第25話 休めるよ

 リビングダイニングの扉を開けて、ペッパーは先客がいるのを認めた。

 先客というより、昨晩からずっとそこにいたのだろうが。

 ソファテーブルでノートパソコンがつけっ放しのまま、先客は——母はソファからのそりと身を起こした。


「んん、おはよう、吉平。パン買ってあるよ」


 母が指さす先を目で追って、ペッパーはキッチンの横に、ベーカリーの包みを確認した。

 母の指は、そのままパソコンのキーボードに向かって、ゆるゆるとタイピングした。

 服はよれたスーツ姿で、昨日帰ったそのままなのは想像にかたくない。


 ペッパーは包みの中身を見て、ひとつを手に取り、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを一本出して、リビングの出口へと向かった。

 ドアノブに手を置き、開けようとして、少し逡巡しゅんじゅんして、振り返らないまま、冷蔵庫を指さした。


「冷蔵庫に、昨日作った、サラダとか、ある……から。

 よかったら、食べて」


 母はその背中を、ぽかんと見つめた。

 まだ冴えきっていない頭のまま、口から言葉だけ先にこぼれた。


「……ありがとう。食べる」


 ペッパーはそれから、しばらく動かず、押し黙って。

 ややあって、ひとつ深呼吸して、やはり振り返らないまま、言葉を吐き出した。


「あの、さ……来月の、日曜日なんだけど。

 卓球の、大会、あるから」


 寝ぼけまなこだった母の目が、少しずつ、少しずつ開いてきた。

 ペッパーは振り返らず、続けた。


「だから、その……えっと、ごめん、やっぱりなんでも」


「休めるよ!」


 思った以上に大きな声が出た。

 そう自覚するより早く、頭が冴え渡るより早く、言葉はつむぎ出された。


「休むよ。いつの日曜? 場所どこ?」


「……別に、無理に休まなくてもいいけど」


 ペッパーは、日時と場所を伝えた。

 それからドアノブを倒し、外に出て、ほんのちょっとだけ母に目線をやりかけて、そのままドアを閉めた。

 閉まったドアに向けて、母はつぶやいた。


「……ありがとう」


 母は、しばらくほうけて、それからゆるゆると立ち上がった。

 浄水器からコップに水を汲み、一気に飲み干して、冷蔵庫を開けて、サラダを取り出した。

 フォークと一緒にテーブルに並べ、席につき、しばらくながめて、それから手を合わせ、いただきますと告げ、食べた。

 食べ終わった食器をシンクに置き、そのままソファに戻りかけて、思い直して、食器を洗った。

 ソファに戻り、ノートパソコンに向かい合った。


 目はもう、完全に冴えている。

 母は一言、改めて口にした。


「ありがとう」


 パソコン作業を再開した。

 タイピング音は高らかに響く。響く。

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