第4話

その頃、九鬼龍作は名古屋駅前の地下街にいた。余りに変わり果てた名古屋の街を探索してみたかったのである。別に大した理由はない。ホテルはもう決まっていたのだが、なぜか、どうも気分が落ち着かなかった。事件が起こるような勘ではなく、龍作には不快さを拭い去ることが出来なかった。龍作のこの不快さはわりと当たってしまう。

(しばらくは、名古屋の散策しかないな!)

ビビは相変わらず、ショルダーバッグから小さい顔を出し、キョロキョロとしていた。今日は月曜日。早苗に会うのは、土曜日だった。

「不思議な女の子・・・」

と、龍作は口元を緩めるしかなかった。

この四五日は、散策するのには、充分な時間だった。


村田裕太と早苗は地下鉄の名古屋駅切符売り場の前にいた。

「どうしたの、さえちゃん!」

早苗は地下鉄の切符売り場にいる老婆に近付いて行った。

「どうしたの?」

裕太も後をついて行く。

「ちょっとね」

そして、老婆に、

「どうしたの?」

と、話しかけた。

「ああ、すいません、赤池まで行きたいのですけど、どの販売機で買えばいいのか・・・」

と、老女は困っているふうだった。どうやら、地下鉄に乗るのは初めてのようだった。

「ああ、赤池ね。鶴舞線か、ええと・・・」

早苗は、

「ここ、ここよ。おばさん、私が買ってあげる」

こう言うと、老婆からお金を受け取って、

「はい」

と、切符を渡した。

「叔父さん、私たちも切符を買いましょ。ここ、ここよ。東山公園までね」

裕太は早苗の指示通りに、切符を買った。

「おばさん、赤池に行くのには、伏見で乗り換えがあるから、私たちがそこまで行って、乗る地下鉄を教えてあげる」

「さあ、行きましょ」

と、早苗は老婆の手を支えた。改札口で、

「さえちゃん、おはよう。さえちゃんちのお祖母さんかい?」

「笹島さん、おはよう。違うよ、赤池まで行くんだって。伏見で乗り換えがあるじゃん、私、伏見で降りて、鶴舞線に乗せて上げようと思って」

「そうかい、そうかい。ありがとうね。おばさん、さえちゃんがいて、良かったね」

(ずっと・・・いい子になったな)

と、裕太は感心していた。

伏見では、老婆の歩みに合わせ、ゆっくりと鶴舞線の乗り場まで歩いた。そして、到着した地下鉄の一番後ろの車両まで行き、顔を出した車掌に、

「あっ、多田さん、久しぶり。このおばあさん、赤池までよ。着いたら、降ろしてあげてね」

「さえちゃん、分かったよ。いつも元気だね。大丈夫、任せといて」

地下鉄に乗ったおばあさんは、早苗に頭を下げていた。


早苗と裕太は、伏見から東山線の乗った。

裕太は言葉が出て来なかった、こんなに感動している自分に驚いていた。涙が滲み出て来ていた。だが、こんな気分を台無しにしていたのは、家を出た時から後をつけて来ている金谷登である。それには、早苗も気付いていたのだが、はっきりと昨夜のあの男だと気付いていなかった。

(おかしいな、何処かで見たことがあるような、ないような・・・)

そうかといって、こんなことを裕太の叔父に聞くわけにはいかなかった。

開いていた席に座ると、裕太は、

「地下鉄・・・詳しいんだね」

と、にこにこしながら、聞いた。

「そうだよ。私の唯一の遊び場所なの」

「遊び場所か・・・ここは、私にとって、何処へでも行ける時空空間って、感じなの。聞こえて来るのは、ゴオーという不気味な音だけ・・・それでいて、いやなことが全部忘れさせてくれる唯一の場所なの。結っている人・・・見て、みんなとは言わないけど、じっと黙って座っているだけ。叔父さん、そう見えない?」

「ふぅ・・・ん、地下鉄の人・・・何も言わないの?」

「初めは怒られたの。いくつの時だったかな。八つかな。朝から夕方まで、ずっとあっちこっちと乗り回していたの。だって・・・」

早苗はちょっと悲しい表情を浮かべた。

「どうしたの?」

裕太は気になり、訊き返した。

「家に帰りたくなかったんだもの」

「どうして・・・?」

「家が嫌いだったの。お父さんもお母さんも・・・なぜだか分からないけど・・・」

「いい人だよ、慎二さんも左知さんも」

「今は・・・分かっている。あの頃は、なぜだか・・・嫌いだった」

しばらく、地下鉄のゴォーという音だけが響いていた。

「一度地下鉄の人に捕まったことがあるの。警察の人も来たの。こんなことをしちゃだめなんだよ。分かっている。分かっていたの。でも、地下鉄が好きで好きで仕方がなかった。それからも、だめだと言われても、何度も何度も地下鉄に乗った。その内、地下鉄の叔父さんたちも警察の人も、だめなんだけど許してくれた」

「そうなんだ。さえちゃん、みんなに好かれているんだね」

早苗は、

(そうかな・・・!)

という嬉しそうな表情をして、笑った。

裕太は少し離れた席にいる金谷登が気になっていた。何度も、その方に視線が動いてしまう。あのカバンを抱き抱えるように持っている。

「頼むで、しばらくこれを預かってくれ」

裕太は断った。何が入っているのか知らないが、妙に重かったのを、裕太は覚えている。

(何処までついて来るんだ)

傍まで行って、聞いてやりたかったのだが、早苗がいるから思い留まっている。


「さあ、叔父さん、入ろう。早く、コアラが見たい!」

慎二に用意してもらった入園券で、東山動物園に入った。少し歩いて、振り返ると、

「やはり、あのカバンを渡したいんだな」

と、裕太は思うしかなかった。

(楽しいはずの動物園が重苦しくなるな、大事なものなら、自分で持つ手入れはいいのに・・・)

あいつを無視して、早苗ちゃんと楽しむしかなかった。

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