第3話
「左知さん、ありがとうございました。部屋の中、一樹さんの匂いでいっぱいでしたよ」
村田裕太は、心地いい笑顔を見せた。何だか、ほっとした気分に満喫しているように見えた。
「そう、良かった」
左知も笑顔で応えた。
裕太には、その一樹に苦い思いがあった。
確か・・・
早苗が三つくらいで、一樹が六つだったと思う。叔父の家に初めて遊びに来ていた時、早苗は裕太の膝の上に乗り、遊んでいた。何でもない情景だった、ように裕太は思っていた。突然、
「お兄さんと風呂に入りたい」
と、一樹がせがんだ。
この時、左知が、きつく、
「いけません」
と、おこった。裕太にはそんな記憶が残っている。すると、何を思ったのか、一樹は裕太に唾を飛ばしたのである。見事に裕太の顔に当たった。
もちろん、左知は怒ったが・・・感情の成長し切れていない子供の行動は、責めるに責められない。しかし、けっして見逃してはいけないのだが、
「じゃ、行って来ます。さなえちゃん」
「うん」
「入園券、持ちました」
「ええ、叔父さんからちゃんと預かりましたから」
裕太は早苗に、
「お父さん、叔父さんが東山動物園の入園券を用意しておいてくれたよ」
と、言い、早苗の反応を気にした。だが、
「叔父さん、行こうか!」
早苗は素っ気ない。
「じゃ、行って来ます」
「お願いします」
左知は二人を送り出した。
さて、
その村田裕太であるが、裕太は、もともとはJR紀勢本線の南紀勝浦駅の十個ばかり名古屋よりのちいさな駅で降り、海沿いの道を東へ三百メートルほど行った所にあるスーパーの裏手の村落で育った。
村田の家は昔からの家系で、それほど多くはないが、田畑もあった。それだけでは食べていけないので、父の啓太郎は郵便局員として働き、母の由美子はやはり家計を助けるために、歩いて二十分ほどのホテルでパートとして働いていた。だから、けっして貧しいという感覚は裕太にはなかったのだが。
ただ・・・裕太には彼自身が気付かない大きな欠点があった。それは、他人から、
「あいつは見下され易い」
他人からそう見られる体質・・・そのような雰囲気が、裕太の体から漂っていたと言ってよかった。裕太の性格とは違う。性格は変えようと努力すれば、変えられる。
そうかといって、裕太は人から嫌われることはなかった。当たり前のことだった。気性も優しく、人と喧嘩や言い合いもしたことがない。そういう状況になったとしても、彼自身から引き下がるタイプだった。
その体質は性格とは違うから、三十半ばになっても変わらない。
裕太は高校を卒業すると、名古屋に出て来て、仕事に就いた。叔父の畠山慎二が名古屋にいるのが、きっかけになった。そう簡単に仕事は見つからなかったが、叔父慎二の紹介で豊田の方の自動車部品工場に働くことになった。
「ねえ、叔父さん・・・」
早苗は昨夜目にしたことを聞こうとした。だが、
「いや、何でもないわ」
と、口をつぐんだ。
そこで気になるのだが、昨夜早苗が見掛けたもう一人の男・・・金谷登である。裕太が彼と出会ったのは、全くの偶然・・・といっていい。
裕太は今も気付いていないが、金谷とは同じ中学に通った同級生だった。ただ、組は違ったようだ。だが・・・という言葉を多用するが、二人は一度も話したことがなかった。ただ、一度だけ、話したことがある。しかも、金谷の方からである。
その中学校は木造の二階建てだった。金谷登は階段の近くにいる裕太を理科室の奥に引っ張り込み、
「おい、明日、千円持って来い。でないと、小便を飲ますぞ」
と、脅しを掛けたて来た。おとなしく見え、ちょっと脅せば、こいつは何でも言うことを聞く・・・と思ったのだろう。前々から、裕太に照準を合わせ、機会があれば・・・やつてやろうと決めていた素振りがあった。その見立ては間違っていなかったことになる。
この時、裕太は呆然となり、しばらく・・・というより、何も返事が出来なかった。金谷の吊り上がった目は、裕太には言葉に出来ない恐怖だった。
そして、次の日、祖母に、
「千円」
と言って、もらって、持って行った。
裕太は身体が大きい方だったが、気性には体の大小は全く関係ない。この登という男は小さく、裕太の肩くらいしかなかった。頭が小さく、目を異常に吊り上がっていた。けっして人から好かれるタイプではなかった。
裕太は知らないが、金谷は陸上部で、走り幅跳び、高跳びの選手で、中学の県の大会にも出ていた。顔はその人の性格を物語るというが、まさに金谷はその典型の人間だった。悪さをしていなかつたようだし、中学では目立った存在ではなかった。ただ、裕太の、そういう体質を見抜かられ、裕太は金谷の餌食になってしまったといっていい。
金谷の家はそれ程裕福ではなかった。意地が悪く、心の内にある憎むべき性格を隠そうとはしない。そして、弱いものだと認識すると、徹底的に攻撃するのである。この世の中には、そういう人間は、大人子供関係なしに、存在するものである。
二人は同じ豊田市内の会社だったが、金谷は高校の時の友人とともに会社を興し、それなりの成果を上げていた。業績も順調だったのだが、その内、金谷には不満が溜まって来ていたようだ。それは・・・収入が上がらない、つまり、彼自身の給料、取り分が少ない・・・我慢に我慢を重ね、金谷は友人、橘十三男の社長室に怒鳴り込んだ。
「おい、どうなっているんだ?」
「何が!」
金谷が怒っている理由が、橘には分からなかった。
「あいつは・・・」
と金谷は目の前から来る男を睨み付けた。
「あいつか」
すれ違う時、金谷は村田裕太に声を掛けたのである。
「おい、村田じゃないか」
こう声を掛けられて、裕太は立ち止まった。
「・・・」
裕太は不審な目を向けた。まったく知らない男だった。
「俺を覚えていないのか?」
何も思い出せないのか、裕太は返事をしない。
「俺だよ、か・・・」
と言い掛けて、金谷は黙ってしまった。
(そうか、覚えていないのか・・・それなら、それでいい。あのことも覚えていないんだな)
金谷は、にんまりと口を歪めた。
この時期が、一か月ほど前である。この時には、もう金谷の計画は始まっていたことになる。
「これを・・・どうするかだ?」
金谷はネットカフェのなかで、カバンを抱き抱えていた。
「あいつに預からせるのが、一番安全なのだが・・・」
(もうちょっとの所で邪魔が入った)
いずれにしろ、今は、俺がずっと持っているわけにはいかない。またあいつに連絡するか・・・それともほかの方法を考えるかだが。早ければ、明日には騒ぎ立てる筈だ。
しかし、と金谷はにんまりとしてしまう。こんな所で、あいつに会うとは、ひょっとして俺はついているのかも知れない。
「今日の所は・・・寝るか。明日は・・・あいつが入っていった家に行って、出て来るのを待つとするか」」
金谷は、一千万円の入ったカバンを抱き締めた。その他に、手形や小切手も入っていた。
「これは、絶対に渡せない。あの会社を、あそこまでやったのは俺の力があったからだ。それなのに、橘は・・・一体何を考えているんだ!くそ。警察には届ける度胸はないはずだ」
叔父の家を出て、すぐに、こっちに向かって歩いて来る男に、裕太は気付いた。
「弱った」
と、裕太は思った。無視するしかなかった。
その男・・・金谷登とすれ違った。
裕太は早苗に、
「やっと約束が果たせたね」
と、言った。
のは、いいが、気になり、後ろを振り向くと、金谷登は後をついて来ていた。
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