第7話 愚かな遊戯

 ノックの音で目を覚ました。いつの間にやら、廊下で倒れていたらしい。

 キッチンの方からは、焼いた卵の匂いが漂ってくる。

 調理後の記憶がないが、燭台しょくだいには蝋燭の火が揺らめいていた。無意識に、夜の準備をしていたのだろう。

 エントランスは窓をすべて塞いであるため、外の様子は分からない。


 ノックの相手はおそらくヴィルだろうが、それ以外の可能性がないとは言えない。

 扉を開ける前に顔に触れ、吐いた血がついていないか確認する。

 ゆっくりと扉を開くと、隙間から暗くなった空が目に入る。更に開くと、息を切らせたヴィルと目が合った。


「いい感じのが見つかったっす。明日、一緒に見に行きましょ」


 明るい笑顔で伝えてくるヴィルに「そうか」と返し、中に手招く。

 ヴィルは宣言通り、今日中に次の拠点を探し出してきた。……ならば、私も約束を守らねばなるまい。


 部屋の隅に移動し、「ここで」と伝える。


「……ッ」


 あえて蝋燭の光が届かない位置に移動したが……どうにも、悩ましい。

 私は、果たして口付けだけで済ませられるだろうか。ヴィルの舌を傷つけ、そのまま血を……


 想像するだけで、恍惚こうこつとした予感が背筋を駆け抜けた。

 あのたくましく、健康な肉体によって生み出された血液を、唾液と共にむさぼるなどと……嗚呼……そんなことは……考えただけで、


 ヴィルは、静かに待ってくれている。

 そろそろと肩に手を伸ばし、襲い来る食欲をどうにか自制する。

 軽く唇を押し当て、離す。……暗がりの中で、ヴィルの口角が緩く持ち上がったのが見えた。


「……それだけで、良いんです?」


 挑発するような言葉が、私の理性を揺るがす。

 肩に伸ばした手がこわばる。……これだけで、「足りる」はずがない。

 再び、今度は先程よりも深く、口付ける。

 ……まずい。これ以上は……


「怪我を、するぞ」


 ヴィルは不思議そうに瞬きをしていたが、やがて、嬉しそうに私を抱き締めた。今度は、彼の方から口付けられる。


「ん……っ」

「……っ、は……。別に良いのに……」


 何度も何度も口付けられ、意識がとろけていく。

 いつの間にやら、口の中に血の味が滲む。


 嗚呼……これだ。これが、欲しかった。……いいや、欲しくなかった。怪我をさせたかったわけではない。

 だが……美味い。胸の、腹の傷がうずく。もっと、もっと欲しいと、私の身体が養分を欲しがる。


「……どうです?」


 少しだけ低い位置から、茶色の瞳が私を見上げる。

 鋭くあやしい光が、おすの本能を宿し、煌めく。


「……ッ、ぁ……」


 足取りがふらつき、思考が心地よい熱に侵される。

 ヴィルの手が私の腰に触れ、そのまま下の方へと伸びるのが分かった。

 ロザリオを握り締める。

 静寂の中、はぁ、はぁ、と、互いの荒い吐息が響く。


「……神父様……っ、オレ……」


 熱に浮かされた囁きが、私を求める。


「お赦し、ください」


 私はロザリオを握り締めたまま、自らの上着に手をかけた。




 ***




「……お赦しください……」


 溢れ出した不安に耐えかね、彼の背中に縋り付いた。

 ヴィルは震えの止まらない身体を優しく抱き締め、背中を撫でてくれる。


「泣いたって、笑ったっていいんだよ、神父様」


 穏やかな声が、ひび割れた心を包み込む。


「アンタはじゅうぶん頑張ったし、じゅうぶん傷付いたろ」


 私に……そして、見えない「誰か」に伝えるよう、優しい言葉が紡がれていく。


「……神様が許さなくても、オレはアンタを許すから」


 済まない、ヴィル。

 私にはもう、上手な泣き方も、笑い方もわからない。

 おまえの愛に応えることも、おまえを解き放ってやることも選択できない。

 何が正しいのか、何を選択すべきか、何もかもを見失ってしまった。


 ……それでも、確かなことはある。


 ヴィル。おまえの隣は、居心地がいい。

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