第8話 落ちる影
俺が大学生の頃の話だ。
当時は週5くらいで夜中までバイトをしていて、毎回部屋へ戻るのは深夜2時くらいだった。
バイト先はオフィス街の中にあり、基本的には真っ暗なのだが残業をしているのかどのビルにもチラホラと灯りが点いているフロアもある。
「社会人は大変だな〜」と思いながら自転車を漕いで帰るのが日課になっていた。
その日もバイトが終わり事務所を出て自転車にまたがり帰路についた。
事務所を出てすぐの交差点で信号待ちしながらビルを眺める。
高いビルの最上階付近のフロアに灯りが点いてるのが目に入った。
「遅くまで仕事お疲れ様です。」
と心の中で呟いていると、フロアの灯りに薄っすらと照らされたビルの屋上に何か動くモノを見た気がした。
目を凝らすと、よく晴れた濃い青の様な夜空の背景の中で一際濃い闇色をした人影がビルの屋上で蠢いている。
残業中の休憩で一服でもしてるのか?
と思いながら眺めているとその人影は屋上のフェンスをおもむろに跨いで縁に立った。
一瞬のフリーズの後に、
「え?は?おいおい!まさか!?」
と思考がフル回転を始めるが思考だけが空回りしてるかの様に身体は動かず、ただ固まって見つめる事しかできずにいた。
それが数秒だったのか数分だったのかわからないが人影は暫くの停止のあとに、倒れる様に屋上からその身を投げた。
一瞬の間の後でゴシャリと固く重い嫌な音がした。
「あっ、、、」
自分の口から漏れ出た言葉が脳内で反芻して消えていく。脳内を沈黙が駆け抜けた後には怒涛の勢いで色々な感情が押し寄せてきた。
「ヤバイヤバイヤバイ!落ちた!救急車?警察?」
感情に押されるままに自転車を漕ぎ落下地点へ向かう。心臓は激しく脈打つものの背筋には寒気が走り冷たい汗が流れていた。
目的地までは数十メートル程しかなく間もなくビルの下に到着したが、そこで思考はまたも停止してしまった。
落下地点には何も無かった。
落ちたはずの身体も、血の跡すらなかった。
這いつくばってみたが深夜の歩道にはやはり人の落ちた形跡等なく、カラカラに乾いたガムが張り付いていただけだった。
地面に這いつくばったままの俺の横をスーツを着たオッサンが不審そうに一瞥して通り過ぎていく。
見間違い?幻覚?でもあの音は?
立ち上がり周囲を見回すがやはり人が落ちた痕跡は無かった。
深夜のオフィス街なので人気は少ないがまったく居ない訳では無い。帰宅中や飲み帰りらしい人がチラホラと歩いているが異変を感じていそうな人は居なかった。
やはり自分の見間違いだったのだろうか?
狐に摘まれたような気分になったが、俺はとりあえず帰宅することにした。
その晩は落ちてゆく人影と音が頭にこびりついて中々寝付けなかった。
翌日、午前の講義を寝過ごし午後から大学に向かい講義に出たがやはり昨夜の事を考えてしまい内容はまったく頭に入ってこなかった。
午後の講義を終わらせてまたバイトに向かった俺はバイト先の先輩にそれとなくこの周辺で飛び降りや幽霊なんかの目撃情報等が無いかを聞いてみたりもしたが、そんな話はここ数年聞いたことが無いと言われた。
バイトが終わり帰宅する為にまた自転車に乗る。
昨夜あの人影を見た交差点にさしかかりまたビルの屋上を眺める。
「昨夜はあの辺りで見たんだよな」
と例のオフィスビルを見上げると、屋上に蠢く人影を見つけた。
首筋にゾワリと鳥肌がたち、背筋を悪寒が駆け抜けた。人影は昨夜と同じようにフェンスを跨ぎ、一呼吸置いて飛び降りた。
歩道に肉塊がぶつかる嫌な音が耳に刺さる。
すぐに自転車を走らせ落下地点に向かうがやはり人が落ちた痕跡は見つからなかった。
それから翌日も、また落ちる人影をみた。やはり他の人には見えていない様だったし、音がした方にむかっても何もありはしなかった。
そのまた翌日、見上げたビルの上にまたしても人影が見えたが俺は無視して自転車を漕ぎ出した。
どうせまた幻か錯覚なのだろう。連勤も今日までだしさっさと帰って寝てしまおう。
そう思い自転車を走らせる。
あのビルの横を通り過ぎる。
「ほら、やっぱり何もな、、、」
ゴシャリ、、、!!
背後で聞き慣れた音がした。
ここまでは昨日までと同じだ。
違うのは、俺の目の前に黒いパンプスが転がって来た事だった。街灯に照らされたその靴には、何やら濃い色の液体がこびりついていた。
凍りつく思考の中で、周囲にいた数人の悲鳴や驚愕の声がこだまする。
その後、救急車を呼んだり警察の事情聴取等に突き合わされたりで帰宅したのはすっかりと朝になってからだった。落ちた女性はあのビルに入っている会社の社員で残業中だったらしい。遺書等は見つかっていないが屋上に争った形跡等は無く、突発的な自殺か事故との見方が強いとの事だった。
服も着替えずに万年床に倒れ伏して泥の様に眠る。
何故、今回は本当に人が落ちたのか?前回までの人影は何だったのか?何故、、、色々と思考は巡るが答えは出ないし身体はとっくに限界であり思考はまとまらないまま、意識は眠りへ落ちていった。
スマホの着信音で目が覚める、時刻は18時前で外は薄暗く闇が覆っていた。
画面を見るとバイト先からだ。
どうも先輩が無断欠勤をして連絡がつかないのであんな事があった後で悪いがヘルプに入って欲しいとの事だった。替わりに明日は休みにしてくれるというし、一人でいると色々と考え込んでしまいそうだったので受ける事にした。
バイトをこなしていつも通りの深夜に帰路につく。
ひとつ、気になっていることがあった。
ずっと心に引っかかっていた違和感。
一昨日まで見ていた人影、あれは男のモノだとずっと思っていた。しかし、実際に昨日飛び降りたのは女性だった。連日の幻の飛び降りは何かの予知的なものか飛び降りた人の願望のようなモノを俺が捉えてしまったのかと考えていたのだが。
前者にせよ後者にせよ、それなら人影も女性だと捉えていた方が自然な気がする。人影と飛び降りに関連があるのは間違い無いだろうが人影が飛び降りた本人と関連が無い場合、別の可能性が浮かんでくるのだ。
「あの女性が飛び降りるつもりだったから人影が見えていた」のではなく、
「あの人影が飛び降りていたから女性が飛び降りる事になった」んじゃないか?と。
そこまで考えて溜め息をつく。
変な事を考え過ぎだ。
それではあの人影が死神の様ではないか。
早く帰って寝よう。
そう思い空を見上げた瞬間に固まってしまった。
月明かりに照らされたオフィス街、眼前に双璧の様に立ち並ぶビル。
その全ての屋上に濃い闇色の人影が立っていた。
「「「ゴシャリ、、、!」」」
どこからともなくあの音が重なり響く、そのひとつが自分の背後から聞こえた。
振り向くと、バイトを休んだハズの先輩がアスファルトに転がっていた。
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