。武田の考えが合っているかどうかは分からなかったが、この作戦の真の目的が他にあるのではないか。しかし恐らく我々がそれを知らされることはないだろう。


「まあ、こんなところでああだ、こうだと二人で言っていても埒が明かないよな。いずれにせよ、この戦争が終わるなら、俺たちが米国に行かされる前に終わって欲しいぜ」


 武田は北条の肩をポンと叩いて、自室に戻っていった。


(作戦の本当の目的・・・)


 その言葉が北条の心の奥底に響いていた。


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