ぬいぐるみを抱えていた君へ

@zia

⑴発端

 築五十年以上のボロアパートに深夜二時。

いつものように残業を済ませた私は、古びたドアに鍵を回した。

ジジッと点くガス灯。今は令和だというのに二世代ほど前にタイムスリップしたかのような部屋である。

「…ただいま」

 今年の四月から新卒として働くことになったが、いかんせん会社がブラック企業な上に、上司からの文句で入社して三か月で早くも限界を迎えていた。このボロアパートを選んだのも、出社時間が七時とかいうクソ会社のために選んだものだ。

今日はまだ火曜日だというのに、精神的・肉体的・社会的にもガタが来ている。とはいえ何もせずに眠るのはまずいので、なんとか風呂に入り、コンビニ飯を食べる。食品添加物ばかりのこの飯にはもう飽きた。かといって自炊などは夢のまた夢だ。

――不意にLINEの通知音が鳴る。どうやら相手は大学の頃の友人である諒からだ。

「日曜日空いてる? よかったらデートしたい」

久しぶりのお誘いに少し驚きはしたが、幸いにも今週の日曜は空いていた。諒は私が大学生の頃に好意を寄せていた相手であり仲もよかった。私が短期大学に通っていたため卒業後は離ればなれになり話せていなかったものの、たまにメッセージは送り合っていた。デートというワードセンスは相変わらずだと懐かしみながら大丈夫だとLINEを送る。すると集合時間と場所を送ってきた。

楽しみにしていると送り、早く日曜になるのを待った。


 水曜日の朝七時に会社に出社する。タイムカードは流石ブラック企業といったところか、朝の九時に押すことになっている。

「おはよう朝野君。今日も七時きっかりなんだね。君の同期の子たちは一時間前に来ているのに、仕事ができない君は自覚せずに優雅な出勤だね。」

「…おはようございます、村岡部長。出勤時間には間に合ってますしから大丈夫かと思われますがどう」

「そういう口答えはできるのに作業が遅いのはどういうことなのかな?それを改善するために僕が君におすすめのアパートを紹介したんじゃないか。」

「ああ…その節はありがとうございます。では私はこれから仕事に取り掛かりますので失礼いたします。」

「まあ、精々出来損ないは出来損ないらしく泥水すすりなよ。」

…この毒吐き男が、よくもそんなに不満をぶつけられるよなと独り愚痴をこぼす。

松岡拓也部長は私の上司にあたる存在で、機嫌を取らないとすぐにこうして毒を吐く。毎日やられるものだから、すっかり慣れてしまい言い返せるくらいにはなった。といってもやはり言われるのは辛い。

 自分のデスクに行くと、昨日はきれいだったはずの机はあからさまに人が汚したように変わり果てていた。近くでクスクスと同期の笑い声が聞こえる。ブラック企業は仕事や上司だけでなく、同期までもが怖くなる。上司からの圧に不満を抱き、そしてその不満を次の新人または弱っている同期にぶつける。そしてぶつけられた新人は一年経って先輩になった後、また新人にぶつけ始める。それが続いていくのがブラック企業なのだ。

私はやられ役だ。

 なんとか汚れた机を片し、作業を始める。今日は取引先とのメールのやり取りと書類整理が主な内容だ。ある程度済ませると、もう十二時を回っていた。私のいる課は営業が主だから書類整理といってもデータはパソコンに入力しないといけない上に、こちらに回る書類が多すぎる。昼を抜くのも当たり前だ。今日は珍しく昼休憩を挟むことができる。といってもやはりコンビニ飯だ。だが最近、コンビニとチェーン店のコラボ商品が出ると聞き、気になって買ってみた。昼ご飯は、私が唯一幸せになれる時間だった。

 

昼ご飯を済ませ、デスクに戻りパソコンを開くと。

――昼までやっていたはずのデータが消えていた。

「お疲れ様、朝野君。仕事は進んでいるかな?」

松岡の声がする。あの、気持ち悪いヌメりのある声が。

「はい、順調に進んでいますが…」

「…嘘をついているな朝野。君のパソコンが見えたが何も出来上がっていないじゃないか。」

しまった、気づかれた。この事態を知られないように言い訳を考えていると、

「まあ、君は仕事ができないのは承知の上だ。精々午後も頑張ってくれよ。僕はこれから社長との面会だ。」

と言い、去って行った。

何とか事無きを得たと思いデスクにつく。すると、同期が松岡の元に駆けよるのを見た。

「…松岡部長、これ朝野が今日やっていたデータです。いわれていたように処理しておきました。」

「…よくやった、またよろしく頼むよ。」


 会話の内容が聞こえてしまった。嗚呼、そういうことだったか。

みんなして、私を要らないと思っていたのか。

 今まで何をされても耐える自信があった、いろんなことを乗り越えていけると思った。

 そこからの記憶は夜まで無い。無心で仕事をしていたのかも、上司に罵詈雑言のありとあらゆる悪口を言われていたのかもわからない。気づけばいつもの時間にまでなっていた。タイムカードは午後五時に切っていたので、後は帰るだけだった。

 帰り道、いつもより足に力が入らない。近いといっても十五分だ。坂道だらけの帰路をとぼとぼ歩く。

 不意に転げてしまう。体を起こし、立ち上がる。

瞬間、眩暈がした。視界がぼやけ、歪んでいく。これが過労死なんだと思うと、自分の人生はこれで終わるんだと半ば自嘲気味になった。

 そして私は、意識を手放した。

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