第6話 そして、どこへ向かうのでしょうか?

「んじゃ行ってきまーす。日が沈んだら帰るんで!」


 寝床に戻ると、ヴィルの明るい声が聞こえた。

 私が接吻せっぷんしてやると言ったのがよほど嬉しかったのか、先程から表情も声もうきうきと弾んでいる。

 確かに、頬やそれ以外でなく「唇に」接吻してやると約束はしたが……そこまで喜ぶことなのだろうか。


「……沈む前に帰れ」

「心配いらねぇっすよ。オレは夜でも全然平気です」

「愚か者。貴様の心配をしているわけではない。出会い頭に『うっかり』殺される憐れな民を憂いているのだ」

「……ですよねぇ」


 ついつい冷たく接してしまったが、違う、そんなことを言いたかったわけではない。

 もちろんヴィルの心配もしているし、ヴィルが不必要に罪を犯さないように願ってもいる。……だが、その、なんだ。何と言うのか……気恥ずかしい、というとまた違うのだが……どうすれば良いか分からない……とでも、形容するべきだろうか。


 この関係を肯定する訳にはいかない。……そして、罪を重ね続けさせるわけにもいかない。

 なるべく早くヴィルを解き放ってやるべきなのだが、ヴィルは私から離れるどころか、日に日に情愛をつのらせているように感じる。

 ……正直なところ、それをどこかで喜んでしまっているのは事実だ。だからこそ、壁を高く積み上げておかねば、後戻りできなくなってしまうだろう。

 それはそうとして、感謝を一言も伝えないのはどうかとも思う。さすがに、ここ最近は自分でも態度が目に余っているのでは? と感じざるを得ない。


 寝床から身体を起こし、出かけようとするヴィルを追う。


「……念の為言うが、せめて朝までには帰れ」

「んぉ?」


 振り返ったヴィルに、今度こそ、ねぎらいの言葉を……


「分かっているだろう」


 言葉、を……


「……私は、貴様に抱かれねば眠れない」


 …………。

 そういうことを、言いたかったわけでもないのだが……




 ***




 案の定眠りに落ちることは出来ず、苦痛を持て余したまま時間が過ぎ去っていく。


 憎い。


 過去の記憶が蘇る。


 憎い。憎い。


 世界に絶望し、転落した母。

 分かたれた首を陽光にさらされ、灰となった祖父。

 生きるために、生かすために身を粉にして働き、力尽きた父。

 虚勢を張る兄。耐え忍ぶ妹。嘆く弟。……そして……


 憎い。憎い。憎い。憎い。


 身体の内側が、激しく痛む。

 身をくほどの感情が、膨れ上がっていく。


 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。

 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。


 ──許さない


「……っ!」


 階下からノックの音が聞こえ、我に返る。

 汗にまみれた身体を起こし、ふらふらとエントランスへと向かう。


 ……憎しみに身を委ねてはならない。

 許さなくては。

 主は我々の原罪を引き受けてくださった。

 私も、慈悲の心を持ち、人を許さなくてはならない。


 人を……ヒトを……許さなくては……。


 痛みと憎しみを振り払い、どうにか扉に手をかける。

 扉の前には、先程の老夫婦が立っていた。


「ああ……良かった。留守にしてらしたのかと」


 ──何をしに来た?


 疑念を噛み殺し、どうにか笑顔を作る。


「……どうされましたか? まだ、何か……」

「なんだか、顔色が優れない様子でしたから……良かったら、これ、食べてくださいね」


 老婦人に卵の入ったかごを手渡され、一瞬、状況に理解が及ばなくなる。


「巡礼中なんでしょう? 栄養つけてくださいね」

「……え。は、はい……」


 ──何を、企んでいる?


 浮かんだ思考を振り払い、籠を受け取る。


「息子が医者をしておりまして。顔が青白すぎる、どう見ても具合を悪くされている、と……。養生してくださいね、神父様」

「……」


 夫の方の言葉に、上手く返事ができない。

 医者、という言葉で、態度を変えたあの医者のことも脳裏によぎった。

 笑わなければ。取り繕わなければ。もう、じきに出立しゅったつする身とはいえ……疑われないに、越したことはない。


「ありがとうございます。……貴方がたに、主の祝福がありますように」


 邪念があってはならない。

 疑ってはならない。

 彼らの行いに感謝し、その善なる心をたっとばねばならない。

 ……だと言うのに。


 ──私が吸血鬼だと知られれば、彼らも……


 疑念を、拭い去ることができない。




 扉を閉じ、ずるずるとその場にうずくまる。

 頭が割れるように痛み、思考がまとまらない。


「…………主よ」


 どうにか言葉を絞り出し、片手でロザリオを握る。


「……お赦しください……」


 神に仕える資格を失い、人としての道を踏み外し、信じる心を忘れ……

 私は、どこまで堕ちていくのだろう。

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